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アレット、ただいま

 この日は平日だったが、思ったよりも観客は集まった。昨日も観たという人や、噂を聞きつけたという人もいて、広場にいた人々を独り占めしたような状態。歓声と拍手も多ければ、帽子に投げ入れられたチップも多かった。

 午前中に撮影した写真の仕上がりもすこぶる良く、写真館の店主が感動のあまり、代金を受け取らなかったくらいだった。

 リュカは、ごろごろと大きな音を立てる荷物を引っぱりながら、ご機嫌で帰途についた。

 こぢんまりした、二階立ての一軒家。宿屋ではない、ごく普通の家に入っていくのは、不思議な感覚だった。まるで畑のような花壇の間を通り抜け、玄関扉の前に立つ。一瞬の妙なためらいの後、扉をノックすると、ミリアンが扉をすり抜けて出て来た。

『鍵、開いてるよー』

「あぁ、ありがとう。ミリアン」

 迎えに出てくれたミリアンの頭を撫でて、扉を開けて中に入る。

 向こうのテーブルで仕事をしているアレットの姿に、一瞬迷って声をかける。

「アレット、ただいま」

 ずっと使うことのなかった言葉が、なんとなくこそばゆい。

「お帰りなさい。リュカ」

 作業の手を止めて顔を上げたアレットの、ごく自然な言葉と嬉しそうな明るい笑顔に迎えられ、胸がどきりとした。

 けれども、花が咲いたような笑顔が見えたのは、ほんの一瞬。

 彼女はすぐに手元に眼を落とすと、作業に戻った。

「ごめんなさい、あと少しでキリのいい所までできるから……」

 彼女が真剣な目を向けているのは、昨日の白く透ける大きな布。その布にはめられた丸い枠を左手に持ち、白い糸を通した針を持った右手をせわしなく動かしている。

「忙しそうだね」

 リュカは、そんな彼女の後ろに回り込むと、肩口から手元を覗き込んだ。

 白い布の上を、彼女の細く白い指がしなやかに滑っていく度に、白い百合の花が少しずつ描かれていく。その鮮やかな手つきは、タネのない奇術を見ているようだ。

「これは、すごいな……」

 ついつい、感嘆の声が漏れた。

「この花はね、ネージュ・リリーっていうの。春、一番最初に雪を割って咲く小さな花で、純潔とか無垢っていう意味があるの。花嫁のベールにこの花の刺繍を入れるのが、ラグドゥースの伝統なのよ」

「へぇ。そうなんだ。その布の端っこまで、白い花を刺繍したら終わり?」

 大きなテーブルの二倍以上の長さの布に、連続した花の模様が、すでに数十個縫い付けられている。

 これだけ刺繍するのに、一体どれだけの時間がかかるだろう。

 考えただけで気が遠くなる。

 会話しながらも、彼女の指は先程までと全く変わらず、一定のリズムで軽やかに動き続けている。

 小さくて綺麗な、しかし熟練した職人の手。

 縫い付けられた繊細な花模様よりも何よりも、その手に目が引きつけられる。

 もう少しよく見たくて、彼女の後ろから顔をのぞかせた。

「伯爵もネージュ・リリーを探してたのよ」

「伯爵が? …………うわっ!」

 突然、真っ黒なものが視界を遮った。

 リュカが驚いて後ろに飛び退くと、怒声が浴びせられる。

『近いっ!』

 アレットの肩の向こうから、真っ黒に縁取られた金色の眼がぎろりと睨み、牙をむいて威嚇している。

「な、何だよ、ロイク。びっくりさせるなよっ!」

『もっと、離れろ』

「え? ロイク? リュカもどうしたの?」

 耳元でロイクの声を聞いたアレットが、手を止めて振り返った。目の前に威嚇を続けるロイクがいるが、彼女の目は、黒猫の身体を通り抜けてその向こうのリュカを見る。

 逆に、リュカからは黒猫の頭が邪魔になって彼女の顔は見えない。

「は……はは。何でもないよ。ロイクが急に目の前に出て来たから、びっくりしただけ」

 バクバクする心臓を押さえ、睨み続けている黒猫を見ながら苦笑いする。

「ロイクも、ここにいるの?」

「あぁ。そこに……君の眼の前にいる」

 リュカはロイクを指差したが、アレットにとっては自分の顔を指差されたようなものだから、不思議そうに辺りを見回した。

 ロイクは、そんなアレットの頬に頭をすりつけて甘える素振りを見せながらも、冷え冷えとした横目で睨んでいる。

「そんなに睨むなよ、ロイク。俺はもうちょっと近くで、アレットの仕事を見たかっただけなんだからさ」

 大げさに肩をすくめてみせると、ロイクはぷいとそっぽを向いた。

 まったく、過保護な奴……。

 リュカは軽く溜め息をつくと、仕事道具の入ったワインの木箱を抱えて、二階の部屋に向かった。階段の途中で、ふと思い出して振り返る。

「アレット、仕事が一区切りついたら休憩しないか? 今朝の写真、もらってきたから」

「うん。どうだった?」

 弾んだ声が返ってくる。

「すごく、よく撮れてたよ。楽しみにしてて」

 彼女の喜ぶ顔を想像するだけで、勝手に口元が緩み、うきうきした気分になる。

 リュカは軽快な足音を響かせて、階段を駆け上った。

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