刺殺事件
気が付いたら彼はそこに立っていた。
周囲は高い岩の壁に囲まれて遠くが見えず、見上げれは薄紫色の空しか見えない。それは物寂しい光景であった。
ふと気づくと、目の前には巨大な獣がいつの間にか姿を現していた――
それは銀色に輝く獣毛、姿は獅子のようでありながら象のように巨大で、鋭い牙や爪を持つ獣である。
獣は首に太く長い鎖が繋がれている。その場から離れられないように強固な鎖で拘束されているかのようであった。
彼はこれらを見て全て理解した。
「なんだ……またこの場所か…………」
彼の名前は氷山恭介。彼はこれを夢だと理解していた。彼がそう思ったのは今回が初めてではないからである。
「なんだい『ムシャナ』……なにか用があるの?」
獣の名前はムシャナ。妖獣の類である。
それらは全てこの獣が教えてくれた。
ここは氷山恭介の夢の世界であり、ムシャナの唯一の領域でもあった。
「来たか恭介……」
――鎖で拘束された巨大な獣が頭を擡げた。
「何でこんな所に呼び出すんだよ……話なら起きている時でも普通に会話できるだろ……おまえ、ひょっとしてあれか? 寂しがり屋さんなのか?」
「ほざけ、誰がおまえの顔なんか見たがるものか……それに言いたい事は分かっている筈だ。俺がおまえに望む事はたったひとつだ……」
「ああ、アレか……鎖を解けと言いたいのか……」
「当然だ。この鎖の所為で俺はこの場所から抜け出すことが出来ない……おまえは小さいガキの頃に言ったよな、この俺を助けてくれると……確かにガキの頃のおまえでは力が無くて鎖を断ち切ることなど無理だ。それは分かる……だが、今も尚その方法を探しもしないのはナゼだ!?」
妖獣ムシャナは氷山と共にあった。それは彼が赤子として世に産まれ出た時より、ムシャナも彼の中に居たのだ。
「……ああ、アレは今のところ保留中だ……」
「あ、何で!?」
「だって、あれは何も分からない子供の頃の口約束だからな……ムシャナは口は悪いが悪い奴じゃないと僕は思う……」
「じゃ、何で?」
「首に繋がれたその鎖だよ!」
「ぐっ…………」
――ムシャナは言葉を詰まらせた。
小さく無邪気な子供なら鎖に繋がれて動けないムシャナを見て助けてあげたいと思う気持ちは分かる。だが、彼も今や15歳――この鎖を見て何か重要な意味があるのだと思うのが普通である。
「ムシャナを外に出さない為の強固な鎖……ひょっとして何か悪さをして封じられているとか! おまえ、僕に何か隠している事があるだろ!?」
「ば、ばかを言え……ここはおまえの中だぞ、誰が何の為にこんな所に封じる必要がある。考えすぎだバカモノ!」
「それもそうだな……兎に角だ、ムシャナは何かを隠している。それを僕に話すまで鎖を解くようなことは絶対にないからね!!」
氷山はクルリと後ろを向いてスタスタと歩きだした。
「待て、コラッ!!」
遠ざかる彼の後姿が白い霧の中へと消えていった。
「くそっ……昔の事なんざ話す訳ねーだろ……」
――ムシャナは、まだ何か言いたそうであったが敢えて言葉を口にしなかった。
翌日、氷山恭介は眠たい目をこすりながら、彼の通う桜美学園高等学校への道のりをトボトボと歩いていた。
風紀委員の一年である彼は、その仕事の為に普段よりも早く登校しなければならない。
こんな早くから登校するのは自分達と運動部の朝練に参加する生徒くらいなもので、その他の普通の生徒達の姿は無い。
そして、学園の正門を通り過ぎた所で、彼は背中を強く叩かれた。
「おはよう、恭介!!」
後ろから勢い良く走り寄る者の気配は感じていたが、まさか彼女だとは思わなかった。
彼女の名前は真崎恵美。氷山と同じ風紀委員に所属の一年生である。
「どうしたの? 朝からずいぶん眠たそうだけど……」
「うん……昨夜の夢見が悪くて少し寝不足気味なんだ……」
「シャキッとしなさい、男の子なんでしょ! そんな顔で理香子先輩の前に出てみなさい。きっと怒鳴られるよ!」
「あの人か……ちょっと苦手なんだよね。怖いところがあるし……」
「ならキチットしなさい。理香子先輩は甘えに厳しい人なの、自分にも・他人にもね!」
彼らは他愛のない会話をしながら校舎に向かって歩いていた。すると突然、周囲に響き渡るような大きな悲鳴が聞こてきた――
「きゃぁぁぁぁぁあ――!!」
突然聞こえた悲鳴に二人は驚く。
「えっ!? 何、いまの聞こえた?」
「女性の声に聞こえたけど……何かがあったのかもしれない」
「すぐ近くね、行ってみましょう!」
二人は走った。
それほどの距離は要しなかった。校舎の陰で他の生徒達の目の届かないような場所に一塊の集団があった。
そして、走りながらでも分かったのは倒れている人が居ること。
目にした瞬間、それがヤバイ事であることは理解できた。
「うっ、そんな…………」
――血溜まりの中に一人の女子生徒が倒れていたのである。
「君が刺したの……?」
――氷山はナイフを持って立ち尽くす女子生徒に言った。
返り血を浴びた髪の長い生徒。彼女の周辺には仲間らしき人が数人――男子生徒が三人と女子生徒が一人。彼らもまた、どう対処すれば良いのか分からずに茫然として立ったままである。
「何でこんなことを……?」
彼はなるべく相手を刺激しないようにそっと聞いた。
その女子生徒は激高するでも相手を刺したことに怖れるでもなく、無言で立っていた。
そして、彼女はその場にナイフを投げ捨てると猛然と走りだした。
「え、逃げた……待てよ、おいっ!!」
――氷山はすぐにその生徒の姿を追った。
真崎は倒れている女子生徒の様子を伺うが危険な状態にあることは一目瞭然であった。、 血の気の失せた青い顔に流れ出したおびただしい量の血液。わずかな時間も無駄にできない事態である。
「あんた達何をしているの!? 早く救急車に連絡を!! それと先生達も呼んで来て!」
「ああ、分かった。沢渡と田中、おまえ達は職員室に行って教師を呼んできてくれ。それと救急車の手配もだ!!」
「はい、部長。よし急ぐぞ田中!」
――二人は職員室に向かって走り出した。
この場に集まっていたのは全て文芸部の人間であり、教師を呼ぶ為に二人に指示を出したのは部長の久遠章吾である。
彼は同じ文芸部の仲間である三木静香と伴にこの場に残ることを選んだ。
「私は恭介の後を追うから彼女をお願い!」
――真崎は逃げた生徒のことが心配になり、氷山の後を追うことにした。
「待つんだっ!! 逃げてもどうしようもないぞ!!」
氷山は叫んだ。だが、女子生徒は止まらない。彼は学園内で逃げ場など無いと思いつつも彼女の後姿を追った。
そして、彼女は校舎外側の非常階段を上へと登り始めた――
非常階段を通じて校舎内に逃げ込むのなら話は分かる。だが、目的としている場所が屋上であった場合、それは最悪となる。
「おいおい、まさか変な事を考えてないよな。
お願いだから馬鹿なマネはやめてくれよな」
彼が非常階段を駆け上がろうとした時、後方から真崎の声が響いた――
「恭介ーっ!!」
「真崎さん……後を追って来たのか……」
「彼女は何処!?」
「この非常階段を上がっている。目的が屋上だとするとマズイ、急ぐよ!!」
「了解!」
二人は急いで階段を駆け上がる。逃げている彼女の足音は上へと向かっている。どうやら校舎内には逃げていないようだ。
そして、氷山と真崎の二人はついに校舎の屋上へと出た――
二人が目にしたのは屋上の柵の外側に居る彼女の姿。考えていた最悪の結果がそこにあった。
「ちょっと何をしているの……そんな所に居たら危ないじゃない……」
真崎の声は震えていた。
「まさか……彼女、死ぬつもりなのか?」
屋上から飛び降りようとしている人間を前に二人は近付くことも出来ない。下手に動いたら彼女はきっと飛び降りる。そう思ったからだ。
「や、やめなよ……こんなの良くないよ。彼女だってきっと助かる。こんな逃げ方は卑怯だ、ちゃんとあなたの口から謝らなきゃ……」
――真崎は必死に説得をした。
だが、柵の外側の彼女は何一つ喋ろうとしない。
「そうだよ、真崎さんの言うとおりだ。何が有ったのか知らないけれど、謝ればきっと彼女も許してくれるから!」
その時、柵の外側の彼女はゆっくりと振り向いた。
二人は彼女が考え直してくれたと思った。だが、実はそうではなかった――
彼女は後ろへと歩を進め足を踏み外した。
彼女の体が遠ざかり、腰まである長い髪が風になびいた。
「駄目ーーっ!!!」
真崎は大声で叫びながら駆け寄ったが、その手は彼女に届かない。彼女を助けることは出来なかった。
真崎と対照的に氷山は動かなかった。
いや、この場合、動こうとしたが動けなかったと言うのが正解かもしれない。
彼女が飛び降りる瞬間、異様な光景を目にしたからである。
それは、彼女がこちらを振り向いた時の表情であった。
彼女の口元は笑っていた。彼女は微笑みながら後方へと飛んだのである。
その感じた違和感により動き出すことが出来なかった。
彼は呆然として、その場に立ち尽くした。
「何も出来なかった……目の前の人さえ助けることが出来ないなんて、何でこんなに無力なんだろう……」
その場に膝を落とし彼女は涙を流した。