お願い! 今すぐこれを片付けて!
足元に落ちたかじりかけの林檎が転がっていく。
「君! 待って!」
駆け出しながら、シャツの下にかけてあった古い銀のクロスを首元から引っぱり出し、左手に握る。そして、亜麻色の髪の少女の前まで来ると、その華奢な肩を右手で掴んだ。
「大丈夫? ちょっと、じっとしてて」
「きゃ……。なに?」
目元に変なメイクをした、派手な姿の見知らぬ青年に突然肩を掴まれて、少女は小さく悲鳴を上げた。
彼女の周りにあった三対の目が、驚きを乗せて彼を見た。
それに構わず、クロスを握った左手を唇に当てて、目を伏せる。
「永遠の闇をさまよう、この世ならぬ者。悲しみと苦しみの鎖に絡めとられし……」
呪文の言葉を、静かに唱え始める。
『キャーッ。なにっ?』
『うわぁ! …………くっ』
リュカが肩を掴んでいる少女以外の二人が、胸を押さえて苦しみ始めた。黒猫は地面に座り込み、全身の毛を逆立てて唸っている。
「え? みんなどうしちゃったの?」
少女の不安げな視線が、おろおろと周りを彷徨う。そして、この異変の原因が、目の前の青年と彼の手の中のクロスにあると気付いた。
「やめて、やめて! この人たちに酷いことしないでっ!」
クロスを握っていた左手が、強い制止の言葉と共にいきなり引っ張られた。呪文に集中していたリュカが驚いて目を上げると、必死な顔をした少女が自分を見上げていた。
「お願い! 今すぐこれを片付けて! 早くっ!」
「え、これ……って? このクロス?」
「そうよ、早くして! みんな、苦しんでるじゃない」
涙目で訴える少女の勢いに押されて、言われるままクロスをシャツの下に滑り込ませると、少女はホッとした表情を見せた。
地面に崩れ落ちてもがいていた彼女以外の者たちが、苦痛から解放されて脱力した。やや置いて、一斉に非難の声を浴びせてくる。
『無礼な! 貴様、いきなり何をするか! 名を名乗れ』
『突然、酷いわ! あんまりよ! アタシたち、何もしてないのに……』
『乱暴にもほどがある!』
「な……んで?」
リュカが呆然とする。何が起こっているのか分からなかった。
彼女に取り憑いている亡霊を、除霊してあげようと思ったのに——。
この世に強い未練を残したまま亡くなり、亡霊となってしまった者は、生者がその願いを叶える手助けをするか、除霊しなければ、いつまでも消えることができない。
理想的な解決方法は前者だ。後者の除霊は彼らの未練が解決されないまま、強制的に天に送ってしまうことになるし、強い苦痛も伴う。
だから、除霊しようとしたことを亡霊に非難されるのは仕方ないけど……。
もしかして、この少女は亡霊達をかばっている?
「あのさ……君」
「アレットよ」
「アレット、分かってんの? 君、三体の亡霊に取り憑かれてるんだよ」
「分かってるわ。でも、みんな友達よ」
「はい?」
全く予想できない答えが帰ってきた。
子どもの亡霊が彼女の後ろから顔を出して、あっかんべーをした。貴族風の男は、腕を組んで憮然としている。黒猫は、まだ、毛を逆立てたまま睨んでいる。
リュカは彼女と亡霊達を見回した。
友達だって? 亡霊が? ……ってことはつまり。
「友達だから、追い払ってほしくない。そういうこと?」
「そう!」
少女のきっぱりとした答えに、リュカは額を手で押さえた。
「……分かった。ごめん、余計なことをしたんだね」
「そうよ。みんなに謝って!」
憤慨する少女と三体の亡霊に睨まれ、もう一度「ごめん」と口にしたが、今ひとつ納得がいかない。
「……だけど、取り憑かれた状態ってのは、君にとっても、亡霊達にとっても良くないことなんだよ。それだけは覚えておいて。……じゃ」
それだけ言って右手を振ると、踵を返して荷物の方へ歩き出した。
なんだか、どっと疲れた。
だけど、彼女のことをこのまま放っておいて良いのだろうか。
「せっかく、かわいい娘なのにな。一体でも大変なことなのに、三体も取り憑いているってのは、かなり問題だよな……。どうしたもんだか」
ぶつぶつ言いながら歩いていると、後ろから軽い足音が追いかけて来た。
「ねえ、待って! 赤いダイヤの人」
「赤い、ダイヤの……って、俺?」
リュカが苦笑して立ち止まり、ゆっくり振り返った。
「えと……ごめんなさい、あの……」
吸い込まれそうに綺麗な瞳が、上目遣いで自分を見上げていた。
ちょっと恥ずかしいのか、白い頬にはほんのり赤みが差している。長い髪が、風にふわりと放たれて輝く。
いや、もう、本当にかわいい。——変な娘だけど。
「……リュカだよ。どうかした?」
さっき、あれだけ怒っていたのだから、声をかけるのは勇気がいっただろう。
そう思うと優しくしてあげたくなって、自然と口元に笑みが浮かんだ。
すると、少女がおずおずと口を開いた。
「あの……リュカは、この人たちのこと、視えるの?」
「ん? あぁ、視えるよ。なんで?」
「わたしには、視えないの。声が聞こえるだけで……」
「あぁ、そっか」
つまり、彼女は亡霊を引き寄せてしまう霊媒体質なだけで、霊能者ではないということだ。亡霊を三体同時に依り付かせるとは、なんて強力で、困った体質だろう。
「ね、どんな風に視えるの?」
「どんなって……普通に。女の子と男の人と猫がいるように視えるよ」
「どんな人たちなの?」
「えーっと……。そうだな、少し、座って話そうか」
噴水まで戻り縁に腰掛けると、アレットが右隣にちょこんと座った。
彼女の膝に黒猫、右側に小さい女の子が座り、後ろに貴族風の男が、噴水の水にすねまで浸かるようにして立った。
「何も、そんな水の中に立たなくても……。亡霊だから、気にならないのかもしれないけど、縁に座れば? 貴方に後ろに立たれるのは、すごく落ち着かないんだけど」
振り仰ぐようにして男を見上げると、彼は腕を組んでリュカを斜に見下ろした。琥珀色の瞳でじっと睨むだけで、唇は固く結んでいる。そこから動く気はないらしい。
首筋にヒリヒリとした敵意を感じて、リュカは苦笑いした。




