寄生虫
この日、彼はとても疲れていた。
部活の用事で学校から家に帰ったのが午後七時を過ぎた時間帯であり、食事を終えた彼が自分の部屋のベッドで横になっただけで、直ぐに睡魔に襲われて眠りに落ちてしまったのは無理もないことであった。
彼の名前は久遠章吾――学園の部活動で文芸部の部長をやっていた。
照明が煌々と輝き、明るい部屋の中を何やらカサカサと動く物体があった。
それは体長が三センチ程の黒い虫であった。
だが、それはゴキブリなどの見慣れたものではない。容姿はフナムシやワラジムシに似ているが、それらとは明らかに違う生き物であった。
その虫のような物がベッドの上に這い上がり、彼の顔の近くまで近付いて来た。
彼は寝息をたてて気持ちよく眠っていた。 だからこそ、小さく音も立てずに動く虫の存在に気がつく筈もなかった。
やがて、虫は彼の顔の付近に近付き、半分開いた口から体内へと侵入していった。
よほど眠気が強かった為であろうか、彼が虫の存在に気が付いて目を覚ますことはなかったのである。
次の日の放課後――
久遠章吾が在籍している桜美学園高等学校では、北校舎と南校舎の二つの校舎に分かれており、そのうちの四階建ての北校舎の一室に文芸部の部室はあった。
部室には部長の久遠が一人きりで本を読んでいた。やがて来るであろう部員達を待っているのである。
程なくして、廊下に響く足音がゆっくりと部室近づき、扉がガラリと開いた。
「あら、久遠君早いのね!」
彼女の名前は三木静香。彼と同じ文芸部の三年である。
「やぁ、たまには早く来て静かな場所で本を読むのもいいかなと思って……」
「さすが、文芸部の部長さん。で、熱心に何の本を読んでいるの?」
「ふふっ……見たい?」
久遠は勿体ぶるような言い回しで、そっと本を閉じて三木の前に差し出した。
「き、寄生虫学……へぇ、変わった本を読んでいるのね……こういうのは私はちょっと遠慮したいかな。あははっ……」
彼女は笑顔を作っていたが内心は引いていた。
「喉が渇いたね。何か飲む? コーヒーでいいかな?」
久遠は立ち上がって、部費で購入したインスタントコーヒーを紙コップに入れて電気ポットから湯を注いだ。
「あら、お茶を飲むなら私が入れるのに……」
「ははは、いいよ。ちょうど僕が飲みたいと思ってお湯を沸かしていた所だから……三木さんは、そのまま座ってて良いよ」
「そう、悪いわね……」
久遠は二つ用意したコーヒーのうちの一つを彼女に手渡した。
「はい、どうぞ!」
「どうもありがとう」
彼女はニッコリと微笑んでお礼を言った。
「ところで、三木さんは知っているかな?」
久遠は机を挟んで席の反対側に座り、上機嫌な表情で彼女に話題を振った。
「ん、なんの話?」
「寄生虫の話」
久遠がニッコリと笑う。
彼女は一瞬不快感を覚えたが、彼が極上の笑顔で笑う為、内心では聞きたくはなかったが断ることは出来なかった。
「あぁ……寄生虫ね……」
「そう。寄生虫のちょっと不思議な話!」
「不思議な話……?」
「そう。三木さん寄生虫が宿主の体を操ると言うのは聞いたことある?」
「まさか……だって寄生虫でしょ? あんなのがどうやって……」
「ロイコクロリディウム。カタツムリの触覚に寄生してイモムシのように擬態する寄生虫なんだけどね。こいつが凄いのは宿主の体を操って鳥の目の付きやすい場所まで誘導することなんだ。普段は日陰を好むカタツムリを日の当たる明るい場所に誘導するんだ。鳥に食べられやすいようにね」
「自らが鳥の餌になる為に?」
「そう。このロイコクロリディウムの最終宿主は鳥。鳥の腹の中で卵を産むために中間宿主のカタツムリに寄生するんだ……鳥の糞の中の寄生虫の卵をカタツムリが食べて、そのカタツムリを鳥が食べる。これを永久に繰り返す訳だね!」
「へーえ、不思議な寄生虫が居るのね」
いつの間にか、三木は彼の話に惹きつけられていた。
「まだ他にも種類があるんだよ。例えばハリガネムシ。こいつは水中で生まれてボウフラやトンボの幼虫のヤゴに食べられる。そして、こいつらを捕食したカマキリやコオロギの腹の中で成長する……」
「あ、思い出した。そのハリガネムシって細長い気持ち悪い奴でしょ? 私、ああいうの苦手なのよね」
「そのハリガネムシは水中で産卵する訳だけど、カマキリやコオロギなどの昆虫は自分の命取りになるから絶対に水辺には近付かない。そこで、ハリガネムシはどうすると思う?」
「えっ!? まさか……」
「そう。宿主を水の中に入るように誘導するのさ」
「嘘っ!? 一体どうやって?」
「方法は分かっていないみたいだけど、そのように宿主を誘導すると言われている……不思議な話でしょ?」
この時、久遠は彼女に知られないように、自分のポケットから飴玉くらいの大きさの物体を取り出してそっと置いた。
勿論それは飴玉などではない。それは本来の姿を取り戻してカサカサと動き出す。丸い物体は虫が丸まっていただけであった。
そう、それは彼の部屋に居たのと同種の虫である。
「本当に驚いたわ、世の中には凄い虫も居るものなのね……」
「話は変わるけど、三木さんは魂の存在って信じている?」
「あら、本当に唐突に話が変わるのね。でも、魂の存在か……今度は寄生虫の話から怪談へと移行する訳?」
「怪談とは少し違うかな。そうだね……例えば自分が自分であると認識しているもの。自我と言われるものが何であるのか考えた事はある? 他者を慈しむ気持ち、綺麗な景色を見て感動する気持ち、泣きたくなるほどつらく切ない気持ち、それらの湧き出てくる感情は何処から出てくるものだと思う?」
「うーん、感情かぁ……そうねぇ、心と言いたいけれどそれもあまりに抽象的すぎるかな。それこそ、久遠君が言った『魂』と然程代わり映えしない気もするし……」
「うん。でもね、心と魂が近い関係にあるというのは案外当たっているかもしれないよ」
「えっ!?」
「人によって、感情と言うのは頭の中の電気信号でしかないと言う人も居て、感情や思考は脳によって作りだされると言うけれど、僕は違うと考えている……」
この時、彼女は久遠に違和感を感じ始めていた。彼と言う男はこんなに物事を熱く語る人間であっただろうか。彼女には久遠が普段の彼とは少し違うように思えた。
「ちょっと想像してみてよ。今よりもコンピュータ技術が発達してAIが進化したとする。そうすると機械に心が生まれると思うかい? 答えはNoだ! なぜなら、機械に魂は宿らないから……」
「そうね……機械に魂が宿るとはちょっと考えづらいよね」
「AIが大幅に進化して人と会話できるようになっても、それはプログラムによってルーチンワークを繰り返しているだけに過ぎない。そこには心や魂は存在しない」
「久遠君の話しぶりだと、魂という物は確実に存在しているみたいな言い方ね。そういうオカルト的な話にも興味あったんだ……」
久遠はニヤリと笑った。それは彼の話が核心に近付いたというのもあるが、それだけではない。先ほど彼の放った小さな虫が彼女の服の上を這い上がり、肩口に姿を見せていたからである。
「ここからは完全に僕の憶測にすぎないのでそのつもりで話を聞いて……魂という物は肉体とは違った形で存在する。僕は魂という物は精神寄生体みたいな物だと考えているんだ!」
「精神寄生体!?」
「そう。生命が誕生する過程――つまり、母親のお腹の中で胎児の状態の時に精神寄生体が赤ちゃんの体に宿り、生命として誕生する。だから、体と魂は全く異質な物であり、魂こそが生物の自我を持つ要因になっていると僕は考えている」
「うーん、面白い発想だけど、それはオカルトの領域を出ていない絵空事よね。だって、そうでしょ? 証明なんて出来る筈がないんですもの……」
「確かに証明するのは難しい……けれど残念だよ、人間というものは目に見えているものでないと信じないし理解しようとしない。だから永久に真実に辿り着けない……」
「えっ!?」
三木の目には久遠がニヤリと微笑んだかのように見えた。そして――
「痛っ!!」
彼女は首筋に痛みを覚え、反射的にそれを払い除けた。
床に落ちる黒い虫――体長三センチ程度のワラジムシにも似た平たい虫は見ただけで嫌悪感を感じる程の気味の悪いものであった。
「む、虫!? 嫌……私、噛まれた……」
彼女は首の噛まれた部分を手で押さえた。そして、段々と息が荒く目が霞むようになり、頭がぼーっとして思考も鈍るようになっていった。
「ハァ……ハァ……これは毒……?」
それを見ていた久遠は床の上の虫をそっと摘み上げた。
「大丈夫さ、体がちょっと痺れているだけだから……その痺れも直に消える」
「久遠君……?」
「さっきの話の続きだけどね……既に魂が入っている宿主の体を寄生虫ごときが操る事ができるのか……」
久遠は指で摘んだ虫を彼女の目の前に差し出した。
「やめて……何をするの……嫌っ……」
三木の顔は恐怖に歪んだ。目の前にいる男は彼女の知っている久遠ではない。姿形は彼に違いないが中身は全くの別人だと彼女は直感した。
そして、彼は右手で虫を摘み、左手で彼女の口をそっと開けた――
「この世界の寄生虫にそんな力があるのか分からないけれど、この虫は違うと断言しよう。こんな小さな虫の中にも君と同じ様に魂があり、自我もちゃんと持っている……」
彼は虫を彼女の口の中に入れた。
「大丈夫、何も恐れることは無い……今の君の自我が消えるという訳ではないのだから。ただ眠って貰うだけ……それによって、この虫が君の主人格となり、君に代わって生活をするだけのこと……」
彼女は朦朧とする頭の中で確かに久遠の声を聞いた――
「さぁ、おやすみ……永遠にね……」