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普通する……だろ?

 家に戻ると、アレットをそっとベッドに横たえた。

 意識がない彼女を抱き上げて、かなりの距離を歩いてきた。彼女は重くはなかったが、ごく平均的な体格のリュカには、相当きつかった。意地だけで彼女を運んだ腕も、肩も、腰も、ばきばきに強ばっている。

「いたた……。もっと、鍛えないとだめだよな」

 ごりごり軋む肩を回しながら、顔をしかめて独りごちると、汗を拭い一息ついた。

「みんな、ちょっと離れてたほうがいいよ」

 首の細い鎖を指で引っ掛けてて振り返ると、亡霊たちはぎょっとした顔で、全員がすごい勢いで反対側の壁まで後ずさった。

 リュカはその予想通りの反応にくすくす笑うと、彼女の枕元に腰掛け、左手にクロスを握った。

「神聖なる天の光よ。大いなる大地の脈動よ……」

 薄く汗が浮かぶ彼女の額に右手を置いて、眼を閉じて呪文を唱え始める。

「その尊き力の薄片を、このささやかなる手に分け与えたまえ」

 同じ文言を最初からゆっくり、あと二回繰り返す。そして右手をそのままに、彼女の顔をじっと見つめる。

 さっきまで青ざめていた彼女の顔は、今は赤く上気している。掌に伝わってくる体温も高い。呼吸は浅く早く、苦しそうだ。

「ごめん。もうちょっと早く、止められたら良かったんだけど……」

 彼女を運びながら、もっと別の方法がなかったかと、ぐるぐると考えた。そして、除霊が最良の方法だったと結論を出したものの、彼女の苦しそうな顔を見る度に、自責の念に駆られてしまう。

 リュカは深い溜め息をつくと、もう一度、同じ呪文を繰り返した。そして、右手をどけると、同じ場所にそっと唇を押しあてた。

『リュカっ!』

「え?」

 怒鳴り声に振り返ると、ロイクが怒りで全身の毛を逆立てていた。しかし、クロスを握ったままのリュカには近づけないから、離れた場所から、ものすごい剣幕で怒声を浴びせてくる。

『貴様っ! まったくお前は、油断も隙もない奴だ! 早く、そのクロスを片付けろっ! 早くしろ!』

 黒猫の小さな体の上に、毛を逆立てて牙をむく、大きな獣の幻がゆらりと立ち上る。

 なんだ? なにをそんなに怒ってるんだ?

 その迫力に驚きながらも、首を傾げ、シャツの下にクロスを滑り込ませた。

 怒りの幻影を纏い付かせ、ゆっくり近づいてきたロイクが、瞳孔を開いた丸い眼で睨む。

『なんだ、さっきのは』

「なんだ……って、手かざしして、癒しの呪文を唱えただけだけど? 確かにあれは、気休めぐらいにしかならないけどさ」

『そうじゃない。その後だ!』

「その後? …………あ」

 ようやく、ロイクが激怒している理由に思い当たった。

 あれは、ほとんど無意識の行為だった。もし、倒れたのがミリアンだったとしても、同じことをしたはずだ。誰かに、責められるようなことではない。

 しかし、こんな風にロイクに非難されると、なんだか後ろめたくなってくる。アレットに触れた唇が、彼女の肌のしっとりとした感触や、伝わってきた体温を思い出す。

 顔がかっと赤くなるのを感じて、口元を手で押さえた。

「いや、あれは……その、普通……する、だろ?」

 弁明の言葉も、しどろもどろだ。

 これではまるで、本当に悪さをしてしまったみたいじゃないか。

 ロイクは体を低くして、攻撃態勢を取っている。怒りの幻影もみるみる膨張していく。

 違う! そうじゃないったら!

 怒りに狂う彼を納得させられそうになくて、救いを求めて視線をさまよわせると、ミリアンの姿が眼に入った。

「な、なぁ、ミリアン。お前、病気で寝ている時、お父さんや、お母さんがキスしてくれなかったか?」

 そう聞かれて、ミリアンが嬉しそうな顔になった。

『うん。してくれたよ。リュカはおでこにしてたけど、アタシのお父さんは、両方のほっぺにちゅってしてくれたわ。お母さんはね、ほっぺと鼻の頭と……あ、おでこにも!』

「そういうことだ。ロイク」

 リュカがしてやったりといった顔で、腕を組んでロイクを見下ろした。

 黒猫は同じ姿勢のまま、金色の眼を光らせてこちらを睨んでいたが、膨れ上がった獣の姿が不安定にゆらいでいる。やがて、獣の影はしゅるりと小さな体にすいこまれていき、黒猫はぷいっと横を向いた。

 よしっ。勝った!

 そう、胸を撫で下ろしていると、窓際に佇んでいた伯爵が一歩前に出た。

『いや、違う』

「な、なんだよ。伯爵」

 突然、話に割って入ってきた思わぬ伏兵にたじろぐ。

『さっきのは違う。お前は彼女の父親ではない』

「そりゃそうだけど……。じゃあ、違うって言うんだったら、本当はなんだよ?」

『それは……』

 苦しまぎれの問い返しに、伯爵は言葉を詰まらせた。そして、まるでその言葉の続きのように、琥珀色の瞳から涙が流れ落ちた。

「えええええっ。なんで泣くの。伯爵!」

 しかし、伝わってくるのはいつもの絶望感ではない。甘く切ない、ラグドゥース王女への想い。おそらく彼は、さっきの額へのキスに、自分と王女との思い出を重ねたのだ。

 さっきのあの行為は、純粋に彼女の身を案じてのものだったと断言できる。けれども、彼女に触れたときに感じた胸の高鳴りは、父親であれば起こらない。

「伯爵、そんな涙も流すんだな。何を思い出したか知らないけど……。そうだよなぁ。伯爵だって、元は人間の男だったんだもんな」

 伯爵との間に通じ合うものを感じてにやりと笑って見せると、彼は涙をこぼしながら、震える唇の端をほんの少し上げた。

 そんな二人のやり取りを見ていたロイクが血相を変えた。

『リュカ! お前、やっぱりっ!』

「わわわっ! ち、違うっ! 違うって言ってるだろ!」

 このままでは、どうにも分が悪い。

 リュカは扉の取っ手に手をかけると、慌てて廊下に出た。

『卑怯者! 逃げるなーっ!』

 やれやれ……。ロイクの過保護にも困ったもんだ。

 後ろ手に扉を閉めて、ロイクの叫び声を遮断すると、リュカはがしがしと頭をかきながら、階下に降りていった。

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