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いい奴だから……困る

『くそっ! リュカの奴、腹が立つ。あれほど手を出すなと言ったのに!』

 部屋の中央では、怒りが収まらないロイクがぐるぐるぐるぐる歩き回っていた。獣の姿は現れていないが、黒い不穏なもやを全身に纏っている。

 ようやく涙が止まった伯爵は、腕組みをしながら窓際に寄りかかり、怒りを発散するロイクを冷ややかに見ていた。

『いい加減にしたらどうだ、ロイク。そう目くじらを立てることもないだろう。あいつは、いい奴だ』

『それくらい、分かってる。あいつはいい奴だ。だけど、だめだ。あいつは……ずっと、ここにいてくれる訳じゃないんだ。奴がいなくなったら、アレットは……』

 纏っていた黒いもやが消え失せた。立ち上がっていた耳もしっぽも力なく下がり、木の床に座り込んでうなだれる。

『…………そうだな』

 伯爵がゆっくりと、窓の外に視線を移した。


 しばらくして、リュカが扉の前まで戻ってくると、部屋の中は静まり返っているようだった。

 そろそろ、ほとぼりがさめただろうか?

 おそるおそる扉を開けると、亡霊たちの眼が一斉にこちらに向いた。

『戻ってくるなっ! あっちへ行け!』

 不機嫌そうに叫ぶロイクを無視して、何事もなかったかのように室内に入る。

 右手に持っている鍋の中身をこぼさないように注意しながら、もう一方の腕で、部屋の隅に置いてある椅子の背もたれを抱える。そしてアレットの枕元までいくと、ベッドの横に椅子を置き、その座面に鍋を乗せた。

『なあに? 何が入ってるの?』

 ミリアンが興味津々の顔で近づいてきて、鍋の中を覗き込んだ。

『…………え? 水ぅ? なぁんだ、ごちそうじゃないの?』

「ははは。違うよ。ただの水。どこに何があるか分からなかったから、鍋にしたんだ。アレット、熱があるんだよ」

 そう説明しながら、どこからともなくハンカチを取り出し、鍋の中の水に浸して軽く絞った。アレットの額にかかる髪をそっと指でどかして濡れたハンカチを乗せると、その上に手を置いた。

 ひんやりしたハンカチが心地よいのか、彼女がほっと息をついた。

 ロイクと伯爵は、それぞれ複雑な思いを抱えながら、その様子を見守っていた。

『そうなんだ。いい奴だから……困る』

 ロイクが顔をしかめ、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。

「さて……と。伯爵、ロイク、下で話せるか?」

 癒しの呪文を何度か唱えた後、リュカが振り返って二人に声をかけた。

 未だ目覚めないアレットのことは気がかりだが、時間がもったいなかった。それに、彼女がいなければ、これ以上辛い話を聞かせなくてもすむ。

『あぁ』

『大丈夫だ』

 すると、名前を呼ばれなかったミリアンが、仲間はずれにされたと思ったのだろう。不満そうに頬を膨らませた。

「ミリアンはアレットについていてくれないかい? 俺らは下の部屋にいるから、彼女に何か変わったことがあったら、すぐに知らせてくれ」

 ミリアンの頭を優しくなでながら言い聞かせると、役目をもらった少女が眼を輝かせた。

『うん。分かった!』

「ときどき、ハンカチを絞って……っと、亡霊には、さすがにそれは無理か」

『えーっ。そんなの簡単よ!』

 そう言うと、ミリアンは振り返ってアレットを見た。

 額に乗せられていたハンカチがふわりと浮いて空中を滑り、鍋の中の水にぱしゃりと落ちた。そして、すぐにまた宙に浮かび上がると、見えない手で絞っているようにハンカチが絞られ、額に戻っていく。

「うわっ。そんなことできるの?……俺よりずっと奇術師みたいだな」

 リュカが驚きの声を上げた。

 人の注意を引くために、物を動かす亡霊はよくいるが、これほど見事にコントロールできる亡霊は初めて見た。

『知らなかったのぉ? さっきから、ずっとやってたじゃない。玄関の鍵を開けたり、ドアを開けたのはアタシなんだから! ランプに火もつけたのよ』

「言われてみればそうだ……勝手に扉が開いたもんな。俺、アレットを運ぶのに精一杯で、気に止めてなかったけど、そっかー、あれは、ミリアンだったんだ。これなら、アレットの看病を任せても安心だな」

『そうよ、任せて! 私、ずっと看病してもらってたから、看病の仕方だって知ってるわ。アレットをちゃーんとみててあげる』

 重い病気の痕跡を残すやせ細った青白い顔で、ミリアンが自信満々に胸をはった。

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