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西丸下三番小隊 第3部  作者: 上野介
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北へ

第2部投稿から大変間が開いてしまい申し訳ございません。

(第2部より続く)

 


    慶應四年春‐江戸


 弥助とお志乃は、久方ぶりに浅草寺で会った。

「第一連隊は過半が討死にだって言うからさ、あたしは生きた心地がしなかったよ」

「過半は大げさだけど、百人ぐらい戦死した。おらの隊も十人死んだ。三人はおらの責任だ」

「あんまり思いつめないでよ。あたしは、あんたと伊兵衛さんが生きて帰って来てくれて、それで充分」

 ふたりは茶店に入り、団子をつまんでいる。

「ねえ、今日は戎服じゃないのね、何で着流しなの」だから、ちょっと眼には若夫婦の参詣に見える。弥助の散切頭だけは、異様だったが。

「いま、三番小隊は、勝安房守様の屋敷にいる。警固をしてくれと、ご指名だった。屯所じゃないから、少しは自由がきく」

「安房守様は、えらくご出世だってね。陸軍総裁だって?」

「ああ、上様はひたすら謹慎して朝廷のご勘気が過ぎるのを待ってる。そうなると徳川家のかじ取りができるのは、安房守様ぐらいしかいないからな。西郷吉之助はじめ薩長にも知り合いが多いらしいし」

「信用されてるのね、三番小隊は。今、江戸のあちこちで歩兵が暴れてるけど、何であんた達みたいにちゃんとできないのかね。特に、あの十二連隊はどうしようもないわ。こないだも近くの居酒屋で、『ぬくめる』とか言う言葉が通じないだけで、暴れてたわ」

 大坂で編成された第十二連隊は、弥助たちの目の前で戦い、指揮官の窪田備前守はじめ多数が戦死した事は既に書いた。今は三番町の屯所に押込められているが、故郷から遠い江戸に連れて来られたせいか、ひときわ荒れていた。

「死んだ平次郎様や佐々木様の隊だ。そう言うなよ」

「そうだけど、他の連隊の歩兵も暴れてるよ。みんな、ほんとに迷惑してるんだから。

 歩兵専門の辻斬りがいるけど、良い気味だってみんな言ってるわ」

「歩兵はさむらいじゃないから、斬るのは簡単だ。おらはいやな奴だと思うね」

「そうかも知れないけどさ」お志乃はそう言ってしばらく黙った。そして、ぽつりとつぶやいた。

「ねえ、士官になったら、屯所に住まなくてもいいんじゃないの。そのー、寅吉っていう人も、嫁取りしたわよね」

「そうだ、寅吉の嫁は天野様のところで奉公してるが、どうして」

 と言ってから、自分の馬鹿さ加減に気が付いた。お志乃は、もう二十八歳の姥桜だ。自分は屯所に入営して以来、走り続けてきたが、年月が経っていた。

「おらは今、三番小隊の指図役だ。世の中がもう少し落ち着いて、みんなの身の振り方が見えるまで、離れるわけにはいかん。あと、半年か一年だと思うけど」

「判った」とお志乃は言ったが、そのあと口の中で何を呟いたかまでは聞こえなかった。


「三番小隊は居るか」

 洋装の若い武士が、勝邸の廊下をやってきた。勝家の家令が案内している。

「小栗上野介が嫡男、忠道である。定吉は居るか」

「へえ、おらですだ」

「我ら小栗家は、在所に土着する事に相成った。在所の警固のため、農兵の調練をしたいと思うが、そちに手伝ってして貰いたい」

「ええ、おらに」

 後ろでも、歩兵仲間が驚いていた。

「そちは、この隊に最初から居るそうじゃの。わが父上野介は、これだけ歩兵の経験を積んだ者が我が知行地にいたのは幸いだ、と申しておる。そちが望むなら、明日屋敷に参れ」

「滅相もねえですだ。在所に帰れるなら、願ってもねえ」

「うむ、待っておるぞ」

 忠道が帰ると、弥助が口を開いた。

「定吉の在所のお殿様は、上野介様だったのか」

「うん、そうだ」

「お前、大したお方に見込まれたなあ。徳川家でも、勝様と並んで、一、二を争う切れ者だぞ」

「お殿様が、海軍奉行や勘定奉行をやっていたのは知ってたが、そうなんだべか」

「ああ、横須賀製鉄所を造った方だ。海軍の蒸気船を、作ったり修繕したりする所だ」

 幕府がフランスからの技術援助と借金で作った横須賀の造船所は、明治政府が完成を引き継いで帝国海軍工廠となり、昭和に入ると日本が世界一と言われるようになる造船技術を習得する上で、大きな役割を果たした。横須賀造船所ができた時、小栗が「これで幕府がつぶれても、土蔵付き売家ぐらいの価値はあるな」と言った話は有名である。平成の日本人が先進国面をしていられるのも、小栗の様な人物のお陰なのである。

 その夜は送別会となり、定吉は翌日旅立っていった。


 二月になった。七日の夜半の事である。勝に急使が有った。三番町屯所の第十一・十二連隊の兵が、徒党を組んで脱走したのだ。

 勝が現場に行くと言うので、三番小隊が護衛に付こうとすると、

「歩兵なんぞ連れてったら、けえって刺激しちまう。おめえ達は待っとれ」

と言われ、屋敷に残された。

 弥助が勝の身を案じていると、清八が小声で話し掛けてきた。

「こないだ、野暮用で出かけた時によ、七番小隊の辰蔵とばったり会ったんだ」

「屯所の様子はどんなだった」

「それがよ、このまま徳川家が降参したら、歩兵はお払い箱になっちまう。みんな、ぴりぴりしてるらしい」

「そりゃそうだろう。俺たちだって同じだ」

「ところで、奥羽の大名はまだ薩長方に付くか判らねえ。何でも、一月に庄内藩が歩兵五百人を雇ったとかで、北へ行けば、歩兵の口が有るんじゃねえかと言ってるらしい。聞きゃ、会津藩や庄内藩は無理矢理朝敵にされてるらしいじゃねえか」

「三番町は実際に脱走したな」

「西丸下も同じよ。辰蔵の話じゃ、三番小隊が先頭に立つなら、第一連隊も脱走するそうだ」

「まてよ、なんでそこに三番小隊が出てくる」

「関東の諸藩は、あらかた恭順派だ。脱走すりゃ、奴らと戦争になる。そこで、ちゃんとした士官が必要だと言ってるらしい。おめえのことだ」

「そんな、おらは・・・」弥助は、自分が何のために歩兵になったか、改めて思い出した。

「おらは、夷敵からこの国を守るために歩兵になった。日本人同士で戦争する為じゃねえ」

「それじゃ、歩兵仲間はどうする。何千人もいるんだぜ。おめえは歩兵仲間から叩き上げて士官になった。仲間から、嫌でも頼りにされてるぜ。

 だから、安房守様はおめえをここに閉じ込めてるんじゃねえのか」

 言われてみると、確かに脱走計画から隔離されているのかも知れなかった。


 二月も下旬になった。勝邸に来客が有った。聞覚えのある声なので、弥助が様子を見に行くと庭でばったり出くわした。

「これは、近藤様。土方様も」

「やあ、弥助ではないか。鳥羽街道での働き、土方君から聞いておる。君には用兵の才があるようじゃな」近藤は何かとても上機嫌のようだった。

「滅相も有りません。土方様、髷を切られたのですね」

 土方は洋装の軍服で、散切り頭だった。近藤は従来通りの和装にちょん髷なので、ふたり並ぶとちぐはぐな感じだった。

「土方君は、これからは鉄砲の時代だと言ってな。百万石の家老になろうと言うのに、この通りの風体だ」

「百万石?」

「うむ、西の抑えとして、私を甲州百万石のあるじにしてくれるそうだ。それもこれも、この土方君を始め新撰組の皆のお陰だ」

「左様でございましたか」

 そこへ、勝が顔を出した。

「おお、安房守殿。先ほどの甲州の話でござるが」

 近藤は、勝と軍用金の相談をする為に行ってしまった。土方が残された。

「甲州に百万石も石高が有りましたか」

「そんな事は知らないよ。だいたい、徳川家に新しい大名の所領を安堵する力など、もうない」土方は吐き捨てるように言った。

「実は、安房守様に君達三番小隊を貰い受けたいと頼んだのだが、断られたよ。いま、浅草で人足を集めて銃隊の調練をしているが、急場には間に合わない。熟練した歩兵を連れて行きたいのだが、安房守様の言うには、甲州では火付盗賊のたぐいを取締るのが目的だから歩兵はいらぬそうだ」

「そう言えば先日、古屋佐久左衛門と言う方が見えまして」

「知ってるよ。脱走した札付きの第十一と十二連隊の指揮を願い出て、信州鎮撫を命ぜられられたって」

「その札付き連隊を信州へ、新撰組は甲州へ。江戸を守る兵が少なくなってしまいます」

「安房守様は、多分それを狙ってる。朝廷に恭順を決めた以上、血の気の多い奴が江戸にいては、邪魔なんだろうよ」

 土方は、近藤が去った方を見つめた。

「ところが、近藤さんにはそれが判らないらしい。百万石と言われて浮かれてる。すっかり変わっちまった。幕臣になんか、成るんじゃなかった」

 土方は、さびしそうに言った。


 案の定、近藤の夢は叶わなかった。後年言われるところの甲州鎮撫隊は、新撰組の出身地を通ったため、歓迎の酒宴で足止めされた。それに乗ってしまったのは、近藤自身が錦を飾りたかったのかも知れない。ために、甲府城を一日違いで新政府軍に抑えられた。近藤らは、不利な戦力にも拘らず野戦をする羽目となり、土佐藩らの正規軍の前にけし飛んだ。浅草で集めた人足達は、兵糧も援軍もない戦いである事が知れると先を争って逃げだしたので、戦闘らしい戦闘にもならなかった。


 別の日には、夷人がやって来た。イギリス公使のパークスであった。勝邸の中まで駕篭を乗り入れさせ、帰るときも勝邸の中から乗って行った。明らかに人目を避けていた。

「英吉利は薩長側の筈ですが、何を言いに来たのです」

 弥助が訊くと、

「この江戸の町をいくさ場にするなと、西郷らに申し渡しているそうだ」

と勝は答えた。

「知っての通り、江戸には百万の人間が住んでる。これほどの人がいる都会は、世界のどこにもない。そのマーケットを守りたい、とか言ってたぜ」

「マーケット?」

「いちばの事だが、商売の種と言う意味でも使うらしい」

「なるほど、百万の人間がいれば商売の種はいろいろありますね」

「戦争になれば、江戸市民は在所に散っちまう」

「でも、それはそれで在所へ赴いて商いをすれば良いのでは」

「人がまとまって住んでた方が商売はやり易いし、在所じゃ自給自足じゃねえか。夷人から物を買ったりしねえ。そんなとこだろう」

 なるほど、西洋の国々も日本を商売の種にするためには、大きな戦争をされるのは不都合らしい。生かさず殺さず、利益をしゃぶり尽くすつもりなのだ。


 パークスの言葉に力を得て、勝は新政府軍との交渉を進めた。

 まず、新門辰五郎など江戸市中の火消や博打打ちの親分を次々に呼付け、何事かを依頼していた。

 それと併行して山岡鉄太郎を派遣し西郷との面談を取付け、三月十三日と十四日、江戸高輪の薩摩藩邸で江戸開城の条件を話し合った。弥助は、十名の兵を選んで勝の護衛に当たった。

 交渉を終えて出てきた勝は、

「どうにか徳川家は残せそうだぜ」とだけ言った。

「それはようございました。ところで、この藩邸の周囲に怪しげな者たちが屯しています」と弥助が言うと、

「おう、道中にもいたな」

「上野の彰義隊をはじめとして、安房守様のお命を狙っている者がいると聞きます。帰ったら、ご警固の相談を申上げたいのですが」

「構わねえよ」

 弥助の相談と言うのは、今の三番小隊は三十人程だが、彰義隊が三千人などと号しているので多いとは言えない。だから、六連発のピストルを全員に支給して欲しいと言った。

 勝は首を傾げていたが、

「いいよ、江戸城を引渡すまでは、俺を生かしといてくれ」

と言った。

 鳥羽伏見以来何人かの兵はピストルを持ったままだったが返納し、江戸城の武器庫にあったレミントン・ニューアーミーで統一されることになった。

 有難いのは、これで大っぴらに射撃訓練ができる事であった。不充分ではあるが西丸下の射撃場で、隊列を組んで敵の斬込みをピストルで撃退する訓練を行った。どんな状況で戦闘になっても、火力で圧倒する事が出来る。仲間を戦死させない、弥助の工夫であった。

 

 四月四日、土方がひょっこり勝邸に現れた。

「近藤さんが捕まったんだよ」

 前日の三日、下総流山と言うところで土佐藩兵に拘束されたという。勝に助命を働きかけて貰う為にやってきたのだ。しばらく話合っていたが、青い顔をして無言で帰って行った。

「意外とあっさり帰ったな」と、勝から後で聞いた。勝が助命にどれくらい動いたかは判らない。史実としては、四月二十五日に近藤は処刑された。しかも切腹の体裁を取らず、斬首であった。若年寄格の身分の者に対して、まったく異例の仕打ちであった。

 

 明日は江戸城明け渡しと言う四月十日、最後まで大奥に居座っていた天璋院が一橋家へ、静寛院宮が清水家へ移った。弥助たちはふた手に分かれて、それぞれを警固する事になった。

 分かれてと言っても、両家の屋敷は共に江戸城の内堀の中に有りお隣さんだ。静寛院宮組のリーダーになった清八とは、

「いつでも会えるさ」

と言い合ったが、分けたのは勝の策謀であるような気がした。

 なぜなら交代で在所に里帰りし、帰農できる者は帰隊しなくともお咎めなしと言われたからだ。こうれはもう、軍隊の扱いではない。

 そして、十一日の江戸城明渡しの日、大鳥圭介の伝習隊を中心として幕府陸軍から大規模な脱走があり、土方もそれ加わっていた。これらの脱走部隊は、新政府に恭順した徳川家の譜代大名と戦いながら、北関東、日光、会津と転戦してゆく。

 やはり勝は、弥助たちを脱走計画から隔離するために、今の任務を命じていると思えて来た。


 天璋院は好奇心の強いたちで、時折弥助を呼んでは洋式兵学の講義をさせた。そればかりか、

「ミネー銃を撃ってみたい」

と言い出し、慶喜公謹慎の折そのような事はお控えくださいと宥める一幕もあった。

 この年は閏年で、四月が二回あった。閏四月になるともう初夏である。

 その頃、天璋院が今度は、

「そなた達の戎服もだいぶ見苦しくなったゆえ、わらわが縫ってしんぜよう」

と言い出した。

「天璋院様に、そのような事をお願いできませぬ」

「構わぬ。ペルリから貰った縫物の機械が有るのじゃが、これを使ってみたい。西洋の機械じゃから西洋の服なら縫いやすいであろう。そなた達三十人で習練を積み、亀之助殿の洋服を仕立てるのじゃ。だから遠慮するでない」

 ペリーの黒船が置いて行ったミシンを、どうしても使いたいらしい。ちなみに亀之助とは、慶喜謹慎後徳川宗家の跡継ぎとして、朝廷に申請している田安徳川家の幼児である。実子のいない天璋院は、この幼児をいたく可愛がっていた。

「では有難く頂戴いたします」

 そんな話をしていると、伊兵衛が慌てた様子でやってきた。

「定吉が帰ってきた」

と言うので、勝手口の方へ廻る。定吉が呆けた様子で座っていた。

「お殿様が殺された」

「小栗様がか。誰に」

「高崎藩の奴らだ。天朝様のご名代の命令だそうだ。お殿様が、農兵を養って、天朝様に謀反をたくらんどるっちゅうて」

「そりゃ本当か」

「嘘にきまっとるべ。朝廷の軍勢が関東に迫っているのを聞いて、お殿様は農兵など養わなくとも治安は守れると言っておったべ。おらも、阿蘭陀(オランダ)のミネー銃を担いで、用水路を作ってるお殿様の警固をするぐらいしかやる事が無かった」

「それじゃなんで」

「よくわからん。官軍の奴らは、お殿様をひっ立てたと思うと、ろくな吟味も無しに打ち首だ」

「打ち首だと。勘定奉行までされた方をか」

 先日は、近藤勇が斬首されている。武士の死刑は切腹が普通である。切腹は自殺であり、武士の面目を保てるからだ。それなのに、なぜ斬首なのか。この時期の新政府軍は、朝廷への忠誠心競争のあまり、それぞれの担当者が功を焦っているような印象が有る。

「それで、お前はどうして江戸に出て来たんだ」

「どうもこうもねえべ。歩兵上りがお殿様の用心棒をしとるちゅう事になって、おらまで捕まることころだっただ」

「なに、それじゃお前、お尋ね者か」

「ああ、在所にいられなくなっただ」

 話は判ったが、さて困った。定吉を匿うのはいいが、一橋家に迷惑がかかるかも知れない。

 ところが、

「定吉とやら。ここに居るが良い」

 後ろから凛とした女の声。弥助は振返った。

「しかし、それでは天璋院様にご迷惑が」

「構わぬ。百姓一人匿うくらいの力はこの天璋院にもある。ほとぼりが冷めるのを待って、勝によしなに計らせよう」

「有難うございます」弥助が横を見ると、定吉も平伏していた。


 それから数日後、弥助と伊兵衛は横浜へ向かった。戎服をしつらえるのにボタンなどの小物が居るからだ。実際に買い出しをするのは、かよと言う女中なのでその護衛である。

 かよは、士分の弥助までが下男のなりをしているので面食らったが、

「もはや、幕臣風を吹かしてもせんないことですからね」

と納得した。むしろ、ふたりが懐に忍ばせたリボルバーのほうを頼りにしている様子だった。

 横浜で英国人が経営する輸入品の小間物屋を訪ねた。英語の話せる日本人の小僧が出てきて応対した。

 店の奥を見ると、若い夷人の男女が主人と話している。金属の輪を指に嵌めたり外したりしているのだ。

「あれは何だ、指抜きか?」小僧に訊く。

「エンゲジング・リングとかいうものです。許婚となったときに、男女で輪っかを取り交わし、指にはめて、その証とします」

「西洋には、そんな習わしがあるのか」

 なるほど、夷人の男女は何やら楽しそうに話している。買う品を決めたようだ。そんな印が有れば、言い寄る男も少なくなるのだろうか。

「あれはいくらぐらいする」

「安いのでは五両ぐらいからありますが」

 小僧が怪訝そうな顔で答える。下男にそんな金が有るのかと言いたげだ。

「なに、その様なおなごが居られるのか」この種の話題に敏感な御殿女中らしく、かよが耳をそばだてていた。伊兵衛がにやにやしながら、後でお話ししますよ、などと余計な事を言っている。

「後学の為です」

 弥助は、顔を真っ赤にして言った。


 この頃、北関東では大鳥・土方らの脱走旧幕軍と、新政府軍の戦闘が行われていた。始めは恭順派の中小藩との戦闘だったので大鳥らは優勢だったが、土佐藩などから近代化された増援部隊が到着するにつれ、弾薬の補給に難のある脱走部隊は、次第に北へ押されて行った。

 しかし、五月三日に奥羽列藩同盟が、会津藩・庄内藩の恩赦を目的として成立した。しかも新政府にとって厄介な事に、輪王寺宮公現法親王を盟主に頂く構想が有った。本物の宮様が盟主になれば、この日本に天皇がもう一人いる様に諸外国からは見えるであろう。ニューヨーク・タイムズなどは、実際にそう書いた。政権の正統性に関わる大問題で、早急に討伐しなければならなかった。

 ところが、江戸の上野の寛永寺には彰義隊がまだ居座ったままである。彰義隊は、寛永寺に蟄居した慶喜警固を名目として結成されたが、慶喜が水戸へ移された後もそのまま居座り、新政府軍の兵士を襲撃するなどして気勢を上げていた。一時は三千人と言われる勢力を誇ったため、新政府にとっては頭の痛い存在だった。

 兵力を奥羽へ転用するためには、彰義隊を処理しなければならない。勝と西郷のとった懐柔策が不成功と見るや、新政府は大村益次郎指揮による軍事作戦を選択した。五月一日、大村は彰義隊の武装解除を布告したので、江戸の町は再び緊張してきた。

 そんなある日、弥助は天野家の大奥様に呼ばれた。彰義隊に参加している天野家の長男伊織を、上野の山から連れ出して欲しいと言う。

「そうは申されましても、大奥様のお言付けにも拘らず家にお戻りにならないのでは、私如きではどうにもなりますまい」

「今では、親の私でさえ会うこともままなりません。それどころか、家の生業を恥じている様子。何とかなりますまいか」

 家の生業とは、天野家が出資している料亭の事である。この頃には、徳川家の陣中料理を出す店として新政府軍の上級士官も出入りするようになり、なかなか繁盛しており、他の旗本の窮乏を他所に、天野家は潤っていた。が、それだけに伊織は肩身の狭い部分もあるのだろう。

「私どもが、寛永寺に乗込んでお連れすることはできませぬ。天璋院様にご迷惑をおかけすることにもなりかねません。ですが・・・」弥助は腕組みしながら言った。

「伊織様が落延びるのをお助けすることはできると思います」

「落延びる?」

「石州で戦いましたが、攻撃を仕掛ける時は必ず敵の逃げ道を作っておくのが、大村のやり方です」

「なるほど、窮鼠猫を噛むと申しますからね」

「そうです、その逃げ道で待っていれば、お助けできると思います。戦争の前日にでも見て回れば、逃げ道はおおよそ見当が付くでしょう」

「なんだが危ない事を頼んでしまったようですね。そなたには大事な人が居ると言うのに」

 さすがにお志乃のことも知っていた。

「天野様への最後のご奉公です。さむらいの世は、もう終りですゆえ、これが最後です」

「かたじけない。私には、もうあの子しかいないのです」大奥様は嗚咽していた。


 五月十四日、彰義隊討伐の布告が出され、新政府軍が続々配置に付いた。

 弥助は下男のなりをして、寛永寺の周辺を見て回った。伊兵衛も連れて来たかったが、あいにく上総の在所に里帰りしていた。

「やはり攻め口は黒門や団子坂だな。逃げ道は、この根岸近辺にしてあるらしい」

 伊織は、戦いに負けたからと言って自刃したり自殺特攻をかけたりするたちではない。運悪く流れ弾にでも当たらなければ、大村が設定したのであろうこの脱出路を来るに違いない。

 この当時、寛永寺は江戸の町はずれで、ここから北は田や畑が広がっていた。江戸市中を戦火に巻き込まない為には、彰義隊をこの農村方面に追出すのが、たぶん上策であろう。

 翌十五日の早朝、寛永寺と境を接する百姓地に手頃な木を見つけ、樹上に身を隠す。厄介を避けるため、あえてリボルバーも持ってこなかった。断髪を隠すため、頬被りしている。

 やがて、南の黒門と、西の団子坂方面から銃声が轟いた。懐に忍ばせたセコンド(懐中時計)を見ると、西洋時で七時。いよいよ始まった。

 そのうち、雨が降出す。夏とはいえ、じっと濡れているのはつらい。

 昼になる。握飯を食べていると、浪人体の者たちが、脱出路をバラバラやってくるのが見えた。

「もう逃げだすか」

 一時期三千人の勢力を誇った彰義隊だが、その中にはただ食を求めて集まっただけの粗漏な連中もおり、どうもそう言った連中がまず逃出している模様だった。

 午後一時ごろ、寛永寺の中堂の当りから大音響と共に黒い煙が上がりだした。榴弾の砲撃だ。数分の間隔で、着実に着弾している。建物を焼かれては、隠れようが有るまい。これが佐賀藩のアームストロング砲と弥助が知ったのは、かなり後の事である。

 しだいに脱出者が増えて来る。幕府陸軍の戎服を纏っている者も多い。

 午後三時頃、ついに来た。幕府陸軍騎兵の制服を着た六人ほどの集団が徒歩で落延びて来た。よく見ると、ひとりは見知った背格好だ。西洋式のサーベルは佩いているが、騎兵銃は持っていない。

 弥助は木を降り、走った。

「伊織様、お待ちください」

「弥助ではないか。どうしてこんなところにおる」

「大奥様のお言付けです。伊織様を屋敷にお連れします。まず、この野良着にお着替えください」

「天野君」伊織の連れが訊く。「君の家の下男か」

「左様でございます」弥助がすかさず答える。弥助は既に士分だが、ややこしい事情を説明している暇はない。

「行き給え。君が死んだら、跡取りはいないのだろう」

「いや、私の嫡男が居る」伊織は言張った。

「伊織様、大奥様がお嘆きになります」

「この者の言うとおりだ、天野君。お母上を悲しませてはならぬ」

 伊織が頷いたので、草むらに引張り込み、用意の百姓服を着せた。騎兵服とサーベルはその場に捨てた。

 道に戻ると、敗残兵が列をなしていた。その群れにいったん紛れその場を離れると、弥助と伊織は西に迂回して江戸城周辺の旗本街を目指した。何時の間にか砲戦が止んでいる。戦闘は終息したらしい。

 神楽坂あたりまで落延びたが、そこで正面から薩摩藩の一隊が来るのに出くわした。落武者狩りの巡察隊かもしれない。ふたりは目を合せないようにして、やり過ごそうとした。だが、すれ違いざま、

「おい、こら」

と、呼び止められた。

「へえ」弥助は小心な百姓らしく、土下座した。伊織も慌ててまねる。

「そのほう」陣羽織を来た武士が、弥助の襟元を改めた。「セコンドを首に下げておるな」

 しまった、懐中時計の紐を見咎められたらしい。下男が持っているような品ではない。

「彰義隊の士官であろう」小銃兵がふたりを取囲む。エンピールの銃口が向けられた。これは小手先の嘘ではごまかせまい。

「申し訳ございません。私は、元徳川家陸軍第一連隊の田畑弥助と申します。知行主の大奥様のたってのご依頼を受け、たった一人のご子息をお落とし申上げております。なにとぞ、お見逃しください」

「ほほう」陣羽織が言った。「老母の願いでひとり息子を落とすのは判ったが、そなた、名前は士分だが、立ち振る舞いは百姓なのは何故じゃ」

「私は百姓から旧幕の歩兵となりました。その後、士分にお取立て頂きました」

「ほほう、百姓を士分に取立てて戦争しとったのか」士官は薩摩なまりで答えた。「道理で弱いわけよ。これからは、わぃら薩摩藩の様に、武士が小銃を持つ時代じゃ。そちは帰農せい」

 その言葉を弥助は聞き咎めた。

「長州藩の方々は、奇兵隊の様に百姓が小銃を持って、我ら幕府の軍勢を打破りました。これからはその様な世になると思っておりますが」

「こいは驚いた。大村のような考えの者がここにも居ったわ。あん者、百姓医者の分際で、洋書を読みかじった知識で、ひとつふたつの戦争に勝って、この国随一のいくさの名手になったつもりでおる。そればかりか、近頃は天朝様の御親兵は、百姓を集めて作るべきだなどと言い出しおった」

 当然ではないかと弥助は思った。火器を持ってする戦いに、武士は必要ではない。だが、次の一言は許せなかった。

「百姓に、この皇国を守る胆力などあるはずもなかろう」

 弥助は、面を上げた。甚平ら、戦死した仲間の顔が脳裏に浮かんだ。言うべきではないと思う言葉が口を突いて出た。

「恐れながら、百姓にも胆力はございます」

「なにい」

「仲間を守って死んだ百姓兵を、私は何人も知っております」

 士官は刀の柄に手を掛けた。

「そなた、この様な場で口答え申すか」

 その時、横合いから声をかけた者がいた。

「これは、海江田さんではありませんか」

 見ると、和装の武士である。きれいな江戸弁。弥助は旧幕臣と直感した。

「こいは横地さん」薩州の士官が答えた。横地と呼ばれた男は、つかつかと薩兵の輪の中に入って来た。

「ここにいる天野伊織君はわたしと昌平講で机を並べて学問した中です。決して天朝様に刃向う様な者ではありません。それに」

 横地は弥助を見た。

「田畑君とやら、勝さんから聞いたが、君は天璋院様の警固を申し遣っている三番小隊ではないかね。なぜその事を申さぬ」

「天璋院様に、ご迷惑がかかりますゆえ」

「ほほう」海江田と呼ばれた士官が鼻を膨らませた。

「天璋院様にも忠節を尽すとは、なかなか愛い奴じゃ。それでは天璋院様と、そのご老母に免じてここは見逃すとしよう」

 薩兵は、囲みを解いて立ち去った。列の先頭で、あん者が石州で大村を追詰めた三番小隊か、と言っているのが聞こえた。

 三人は、天野家に向かった。伊織を引渡した。弥助が一橋邸に戻ろうとすると、横地が人気のない所に引張り込んで、こう囁いた。

「近々、日光の大鳥さんの軍に軍用品を届ける。おめえ達、護衛についてくれねえか」

「軍用品?この江戸から届けるのですか」

「おお、エンピールの弾薬や戎服など、江戸や横浜でしか手に入るめえ。薩長の連中と表向き仲よくしているのもそのためよ」

「安房守様は、ご了解されているので」

「いや、教えてねえよ。でも、うすうす知ってんだろうな」

「それにしても、危ない橋をお渡りで」

「そうさなあ、四月二十二日に下野の安塚と言う所へ船で乗付けた時には、出迎えの歩兵が西軍に見つかって、戦争になっちまった。あのときは往生したよ」

「この江戸でだって危ないでしょう。薩長の奴らに見つかったら」

「だから次が最後だ。君たち、大鳥さんや土方さんに加わるなら、今が最後の機会だぜ。君は、土方さんとは親しいのだろう」

 横地は、なかなか事情通のようだった。

 昨日までの弥助ならこの申し出を即座に断ったろう。だが、今日はこう答えた。

「三番小隊の仲間に諮ってみます」


 鳥羽伏見後の朝廷中心の政治を見て、新政府は武士の世を終わらせる為に、幕府を解体したものと思っていた。だがそれは、彼らの中でも共通理解ではないらしい。

 新政府側でも、武士の世がまだまだ続くと思っている者がいる。これは、当然かもしれない。勝者の身分は保障されると思うのが自然である。しかし、旧勢力(アンシャン・レジーム)を利用しつつも最後は切って捨てる、それが革命であり、明治維新も例外ではなかった。

 

 既に述べたように、勝の指示で三番小隊は仲間たちを交代で帰郷させ、帰農できる者は戻らなくても良い事にしていた。伊兵衛らはその最後の組である。二十人程が戻ってきたので、その身の振り方も決めなければならない時期だった。

 

 弥助は、久しぶりに数馬の家を訪ねた。数馬は鳥羽街道で膝に銃弾を受け、杖にすがって歩いていた。この時も杖をついて庭に立ち、夏の白い雲を見上げていた。

「松本良順先生のお見立てによると」縁側に座る数馬の妻が、小声で弥助に言った。「夫は一生杖が手放せないようです。でも、私はそれを喜んでいるのです。夫が戦場を駆け回る事も二度とないからです。『塞翁が馬』とは、まさにこの事です。私は悪い妻でしょうか」

「お気持ちは良くわかります。私にとっても数馬様は大切なお方です。何時までもお守りくださるよう、奥様にお願い申し上げます」

 そんな深刻な話をしているとも知らずに、庭の数馬が振向いた。

「徳川家を駿河に移すことで話が進んでいるらしい。そうなったら沼津に兵学校を開くと、江原君たちが準備している。私にも、教官になって欲しいそうだ」

 江原素六は幕府陸軍の俊英の一人で、明治になってから名門麻布尋常中学校を設立することになる。

「それはようございした。数馬様なら、きっと良い教官に成られますよ」

 新しい希望に夢を膨らませている夫妻に、江戸を脱走するなどと言う相談はできずじまいだった。

 

 十七日の午前中、天野家に頼み込んでその料亭に、在所に帰らず残っている三番小隊の二十人全員を集めた。

 最初に口を開いたのは清八だった。

「海軍の榎本和泉守様が、旧幕臣を蝦夷地に集めて、当地の開墾と露西亜ロシアへの備えとすると建白してるそうだ。俺は、土地が貰えるなら蝦夷でも行きたい」

「俺も上総の在所へ行ってきたが」伊兵衛が言う。「撒兵隊と西軍との戦争で荒らされてたぜ。ひどいもんだ。蝦夷地に広い土地が貰えるなら、開墾しておっかあを呼んで暮らしたいね。」

「でも、その榎本様の建白は通るんだべか」定吉が疑問を呈した。

「判らん」弥助が言った。「徳川家が北辺の防壁になるなら、朝廷にとっても悪い話じゃないだろう。でも蝦夷地は何と言っても海の向こうだ。徳川家が私物化するんじゃないかとも疑うだろうな」

「おまえの考えはどうなんだい」清八が訊く。「何か考えが有って、俺たちを集めたんだろう」

「俺は、日光へ行って大鳥様や土方様の軍に合流しようと思う」

「あえて戦争に飛び込むのか」寅吉が言った。江戸にもどってから半年の間に、寅吉の嫁は身籠っていた。

「そうだ。まず奥羽の大名は軍備の西洋化が遅れている。歩兵の調練をする人間が必要に違いない。俺たちは石州で大村益次郎をあと一歩まで追詰めたので、だいぶ名が売れているらしい。だから、みんなの仕官先を見つける事が出来るかも知れない。見つからなければ、榎本様に合流して蝦夷まで行ってもいい。

 それから、俺だけの理由もある」

「どうせ、小難しい事を考えたんだろう」清八が言った。

「ああそうだ。薩長は、幕府を倒して天朝様中心の政府を作る為に戦争していると思っていた。欧羅巴(ヨーロッパ)の王国の様に、国王の政府が直接人民を治める国だ。古代の皇国はそうだった。百姓に兵役を課して、防人にして軍備を整えた。今の欧羅巴の国はみんなそう言う軍備に戻っている。そうなれば、さむらいは不要になる。ところが、西軍にもさむらいの世がまだまだ続くと思ってるやつがいる」

 弥助は、海江田との一件を話した。

「するってえと何かい」伊兵衛がまとめた。「薩摩の奴らは、島津の幕府を作るつもりなのかい」

「そう思ってるやつが多いに違いない。考えても見ろよ。戦争に勝ってるのに、武士の身分を取上げられるとは思わないだろう」

「それで、おめえの考えは」

「俺達百姓兵の戦争っぷりを見せてやりたい。

 みんな思いだしてくれ。立派な武士ほど、士道を守って戦死していった。その一方、百姓兵だって、立派に戦った。士道なんぞに縛られないから、無駄死にはしない。武士はもう、時代遅れなんだよ。それを思い知らせてやらないと、この国は前へ進まない」

「なるほど、それがお志乃ちゃんを置いて戦争に行く理由か。おめえらしく、ややこしいな」伊兵衛は、苦笑いをしていた。「俺は、会津でも仙台でも蝦夷でもどこでもいい、おっかあらを呼べる土地が手に入れば。だから、弥助の意見に賛成だ」

 すると、清八以下ほとんどの者が賛成の手を挙げた。

「すまんが、俺は残る」と言ったのは、寅吉だった。「俺はもとの猟師に戻る」

「おまえはそれが良い。来春には、赤ん坊も生まれるんだろう」

 清八が言うと、皆そうだそうだと相槌を打った。

「そうと決まったら、寅吉はこの先の話は聞かない方がいい。今すぐ秩父へ立って、俺たちの動きは知らなかった事にしろ。

 まず勝様の所へ行って、三番小隊は解散して帰農する事にしたから、寅吉は秩父へ帰ると言って、道中手形を貰うんだ」

「判った。みんな、達者でな」

「また会おうぜ」と口々に送りだした。

 寅吉が去ると、弥助は別室に声をかけた。横地秀次郎が現れた。自己紹介が済むと、横地は単刀直入に言った。

「五日後の二十三日、神田橋近くの鎌倉河岸かしから船が出る。日光の大鳥さんに、軍用品を運ぶ。小鵜飼船こうかいぶねが三艘だ。君たちは、江戸から野州の在所へ帰る百姓と称して船に同乗し、軍用品を警固してもらいたい」

 弥助は、はっとした。「君」とは同格の者に対する二人称である。

「船の荷はどこで降ろすんです。荷駄へ積み替える時が一番危ないと思いますが」清八が訊く。

「うん、まず江戸川を遡って利根川に入り、鬼怒川を遡る。宇都宮の北の上平という河岸で、先方が荷駄を手配して待っている約束だ」

 横地は大まかな計画を話し、いちいち皆の同意を得た。弥助にはその様子がおかしかった。半年前なら、士分の横地が一方的に百姓兵に命令すれば済む事だった。が、主家の権威が曖昧になった今の徳川家では、身分に係わりなく各自の意思で各自の行動を決めている。だから旧幕臣の横地でも、三番小隊の百姓兵を同格の同志として扱わねばならなかった。だから、百姓兵を説得すべく口上を考えて来ていたのだ。

 

 横地との会見が終わると、一橋邸に戻る皆と別れて、弥助は藤岡屋の家に行った。情報提供料として預けてあった金を全額引出す為だった。

「やれやれ、この藤岡屋でも一日で三十両集めるのはなかなか骨だったよ」

「すまん、その金を使う時が来た。ところで、今年の三月で商売をやめたと言うのは本当か」

「ああ、今までの上得意は国許へ帰ってしまったし、わしももう歳だ。新しい世にわしの居場所はない。蓄えを持って、在所で隠居しようと思ってる」

「新しい世にしなければならぬ」

「なるさ、世の動きは止められん」

 藤岡屋は、この三月に提出された被差別身分の棟梁である浅草弾左衛門の建白書の話をした。要するにこの様な差別はやめてほしいとの陳情なのだが、その理由を読んで藤岡屋は笑ってしまったのだ。

「我々は獣肉を食らう為に卑しいとされてきたが、夷人も獣肉を食らうではないか」と書いてあったのである。

 仏教上の理由で獣肉を食べないと言うのは建前で、みな本音は肉食にあこがれていた。だから機会があれば、なにかと屁理屈を付けては、被差別身分でなくとも獣肉を食していたのが実態だった。兎を一羽と数え、猪鍋を桜鍋と称していたのがその証拠である。

「この世の中がどこまで変わるか、それを見届けるまでは死なねえよ」と藤岡屋は言った。

 

 翌日、暗いうちに弥助は藤岡屋宅を発った。東海道を速足で歩き、いつぞやボタンを買った横浜の小間物屋を目指した。そこで、ひと組の婚約指輪を五両で買うと、そのまま江戸にとってかえした。

 まっすぐお志乃の長屋に向かう。突然の訪問に驚くお志乃に、弥助は指輪を渡した。

「まだもう一仕事残ってる。一年か、一年半か判らんけど、待っていてくれ。必ず戻ってくる」

「早くしておくれよ、もうすぐ三十なんだから。あんたの子を産めなくなるよ」指輪をお守り袋にしまいながら、お志乃は言った。


 五月二十二日の夜更け、弥助たちは一橋邸の裏口に集まった。点呼をとって、さて裏木戸を抜けようとすると、かよが現れた。

 さては気取られたか、と緊張する。

「天璋院様が、ご直々に見送りたいが官軍の手前はばかられると仰せられての。お言付けを持って参った」かよが口を開いた。

「まず、武運を、と。それから、その方らは百姓じゃ。たとえ負けいくさでも、武士の様に腹を切ることはない。みな息災に、必ず生きて帰れとの仰せじゃ」

「はい、有りがたきお言葉です」弥助が答える。「しかし、私どもも気を使っておりましたが、なぜお気づきになられました」

「数日前から、どこかそわそわしておったし、野良着などを繕っておったろう。それでじゃ」

「なるほど」

「一橋家の者は気付いておらぬようじゃ。はよう行け」

 弥助ら十人は、木戸からすべり出た。かよが戸締りをする音が聞こえる。

 そのまましばらく待つと、横地に付添われた清水邸組がやってきた。

「よう田畑君、レミントンの予備の輪胴四十個もくすねて来たぞ」横地が小声で言う。

「有難うございます。どこで手に入れました」

「江戸城の武器倉に合ったピストルから、引っこ抜いてきた」

「それはまた大胆な」

「なに、ついでがあったのでな」

 何のついでだ、と弥助は思った。

「旗本の俺も、これでお尋ね者だ」

「ところで、竹橋御門はどう抜けました」一橋邸も清水邸も江戸城の堀の内側にあり、堀に架かる橋にはそれぞれ門があり番兵が居るので、夜間には通れない。

「竹下門には、しこたま飲ませて眠らせたよ。そこの神田橋門には金を握らせてある」

 確かに神田橋の門は、清八が押すとスッと開いた。ここを抜けると、神田川の鎌倉河岸は目の前だ。大小の船が多数停泊している。横地はその中の一隻に滑り込んだ。

「このちいせえ方の船で行くのか」定吉がつぶやく。

「ああ、宇都宮の上流まで行くから、あっちの高瀬舟じゃ無理だろう」関東で高瀬舟と呼ばれる船は、米が千俵も詰める大型船である。一方、弥助たちが乗る小鵜飼船は三十俵程度だ。

「でけえ船は、後で骨だっぺ」

 三十代半ばの男が小鵜飼船から出て来た。

「おらが船頭の喜助だ。この三艘に分かれて乗れ。おらの持ち船だからな、中でタバコは厳禁だっぺ」常州なまりだった。三艘の船持ちとは、この男見かけによらず金持ちらしい。禁煙は船火事を警戒したのだろうが、三番小隊にタバコなどと言う高級品を嗜好する者はいない。

 みな、それぞれの船に乗ると、野良着に着替えた。エンピールは弾込めして荷の俵の間などにむしろを被せて隠した。リボルバーを入れた雑嚢を、それとなく腰に結わえつけている者もいる。それぞれの船に三人ずつ乗っている船頭と水手かこ達が、銃を珍しそうに眺めていた。何やら魚の臭いのする俵を外側に積み、銃を隠した。

「出っぺ」喜助が舫綱を解く。水手が竿を使い、船が滑りだした。



    慶應四年五月‐鬼怒川


 江戸市中では竿働きで進んだ。中川船番所を通る時は、横地が番所に向け手を挙げた。番所の役人が手を振り返し、何事もなく通過した。

「俺が手を回せるのも、ここまでだ」

 中川船番所は江戸時代、川の関所として機能し「入り鉄砲に出女」を始めとして江戸に入る人や荷を管理していた。幕府領なので直参旗本が派遣されており、新政府軍の進駐後もその命令で旧幕臣が業務していた。だから、横地が手を回せたのであろう。

「こんな夜中でも、役人が詰めているのですか」弥助が訊いた。

「そうよ、生魚も通るからな」銚子付近から利根川と江戸川を経由し鮮魚を送ると、三日で江戸に付いたと言う。鮮魚だから、夜中でも通関業務を行った。幕府も、江戸市民の胃袋を重視していたのだ。

 江戸川へ入ると帆柱を立てた。市街地の橋をくぐるため、帆柱は組立て式なのである。そして、折からの南風に乗り、三艘は江戸川を遡ってゆく。矢切りの渡しに差しかかる頃には夜が明けて来た。岸では百姓船に荷を積んでいる人が見えた。次の松戸の渡しでは、水戸街道の渡船が前を横切り、すれ違いざま子供が手を振ってきた。

「軍用品と言う事でしたが、何を運んでいるのです?」

 弥助は、百姓着を纏った横地に聞いた。驚いた事に、最新式の後装銃(元込め銃)を買いつけて来たという。その後装銃やエンピールの弾薬、夏物の戎服を俵に詰めて積んであった。いちばん外側の俵には需要が多い鰯干(ほしか)(イワシから作った肥料)が詰めて有り、役人の検分が有ればこれで押し通す予定であった。弥助達のランドセルを詰めた俵は、もちろん一番下に隠してある。

「どうだ。君達も、元込め銃に代えてみるか」

「調練を受けていません」弥助は、ちょっと考えてから答えた。

「でも、散兵戦術には元込めが有利だそうじゃねえか」

「確かにそう聞いていますが」弥助が気がかりなのは別の事だった。「ミネー銃の弾なら、奥州の鍛冶屋でも作れましょう。しかし元込めの弾となると、夷国から買わねばなりません。ところが、奥州には開港している港がひとつも有りません」

「たしかになあ。新潟だけが頼りだ」

 弥助の心配は当たっていて、戊辰戦争の焦点の一つは、三月に開港したばかりの新潟の攻防戦であった。近代兵器と言うものは、工業製品を大量に消耗するのである。戦争において、農産物(食料とまぐさ)と、弾薬・燃料・予備部品などの工業製品と、どちらの補給物資の比率が大きいかが、近代と前近代を分けるかと言っても良いくらいだ。

「我らは、差し当たり慣れたエンピールで良いですよ」

 新しい銃に小隊単位で慣れるには、それなりの訓練が居る。「使ってみるか」と言われても、急に採用できるものではない。それに弥助は、リボルバーを活用する腹もあった。

「あれ、船が止まってませんか」

「本当だ、おい喜助どうした」

 喜助は慌てていなかった。

「風が凪いだんだ」それから、後ろの僚船に叫んだ。「おおおい。左に付けろ」

 三艘は江戸川の西岸で、それぞれ川底に杭を打ち込んみ、それに舫って停止した。

 喜助によると、ここは下総流山のあたりだと言う。上流に向かっているのに、凪いでしまってはどうしようもない。

「こりゃ、どのみち明日まで動けんべ」

 空を見ていた喜助は、食事の用意を命じた。夜は事故を防ぐため、停泊するのが川船の習いである。三艘の水手達が七輪を持出し、歩兵も手伝って川の水を汲み米を炊き始めた。

 弥助は、褌一丁になると他の二艘まで泳いで、歩兵達に状況を説明した。そして、役人の検分に遭っても、弥助が命じるまで決して発砲してならぬと厳命した。

 弥助が戻ると、今度は各船から定吉に声が掛った。味噌汁を見てくれと言う。弥助が許可すると、定吉は泳いで各船を回り、料理の指南をした。作戦中の兵士の娯楽は、食事ぐらいしかないのである。

 それでも今回は船旅で物資に余裕があるので、雑穀入りの飯に味噌汁、香の物、夜は干物ぐらいは食べられた。


 次の日も、朝は凪いでいた。弥助はまた各船を回り、今のうちなら川で行水してもよいと告げた。水泳も娯楽になると思っての事である。

 昼前から徐々に南風も出て来たので、竿も使って上流に動き出した。風が弱いのでなかなか進まない。歩兵達も、櫓の漕ぎ方を教わり、交代で練習しながら進んだ。それでも、流山の上流の野田を通り過ぎるのに、翌日一日かかった。喜助はそこで停船を命じた。次の関門を通過するための時間調整でもあった。

 利根川と江戸川の分流点には、関宿藩の川関所が有る。この関所が混雑しない早朝に、通り抜ける計画だった。幕府が瓦解して関宿藩の士気は落ちているが、新政府側の兵がいるかもしれないからだ。その為、川底に杭を打ち船上でもう一泊した。

 翌朝、朝食を作りながら握飯二食分も用意する。不測の事態に備えてだ。

 喜助は、関所下流の桟橋にいったん上陸した。

「じゃ、ちょっくら船問屋で手形を貰ってくら」

「貸そうか」弥助はふところのリボルバーをみせた。

「しんぺえすんな」

 喜助はこれまでも会津藩などに禁制品を運んでおり、この種の仕事は自信が有るようだった。

 通関する船は、関所付近のどこかの船問屋に「宿付(登録)」しており、そこが通行手形を発行する事になっている。

 上陸した喜助は、まず「札場」で関所の順番取りのため「番取札」を受取った。次に、くだんの船問屋へ行き、荷物の送状を提出する。本来なら船問屋が船の荷や便乗者などを調べるのだが、幕末にもなると手数料だけ取って手形を出す事が多かった。

 そして関所へ手形を提出すると、役人がやはり荷や便乗者を検分する建前なのだが、船問屋に鼻薬でも嗅がされているのかめくら判で済んでしまった。

 こうして通関を終えた喜助は、「きがいびっぽう」の掛け声とともに、上流の桟橋へ向かった。すでに三艘の小鵜飼船が待っていた。

「よし、すぐ出っぺ」

 喜助は竿を取ると、力いっぱい桟橋から離れた。弥助が桟橋を見ていると、洋式の軍服を着た一団が現れ次の船を止めていた。

「土佐藩とかいっとったっぺ。関所の役人がやる気がないんで、自分らで検めるらしい。江戸で抜け荷が有ったとよ」

「あぶなかったな」横地も、立って土佐藩兵の様子を眺めている。

「まあ、お座りください」弥助が袖を引いた。直参旗本の横地は、百姓着を纏っていても貫禄が有りすぎるので、目立たないで欲しかった。


 利根川と江戸川の分流点は、流量調節の為多数の杭が打ちこんであり、流れは複雑だ。しかも、天明の浅間山噴火以来土砂が堆積して、そこここに浅瀬ができている。高瀬舟のような大型船は、艀下舟に一部の荷物を積み替えないと通過できないほどだった。

 そこで、ここでは二番船が先頭に立った。二番船の船頭は若いころ、この分流点で水先案内の仕事をしていたと言う。竿働きも巧みに、慎重に抜けて行く。

「そういうやつを集めなければ、こげな仕事はできんべ」と喜助は言った。

 静かな緊張の中、三艘は利根川にすべり込んだ。帆をたたみ、利根川を下り、また帆を上げて鬼怒川に入った。その日はそこで杭を打った。

 

 情勢の確認のため、途中久保田河岸(現茨城県結城市)に立寄った。それによると、野州阿久津河岸は相変わらず宇都宮藩の管轄だが、奥州に向かう土佐藩兵らが駐屯していると言う。

 新政府により江戸から船で送られた軍需物資は、ここで荷駄に積換えられ、白河まで陸送されている。この時期、白河城では、奥羽諸藩の兵と新政府軍との間で激戦が展開されていた。

 ただ、阿久津河岸は関所ではないので停船する義務はなく、通過すればよい。だが、土佐藩兵がいれば臨時に臨検を受ける可能性はある。

 横地は、その対策も一応考えていた。

 江戸時代、公共の物資輸送の陸送は、助郷と言って街道周辺の農民が人足や牛馬を提供して行っていた。これは税の一種なので、当然米などの租税は減免される。新政府もこの段階では、この制度を当然のように踏襲していた。そのため、白河向けの輸送のため、阿久津河岸の牛馬は払底している。

「さてここからが、君たちの出番だ」と横地は言う。阿久津から上流へは牛馬に積換え陸送するのだが、その牛馬が無いので上流の上平河岸まで船で行く事にする。だが、阿久津から上平までの短い行程は流れが急になることもあり、舟を人が岸から引張るのが有効らしい。そこで、新政府軍の臨検を受け歩兵達について聞かれた場合、江戸から在所に戻る奉公人で曳舟人足をする条件で江戸から連れて来たと説明すると言う。

「白河で戦争をしている今なら、そう言う言い訳が可能だ」とも横地は言った。

 目的地の上平河岸とは、阿久津河岸のさらに上流にあり、本来は材木をいかだに組んで流す為の河岸らしい。川底も浅くなるので、操船が難しく物資輸送には向かないのだと言う。

「なに、浅瀬で船が痛んでも、その分の金は貰っとる」と、話に割り込んだ喜助が不敵に笑った。「今晩は、この久保田で夜明かしすっぺ。ライサマが来て、水かさが増える」

「ライサマ?」弥助は訊き返した。

「カミナリ様の事だっぺ」

「ああ、雷様らいさまね」同じ関八州でも、多摩とは言葉が違うものだ。

 喜助たちは、河岸の杭にしっかり船を舫う。増水に備え、上陸は禁止である。

 そのうち、雷鳴と主に激しい雨が降ってきて、水位も上がる。小鵜飼船にも屋根を張った宿泊施設が有るが、中にいても隙間から雨が吹き込み、みな濡れ鼠になった。

「カミナリが来ると、いつもこんなに濡れるのか」弥助が訊くと、

「雷様は夏だけだから、なんとかなっぺ」

 雷だから、二時間ほどで上がる。みな体を拭き、褌一丁で寝た。確かに夏で助かった。

 翌日は、明るくなるとともに目が覚めた。すぐに帆を張って出航する。七輪で飯を炊きながら、歩兵達は銃の手入れをした。雨で湿った火薬をぬぐい、新たに弾込めをする。岸から見えないよう船べりに隠してやるので、作業はしにくい。それでも、薬包から弾を込めるには、少しは銃を立てざるを得ない。川岸に人気の居ない時を見計らって、素早く装填した。


 鬼怒川は、利根川との合流地点からほぼまっすぐ北上している。戦国までは小貝川と合流しさらに常陸川(現在の利根川河道)と合流して銚子から太平洋に注いでいたが、江戸初期の付け替え工事で鬼怒川と小貝川はそれぞれ別個に利根川に合流するようになった。これは二十一世紀の現代まで変わっていない。

 そして鬼怒川を北上すると、宇都宮の阿久津河岸を過ぎるあたりでほぼ直角に西に折れ、日光へ向かう。

 阿久津河岸の二、三里先の上平河岸が目的地だ。しかし、上平には渡し場も有るため宇都宮藩の関所がある。軍用品の荷降ろしにはいささか不向きだ。そこで、河岸の少し手前の川岸に上陸しそこから牛馬に積換える。現地には、日光の大鳥軍から迎えの一隊が来て潜伏している手筈になっている。

 久保田での情報では、阿久津河岸には現在新政府軍の兵士はいない。土佐藩の主力は、今市方面に展開して、日光に籠る大鳥軍の奇襲に備えているらしい。

「宇都宮藩の役人だけなら、顔見知りだ。通り抜ける時、手でも振ってやればよかっぺ」

「おまえ、こんな事をしてるのが薩長にばれたら、これから鬼怒川で商売できるのか」喜助は、抜け荷まがいの輸送をたびたび行っている。人ごととは言え、弥助は心配だった。

「横地様からたっぷり代金をもらっとる。あんたら歩兵に脅されたと言い訳すりゃ、何とかなっぺ」

 弥助は、その図太さに苦笑するしかなかった。


 風に恵まれ、三艘は北上を続けた。歩兵達も交代で櫓を漕いだ。

 その甲斐あってか、翌々日の朝には阿久津河岸を通過した。顔見知りの船頭が接岸していたらしく、喜助と手を振りあっていた。

 しばらく進むと、川幅が狭まり、ごつごつした石が川底に転がっているのが良く見える。流れも速くなってきたようだ。

「よし、ここらで降りて曳いてくれ」

 喜助の命で、歩兵達は皆川に飛び込み、浅い川底を歩いて岸に上がった。船から渡した綱を持ち、懸命に曳く。途中川底の石が舟に当たる音が聞こえるが、構わず進んだ。やがて日が落ちるが、喜助は、

「もうちょいだ、頑張れや」

と続行を命じた。

暗い中で体力と神経をすり減らしながら、二時間ほど奮闘したのち、舟を岸に引上げた。

「横地様、この辺じゃなかっぺか」舟の上で喜助が聞いている。

「そうだ」横地はひらりと舟から飛び降りた。

「迎えを呼んでくるから、待っておれ。荷はどうする」

「暗くてあぶねえから、降ろすのは朝にすっぺ。みんな疲れとるし」

「そうだな。おい弥助、朝には戻れると思う」

「警固をつけましょうか」

「いらねえよ、休ませてやれ」

「お気を付けなさいまし」

 歩兵達が夕食の支度を始める中を、横地は闇に消えた。


 標高が高いのか、夜は意外と涼しかった。喜助の助言も容れ、俵からランドセルを取出し、その周りにくくりつけていたブランケツトをかぶって寝た。水手たちは、はじめて見る西洋の毛織物を、がさばらない割には温かいと感心していた。

 東の空が明るくなり始めると、弥助は全員に起床を命じ、食事の準備を始める。朝食とは別に、

「握飯三個」

と、標準の昼食量の二個より多い量を指示したのは、やはり不測の事態に備えてだ。川向こうには、土佐藩が駐留している筈だ。だから、草むらの対岸から見えにくい位置で、歩兵達は飯を炊き、食った

 もう水に濡れる心配はないので、各自ふところにリボルバーを忍ばせている。エンピールは目立つので、まだ船の中だ。

「餞別だ、食え」と喜助が干物をくれたが、焼くと煙が出るので有難くランドセルにしまった。

 食べ終わると、横地が来るまでやる事はない。歩兵達はエンピールとランドセルを素早く舟から出し、草むらに隠した。そして眠った。ここはもう戦地、状況次第で次はいつ眠れるか判らないのである。

 起きていたのは、弥助と清八と歩哨の兵だけであった。喜助はこの様子を見て感心し、

「あんたら、本当にいくさ慣れしてるな。見張りが何か言ってきたら起こしてやるから、あんたらも寝るとよかっぺ」と言ってくれた。

 喜助が信用できる事はもう判っていたので、浅い眠りながら弥助もまどろむ事が出来た。


 その眠りを、喜助が起こした。鬼怒川の対岸に、兵がいると言う。弥助と清八は、草むらを這って様子を見た。

対岸には、銃を持った徒歩の兵士が十人ほど歩いている。詰襟の軍服だ。その中のひとりが、こちらの小鵜飼船に向かって何か叫んでいる。船には水手しかいないので、喜助が応対のために出て行った。

 兵は西国のなまりで、何を言っているのかよくわからない。数度のやり取りの後、

「こがなとこで、どうした」

と聞き取れた。

「夜になったんで、休んどった」

と喜助が答える。

「荷はなんだ」

干鰯ほしかだ」

「おんしやのなは」

 喜助がまごついていると、

「おぬしの名前は」

と言い直した。

「板戸河岸の伝兵衛」と用意の名を答えた。

 相手の兵は、士官らしい男と話すと、

「気いつけて」

と言って去って行った。

「どう思う、弥助」清八が這ったまま尋ねる。

「この辺は歩いても渡れる。そうしなかった所を見ると、それほど疑ってはいまい」

 そこへ喜助がすべり込んできた。

「川船に詳しいもんがいたら、あぶねかった。普通はこんな川っぺりで夜明かししねえもんだ」

 どこか上流で雨が降ると、たちまち水位が上がるのだと言う。

「もし奴らの本陣に川船に詳しいもんがいて、この話を聞いたら、厄介な事になるな」弥助が言うと、

「街道沿いに、斥候を出そう」と清八も応じた。

 弥助が懐中時計を見ると、もう午前十時になっていた。


 一時間ほどすると、横地が馬の群れを連れて戻ってきた。

「途中で斥候に会ったよ。土佐藩の見廻りと出くわしたって」

「左様です、早く積換えましょう」ところで、横地の後ろで馬を引いている百姓は、あの第七連隊の迷子兵ではないか。

「おい平蔵、伏見以来だな」

「あんたらが来ると聞いて、出迎えに来たよ」

 旧交を温める間もなく、船から俵を馬の背に積換えた。この場合、俵を荷駄の背に左右ひとつずつ括りつける。荷駄(つまり馬か牛)一頭に馬子が一人付き、これを「一駄」と数える。三艘の荷物は、四十駄以上にもなった。三艘の乗員が計九人であった事を考えると、川船輸送がいかに効率的であったか、お察し頂けよう。

 横地が、

「もう、いいんじゃねえか」

と言い、三番小隊は戎服に着替えてランドセルを背負った。そして、隠していた小銃を取出して肩に担いだ。

「この人数なら、容易に手出しして来ぬだろう。よし、旗を立てろ」

 横地がそう言い、日の丸を先頭に一行は出発した。平太は、適当な木の枝を削って旗竿にしていた。

 喜助は残りの金を貰い、最後に舟を川に押出して貰って、満足そうに手を振って鬼怒川を下って行った。

 弥助達は街道に出、しばらく進むと隊列の一部が分かれた。

「干鰯をやるんだ」と横地は言った。

 偽装のために積んできた高級肥料の干鰯を、荷駄の報酬として土地の百姓に与えるのだ。「窒素、リン酸、カリ」は肥料として重要だが、漁業技術の進んだ江戸時代後半の日本では、イワシなどを処理して肥料にしており、それが干鰯だった。

 弥助達は堂々と街道を更新してゆく。対岸の土佐藩がこれを察知したとしても、渡河して来るにはそれなりの時間がかかる。

 従って何事もなく、一行はやがて登り道に入った。


 弥助達は、合流する大鳥軍が日光にいると思っていたがそれは正確ではなかった。

「日光」とは、東照宮やそれを支える門前町の事である。

 大鳥軍は、幕府ゆかりの日光に立て篭もろうとしたが、肝心の日光奉行に「東照宮を戦火にさらすのか」と言われ、さらに山奥の藤原に本拠を置いていた。

 標高が高いので、夜になると涼しい。弥助と清八は、呼ばれて、やはり日の丸の立つ宿舎で大鳥圭介に会った。

「ずいぶん前になるが、君たちとは駒場野で会っているな」

 秀才らしく、大鳥は覚えていた。

「はい、大鳥様は長州の大村とご一緒でした」

 弥助は答えた。

「そうだな。思った通り大村はできる男だった。上野戦争の顛末など聞くと、今の皇国で、一番の将帥かも知れん」

 弥助は、自分のような者にまでそんな事を言う必要はないと思った。士気が上がる訳がない。噂通り、大鳥は学者タイプなのだろう。

「会津候より、そなた達をすぐ送れと言ってきておる。あさってには発って貰おうと思っているが、どうだ」

「一日休めば充分でございます」

「ここには温泉もある。よく休んでいっていいぞ」


 弥助達は、生まれて初めて温泉と言うものに入った。

「いい具合に湯がしみるねえ」

と、もはや三十路半ばになっていた清八が言った。

 翌々日、会ったばかりの第七連隊の平蔵と名残りを惜しみ、会津若松へ旅立った。弥助が藤岡屋から引出した金の一部で三頭の馬を買い、江戸城から持ち出したリボルバーの弾薬を背負わせていた。エンピール用ならともかく、レミントン・ニューアーミーの弾と雷管は奥州で手に入れるのは難しいだろう。



   慶応四年六月-会津から三春へ


 三番小隊は、独立した部隊として脱走してきた。しかも、石州で大村益次郎の寝首をかく寸前までいった事や、鳥羽伏見での奮戦ぶりは、既に奥州まで知れている。このことから、弥助は、小なりと言え一軍の将として扱われた。

 つまり、前藩主松平容保に拝謁する事になったのである。

 容保は、ブタ一殿などは違って、ひどく実直な人物であった。それゆえ、長州嫌いの孝明天皇の意向を愚直に実行し、長州が復権した今になって朝敵にされてしまったのだった。その辺の事情をくどくど述べた後、

「そなた、我らが直面する一番の難問はなんだと心得る?」

と訊いてきた。

「まずは、西洋の武器を買い付けることと存じます」

「うむ、それは手段を講じてある。スネルなる商人に、平松武兵衛の名を与えて忠義を尽くさせようとしておる。まあ、西洋の者が武士の身分にどれだけ感じいるか、判らんがな。ともあれ、上海に買付に行かせている。西洋では、戦争が有るとその利に商人どもが群がってくると聞く。だから、鉄砲は金子さえあれば買えそうじゃ。現に七連発もいくらか手に入れた」

 この時期、中国では太平天国の乱(非戦闘員を含め犠牲者二千万)が進行中であった。そこへ、南北戦争(戦死者六十二万、非戦闘員の犠牲は少ないと思われる)が終結したアメリカから大量の余剰兵器が流入していた。戊辰戦争(戦死者二万人以下、やはり非戦闘員の犠牲は少ないだろう)は日本では大事件だが、世界史的に見れば規模の小さい紛争であり、上海で必要量を買い付けるのは難しくはなかった。

「すると、難問は別に?」

「うむ、その武器を扱う兵を、調練する者が居らんのだ。

 この会津は京大阪での戦争の経験もあるし、最近幕府陸軍の士官がやってきたので調練はその者に任せておる。だが、隣の二本松藩や三春藩は、小藩ゆえ洋式兵学の心得のある者があまり居らん。そなた達には、二本松へ行って調練をして貰いたい。福島の軍事局からもそう言ってきておる」

 奥羽列藩同盟の盟主の仙台藩は、福島に軍事局を置いていた。

「二本松藩も白河城攻めに参陣していると聞きましたが」

「左様、そのために元服前の者、年寄り、農兵を集めて後詰を作っておるらしい。そなた達も元は百姓じゃ。農兵とはウマが合うであろう」

 要するに、空き家同然の二本松城を守れと言う事だ。

「ところで、この若松には新撰組の土方様等が居られる筈ですが」

「おお、そうであった。そなたは土方の門弟であったそうじゃの。今日は登城している筈ゆえ、案内させよう」

 殿様の前から退出してほっとした弥助は、用人に連れられて別室へ向かった。土方はそこで、武具役人と打合せていた。

「おお、弥助か。無事着いて何よりだ」

「宇都宮で戦傷なされたと聞きましたが」

「なに、だいぶ癒えたよ。走れるようになったら、白河口へ出陣する。そうしたら、新撰組も徹底的に銃隊調練をするつもりだ。これからは銃の時代だからな」

「伏見口では、あまり当たりませんでしたからね」

 新撰組も京都時代から銃隊の訓練を受けてはいたのだが、剣士意識が強いのか射撃は下手だった。

「言ってくれるな」

 土方は笑ったが、鬼の副長にそんな口を利く弥助を見て武具役人が目をむいた。

「そんな訳で、明日も調練するから調練場へ来てくれないか。君たちに見て貰いたい」

「私たち百姓兵でお役にたちますかどうか」

「充分お役に立つのは、この僕が良く知ってるよ。

 だから、藩士の調練に推薦したのだが、百姓の調練は受けたくないとほざきおった。まったく、この期に及んでも、家柄がどうのと言って、下士の有為な者を登用しようとしない。そんなことでは、このいくさには勝てんよ」

 薩摩や土佐も含め、どこの藩でも身分別に部隊を編成していた。そして、下級武士や農兵の部隊が優先して実戦に投入される傾向が有った。武士や農民の別なく部隊編成をした長州奇兵隊の真の革新性は、そこにある。

「この方も、苦労されてるよ」

 土方は武具役人の方を見た。聞けば、上級武士の子弟(高校生程度)で編成された白虎士中隊と言うのが有り、ヤーゲル銃を支給されているのだが、こんな銃では戦えないから七連発と取替えろと押掛けてきたらしい。この時は退散させたが、

「お父上方は藩のお歴々ですので、なかなか厄介でございます」武具役人は頭をかいた。子供とはいえ身分意識だけは一人前なのである。「同じ白虎隊でも、寄合隊とは大違いですよ」

 白虎寄合隊とは下級武士の子弟で編成された部隊で、少年にもかかわらず越後口で既に実戦に投入され、大人と肩を並べて奮戦していた。ほとんど実戦には出ていない白虎士中隊の方が、後年有名になり涙を誘っているのは、皮肉な現象である。

 それにも驚いたが、弥助は別の事も気になった。

「会津藩にも七連発が有るのですね」

 この七連発とは、アメリカ製スペンサー・ライフルの事である。西部劇によく登場するレバー・アクションだから騎兵銃としては良いが、伏せ撃ちに不便なので歩兵用としてはアメリカでも普及しなかった。日本でも、標準装備としたのは佐賀藩ぐらいである。

「はい、各隊の隊長に配布しております」武具役人は答えた。

「だからさ、隊長の仕事は指揮する事で銃を撃つ暇などないから、銃士全員に七連発を持たせた精鋭隊を作れと言ったのさ」と土方は渋い顔になった。言った相手は露骨に不愉快な顔をし、それで終わってしまったらしい。他所者で百姓出の土方の意見など、聞く耳持たなかった。

 どうも会津は、弥助達にとっても居心地の良い所ではないらしい。


 三番小隊は、新政府への遠慮もあり、江戸ではリボルバーの射撃訓練を結局ほとんど行う機会が無かった。そこで、この機会にリボルバーの連射性を生かした陣形の訓練を行うことにした。

 レミントン・ニューアーミーは、西部劇にもよく登場するが、エンピールと同じ管打式のリボルバーである。まだ金属薬莢ではない。

 つまり、蓮根形の輪胴シリンダーの六つの穴に銃口側から黒色火薬と弾を詰め、その反対側から雷管を差しこむ。六連発なのはいいが、装填にも単発銃の六倍の時間がかかるのである。しかしレミントン・ニューアーミーは、輪胴の脱着が容易と言う長所が有った。だから予備の輪胴を持っていれば、それを交換するだけで、後世の自動拳銃と同じ手軽さで再装填ができるのである。横地のお陰で、予備輪胴は各自二個づつあった。だから、二十人の三番小隊は、一回の戦闘で十八回、計三百六十発の弾幕を張れるのである。

 弥助が勝にレミントン・ニューアーミーを所望した真の理由は、ここにあった。

 翌日、三番小隊が調練場へ行ってみると、新撰組は6人程であった。主力は白河城攻略に参加しており、負傷兵ばかりがここにいた。

「狙いのコツはこうですよ。息をこう・・・」

などと、剣士たちに教えるのは妙な気分だった。

 昼食後は、三番小隊の訓練に充てた。

 弥助の号令で二列横隊になり、前列は膝をつき後列は直立する。その隊列でリボルバーを一斉射撃する。しかも号令で、空砲を一発ずつ発射する。

 さらにその横隊を円形に組換え、同じく一斉射撃。包囲された時の陣形である。

 てきぱきとした動きに、新撰組も「おう」と感心していた。鳥羽伏見で薩長の西洋戦術と渡り合った彼らには、弥助の意図する事が判ったようだ。

 弥助としては、後列の者が前列を撃たないか心配だった。小銃は銃身が長いのでその心配はないが、拳銃となるとそうはいかない。しかし、

「前列の者の頭の上にピストルを置け」と教えた通りにやってくれたので、その心配もなさそうだった。

「後列、輪胴換えろ」

 前列がエンピールを構えて警戒する中、後列が雑嚢から輪胴を出して交換する。空の輪胴は雑嚢にしまう。弥助が八つまで数えたところで、交換が完了する。

 次は前列、こちらは九つでそろった。

「よし、最初にしては上出来だ」

 次は実弾射撃。三十歩の距離に立てた的に、ひとり六発ずつ撃って実弾の反動を再確認する。

 最後に、野外で輪胴に再装填する練習。

「見事だな、弥助」土方が声をかけた頃には、陽が落ちかかっていた。まだ杖をついていた。足に銃弾を受けたので、無理が効かないようだ。

「僕らは、今少し養生したら白河口へ向かうよ」

「私たちは、明日二本松に向います。土方様の後詰ですね」

「そのうち呼ぶからな、調練しておけよ」

 ふたりは肩を叩きあって別れた。


 翌日、弥助達は日の丸を先頭に越後街道を東へ向かった。しばらく行くと、

「お、あれを見て見い」

 旗手の平太が指し示す方を見ると、視野が開け、湖が広がっていた。猪苗代湖だ。

「広いなあ。波までたっとるわ」

 湖畔に腰をおろして握飯を頬張る。連れてきた三頭の荷駄も、のんびり道草を食んでいる。

「ああ、こんなところで嫁取りして暮らしたいじゃん」平太は仰向けに寝転んで夏の太陽を仰いだ。六月と言っても新暦では七月下旬、暑い盛りであった。

「おめえ、この辺は冬になると腰まで雪にうまっちまうぞ」清八が冷やかすが、聞いた話で体験している訳ではない。

「本当?」

「それにおめえ、土地の百姓の俺たちを見る目付きを見たか」

 ああ、と何人かが頷いた。

「会津は、京都守護職なんぞになっちまったから、その費用に厳しく年貢を取立てて、領民の恨みをかってるらしいや。城にいる時、下っ端の役人がそっと耳打ちしてくれたぜ」

 今度は年貢どころか戦争を呼びこんでしまった。三番小隊もその片棒を担ぎに来たのだから、道中気を付けろと言われたのだ。

「さあ、行くぞ」

 弥助が声をかけ、一行は出発した。日もだいぶ傾いたころ、山道に差し掛かる。この峠を越えれば会津領を抜ける。

 峠を降りるとすぐ中山宿と言う小さな宿場が有る。一行はそこに投宿した。


 翌日は北へ向かい、二本松城に至る。

 二本松藩主丹羽左京太夫は、織田信長の重臣丹羽長秀の末裔である。丹羽家はいったん家康に改易されてしまうが、二代将軍秀忠に大名に取立てて貰ったという経緯があり、将軍家には恩義があった。奥州と関東を結ぶ要の位置に移封されたのは、譜代大名も同然という意識が、幕府側にもあったのかも知れない。石高も十万七百石有り、決して小藩ではなかった。

「年貢を納める百姓を慈しめ」と言う藩是を掲げて、民政にも力を注いでいたと言う。

 この右京太夫に型どおりの挨拶をした後、三番小隊は藩士丹羽権左衛門の屋敷を宿舎にあてがわれた。

「当主である倅は、銃士として白河攻めに加わっておるので、この与兵衛が家を預かっておる。名前の通り当家は藩主一族の末席を汚しておるので、屋敷が広いのだけが取り柄じゃ。まずはゆるりとされよ」

と、出迎えた老人が笑った。

「これ、弥太郎、善次郎、ご挨拶せぬか」

 与兵衛のふたりの孫が現れ、弥太郎十五歳、善次郎十三歳とそれぞれ名乗った。江戸藩邸詰だったのか、一家には余り訛が無い。

「我ら、木村銃太郎隊長の門下で、砲術を学んでおりまする」と兄。

「隊長は、江戸の江川太郎左衛門先生の門下で、洋式砲術を学んだ方です」と弟。

「木村隊長は、三番小隊の方々に、散兵戦術の調練をしてほしいと申しておりました」

 兄弟がかわるがわる言う。きらきらした目で弥助を見つめている。

「よろしい、まずは調練の成果を見せて貰いましょう」

 後ろから美人の母親が、もう遅いですよ、と声をかけたので兄弟は退出した。「本物のいくさを知っている方は、何か違いますね」と廊下で善次郎が言うのが聞こえた。

 あのようなお子達が大砲方とはいささか驚きましたと弥助が言うと、与兵衛は、

「あれの父親が白河で西軍を食い止めておる。御心配めさるな」

 さすがに兵士として使うつもりはないようであった。


 三番小隊が翌日調練場に行進してゆくと、大砲方は既に集合していた。みな与兵衛の孫たちと同年輩である。ミネー銃を担いでいた。弥助よりも若いと思われる若侍が号令をかけると、少年たちはきびきびと整列した。現代の日本人は、整列など子供でもできると思うかもしれないが、後進国で軍隊を訓練する者がまずぶち当たる壁はこの種の事なのである。江戸末期、日本は先進国の条件を既にいくつもクリアしていたことは、覚えておくべきだろう。

 若侍が、隊長の木村銃太郎であった。聞けば二十三歳であった。

「私は歩兵のタクテキについては詳しくないので、宜しくお願い申す」と謙虚に言った。

 さっそく、清八が少年たちの前に立って訓示を垂れようとすると、

「貴殿は、ご直参ですか」と聞く者が有る。

 今は士分に取立てられたが、もとは相模の百姓だと答えると、徳川家では手柄を立てれば士分になれるのかと感心している。

「士分なのに、どうして大小を差していないのですか」と聞く者があるので、剣術を知らない百姓が刀を差しても重いだけだから、代わりに弾を余計に持つのだと答えると、新しい戦争はそうなのかと素直に納得している。

「長州征討の折、長躯大村益次郎を追詰めたと聞きましたが」

と言う者が有ると、少年たちは口々にその時の事をお話し下されとせがむ。目がきらきらしている。そう、実戦経験の豊富な三番小隊は、少年たちにとって英雄なのだ。

 清八はその事に気がつくと、厳しい顔つきになった。

「まず最初に言っておきます。実際の戦争は、勇ましいものじゃねえ。味方の隊列で砲弾が炸裂すると、人の手足や五臓六腑が千切れて飛び散ります。生き残った者も、恐ろしさの余り糞尿を漏らします。ほんもののいくさとは、そう言う物です」

 そうすると「わしは武士じゃ、糞尿など漏らしたりはせぬ」「そうだ、恐れはせぬ」と叫ぶ者がいる。

「その様な物言いは、いくさをしてからにしなさい」清八はたしなめた。

「恐れを知らない兵は、実は良い兵ではありません。すぐに戦死してしまうからです。

 よい兵とは、隊長から下知された自分のお役目を果たせる兵の事です。そのためには、まず死んではなりません」

 子供たちは、目を見開いて聞いている。「武士道とは死ぬことと見つけたり」式の教育とはいささか違った話である。

「糞尿を漏らしながらも、味方を助ける事ができる兵、これが戦争で実際に役に立つ兵です。良い兵は、敵がどうするかを考え、それをかいくぐってお役目を果たす方法を考えます。敵を恐れない者は、敵を侮り、簡単に討取られてしまいます。これでは犬死です」

 子供たちは真剣に肯いていた。

「では調練を始めましょう」

 そばに立って見ていた木村が、苦笑いをしていた。

「さすがに実戦を生き延びた方は違いますな。この私には、あのような事は教えられません」

「何人もの仲間を失って得た教訓です」弥助が答えた。

「ところで、田畑殿にはあちらの農兵の調練もお願いしたい」

 武士から「殿」付けで呼ばれると、何かこそばゆい。しかし、農兵の前に立った時、唖然としてしまった。かろうじて火縄銃を持っているのは猟師ばかりで、あとは槍、棍棒と言う者もいる。これをどうやって訓練しろと言うのか。

「ううん、小銃を持ってこそ、百姓も互角に戦えるのですが」

 弥助が言うと、

「何とか、荷駄の警固ぐらいはできるようにしたいのですが、どうでしょう」

 と、農兵の隊長を務める武士も途方に暮れている様子だった。

「では、斥候のやり方を教えましょう。武器など持たず、野良着で行けばよい」

「斥候と言うより、間諜ですな」

「同じ小銃でも、ミネー筒もあればスナイドルもある。佐賀藩などは連発銃を持っています。大砲もホーイッスルだのカノンだの、種類があります。相手が何を持っているかで、戦争のやり方が違ってきます」

 農兵達は、役割が出来て喜んだ。この辺は隣の会津藩と違うようだ。

「それと、もうひとつ。木村様の幼年の方たちが持っているミネー筒を猟師に渡し、敵の指図役を狙い撃つのです。長州戦争で我らはこれに悩ませられました」

 この提案に、木村と農兵隊長は腕組みをして考え込んでしまった。ふたりは、藩庁に掛け合ってみますとだけ言った。

 

 その夜、与兵衛老人の希望で弥助と清八は共に夕食を摂った。老人に問われるまま、調練の様子を報告した。兄弟の母親が給仕を務めた。

「そうかそうか、良くやっておったか」

 与兵衛は目を細めた。

「ええそれはもう」主に話したのは清八である。「這って進め、と言うと、素直に泥だらけになって下さいましたよ。武士に腹ばいになれとは何事か、などとおっしゃらずにね」

「会津であろう。特に上士は依怙地だからな」

 清八は駒場野の幕臣を言ったのであるが、おそらくこの時代、日本国中で起こったのだろう。

 弥助は、猟師を狙撃兵とする件を話し、与兵衛にも藩庁への進言を頼んだが、やはり腕組みをして考え込んでしまった。

「ううん、ミネー筒が有り余るほどあればそれもできるがな。しかし、いくさは武士がするものじゃ。長州ではどうか知らぬが、当藩ではそうじゃ」

「お言葉ではございますが、あのような幼年の方たちより、猟師の方が戦争の役には立ちます」

「幼年とはいえ武士じゃ。武士たるもの、いくさの役に立つ備えをせねばの」

「私は、貴重なミネー筒を使いこなすにはどうすべきか、申上げているのです」

「武士には武士の役目が有るでの」

 どうやらこれが二本松藩であるらしかった。

「ところで解せぬ事がひとつあります。木村銃太郎様は、西洋の砲術を学んだ立派なお方です。今のように幼年の方々を教えるより、白河攻めの大砲方を指揮すべきお方とお見受けしましたが」

「その様な意見は家中にもあったが、若輩ゆえ叶わなかった」

「左様なのですか。今は乱世、才覚有る者を登用しなければ戦争には勝てませんよ」

「そうかもしれんが、若輩者を登用するとなると、いろいろあっての」

 与兵衛は目を伏せた。

 奥羽諸藩は幕末も最終段階になってから、この乱世に巻き込まれた。ために意識が着いて行かなかったきらいがある。情報収集を怠っていたのだと批判すれば、それまでなのではあるが。


 与兵衛の家での生活は快適であった。食事になると、美人の母親が下女の先頭に立って配膳してくれる。調練の日程が毎日有るわけでもなかった。余った時間は自分たちの調練に使う事にした。

 新政府軍の立て篭もる白河城は、相変わらず落ちなかった。白河攻めの主力は仙台藩であったが、二本松を通過して行った彼らの装備は、なんと火縄銃だったといい、この辺に問題の根っこが有りそうだった。「我らでさえミネー筒を都合したに、あれが六十万石か」と与兵衛も不満を漏らした。

 そうこうするうち、六月下旬には新政府軍が磐城平潟(現福島県いわき市)に上陸し、仙台藩や岩城平藩との戦闘が始まった。

 しかも六月二十四日、白河城から出撃した板垣退助の部隊が、棚倉城を攻略した。棚倉は白河と磐城平潟の中間にあるので、海沿いと内陸の新政府軍は自由に連携がとれる事になる。棚倉攻略に兵を割いた白河城を見て、奥羽側が攻撃をしかけたが、情けなくもまた失敗した。

 これを受けたのか、七月に入ると福島の軍事局から、二本松の東隣の三春藩へ移動するよう使者が来た。藩兵を訓練する為だと言う。「実はそれは口実で」と使者は言った。「三春は、もともと勤王派の強い藩なのですよ」

「そうなのですか」

「ええ、奥羽列藩同盟に加わったものの、西軍との戦争には兵を出し渋っています。裏で和議を進めている疑いもあります。

 磐城の戦況も思わしくないので、三春に警戒の兵を出すよう手配しておりますが、まずは百戦錬磨のお手前方に行ってもらいたい」

「それは、我らが敵中孤立すると言う事ではございませぬか」

「すぐに援兵を送りますゆえ、ご理解ください」

 使者は、軍資金として五十両取出した。三春での生活はいろいろ物入りになるかもしれない。


 翌々日の夜明け前、弥助達は出発した。城下のはずれで、木村隊の少年たちや、農兵が見送ってくれた。弥太郎、善次郎の兄弟も懸命に手を振っている。

「ははは、可愛いなあ」と弥助がつぶやくと、

「息子も可愛いが、母親の方も可愛いね」と清八が言う。

「なんだお前、そんなこと考えてたのか」

「たまには、目の保養が無くっちゃね」

 二十人の兵と三頭の荷駄は、道案内の二本松藩士を先頭に間道を南下した。三春城下まで二十キロ余り、午後には到着する予定である。


 三春藩五万五千石は、太平洋側の磐城から奥州街道上の郡山へ抜ける街道上にある。現在はここを磐越自動車道が通っているように、交通の要衝である。

 谷川沿いの街道を行くと、わずかに視界が開けその狭い盆地に城下町があった。盆地の左右に山がそびえ、ひときわ目立つ頂上に三春城が有る。

 弥助達は城下を一通り見てから、三春城へ続く長い坂道を登って行った。

 藩主秋田信濃守はこの時十一歳、伯父の秋田主税が後見人兼家老を勤めていた。

「役目大義である」

の少年藩主の一言だけで弥助の謁見は済み、ほっとした。

 次に別室で、世話役の不破主水と面談する。江戸勤めが長いと見えて、完璧な共通語であった。現在の標準語は明治になって突然できたものではない。江戸二百五十年の参勤交代で、各藩が江戸で交流した歴史が背景にある。

「お手前方には城内にお部屋を用意いたしました。調練の日程も立てておりますゆえ・・・」

「申し訳ござらぬが、宿舎は城下の東の入口にある寺にしとう存じます。街道を扼す山頂にありますゆえ、いざと言う時の防ぎにも便利でございます」

「それは心強いお言葉だが、炊事などのお世話が行き届きませぬ」

「我らはもともと百姓、心配ご無用でございます。軍資金も預かって参りましたゆえ、食も近在で買い整えます」

 不破の顔に、一瞬不快の影がよぎったが、弥助は構わず続けた。

「兵の調練は早いほどよろしい。調練をする隊が有れば、明日にでも同道いたしましょう」

「お疲れのところでまずはゆるりとされよ。春ならば、名物の滝桜などお目にかけるところですが・・・」

 このご時世で、花見を持出すとはどういう神経か。背信を疑われるのも無理はないと思った。


 希望の寺に宿を取ったが、翌日は何も沙汰が無いので、弥助は仲間を斥候のため四方に散らせた。付近の地図を作るのだ。弥助自身も、二本松藩士を見送りがてら城下を改めて見て回る。供は平太一人だった。

 城下の米屋で一俵買い、寺まで運ぶよう依頼した。店の主人と話をしたが、

「先ごろは会津を官軍として討つと言い、今度は奥羽列藩同盟を作って官軍と戦うと言う。この先どうなります事やら」

 と冷めきった様子であった。

 大陸諸国では戦争と言えば異民族や異教徒との戦いで、負ければ街の住民全員が奴隷として売られる事も珍しくなかった。ために城壁は街そのものを囲い、住民全員が家族のため死に物狂いで戦った。しかし日本での戦争は、庶民から見れば権力者の交代に伴う不愉快な現象でしかなかった。戊辰戦争もその例に漏れなかった。

 

 その翌々日、藩士から成る部隊の調練が始まった。戦争が迫っているせいか、藩士たちは真剣に調練を受けたので、弥助達も真剣に教えた。

 そうこうするうち、七月十四日、磐城平城が陥落した。何日も経ってから弥助がこの事を知ったのは、例の米屋の主人に耳打ちされてである。弥助は不破主水に、「なぜすぐお知らせくださらなかったか」と詰問したが、不破は情報が錯綜していたなどと言訳した。そればかりか、弥助が警戒のため出撃したいと言うと、

「今援兵を仰いでおりますゆえ、お待ちくだされ」と言った。

 福島の軍事局が三春に出すと言っていた警戒の兵は、仙台と会津から二百人ばかり到着していた。が、新政府軍の本隊が動けば、その程度の兵力ではとても足りない。弥助も、自分たち二十人で何ができる訳でもないので、さらなる援軍を待つ事にした。


 七月二十五日になった。昼ごろ不破主水が弥助のところに駆け込んできて言うには、

「棚倉城の敵軍が山越えで三春に向かっている様子、ただちに出動願いたい」

「敵の数は」

「四十ぐらいと聞いています。磐城平から敵の本隊が参る様子、藩兵の主力はそちらに参ります」

「四十ぐらいなら蹴散らして御覧に入れるが、後詰が出てきたら我らだけでは持ち堪えられませんよ」

「判っております。援軍も手当てしておりますので」

 取敢えず、不破の道案内で三番小隊は出発した。三頭の荷駄には、食料と弾薬を満載していた。

 山をふたつ超えたところで、日が暮れた。

「この山道を来るとすると、待伏せにはここいらがいいな」

 弥助が指示したので、野営の準備にかかる。歩哨の手配をすますと、仮眠を取らせた。


 夜明け前、弥助は仲間の一人に揺り起こされた。

「不破の旦那がいねえ」

「なんだって、小便じゃないのか」

「荷物もねえ」

 そこへ、歩哨に立っていた定吉が走ってきた。

「誰か、抜けだした。南の方へ足跡が行ってるべえ」

 不破が秘かに抜けだし、南の方へ行ったとすると・・・

「おいみんな起きろ。点呼を取ったら、出発だ」

 慌しく隊列を組んで、移動を始める。

「どう言う事だ」清八が訊く。

「棚倉と磐城が落ちた今、三春藩は降伏する気だ。だから俺たちを城下から遠ざけた」

「それじゃ、南の方から敵が来ると言うのは、うそか」

「いや、たぶん本当だろう。天朝様への忠義のあかしに、有名な三番小隊を差出すつもりだったんだろうよ。不破は、そのつなぎに南へ向かった」

「それじゃどうする」

「逃げるにしても、追手にひと泡吹かせてからだ。でないと逃げきれん」

 少し北へ行くと、視界が開けた場所に出た。南から北へ向かって小高い丘になっている。ここをあらたな待伏せ場所に選び、丘の稜線に陣を敷いた。荷駄は後方の木陰に隠した。


 しだいに夜が明けてくる。正面の小道を新政府軍はやってくるはずだ。丘の中腹、視界の右の方に、枝ぶりの良い木が有る。四方に張り出した枝を材木で支えていて、何やら大切にされているようだ。

「ここは、来る時通ってねえな」

清八が言う。

「ああ、こっちの方が近道なのに変だと思った」独自に斥候を出して、城下周辺の地形をある程度調べていたのが、役に立った。

 しばらく待つと、敵が来た。土佐藩と思われる兵が六十人ばかり。その他に砲兵もいる。弥助達は既に逃げたと思っているのか、余り警戒していない。

 先頭が百メートルあたりまで近づいた時、弥助は号令した。

「撃て」

 轟音と共に、敵が二・三人ひっくり返った。が、残りはすばやく散開し、ぞれぞれ遮蔽物に身を隠した。砲兵は駄載した砲を降ろして、木陰で組立てにかかる。結構手際が良い。

「清八、四・五人連れて、右手から回り込んであの山砲を何とかしてくれ」

「あいよ」

 清八が、定吉らを連れていこうとした時、

「あいや、あいや、しばらく」

 ひとりの武士が、両軍の間に割って入ってきた。不破主水だった。

「ここで、戦争はお止め下され」

 弥助はカッとなって怒鳴った。

「我らを敵に引渡す積りだったのでしょう。勝手な事を申されるな」

 清八はもっと過激な事を云った。

「そうだ、そうだ。臆病ざむらいなら臆病ざむらいらしく、すっ込んでいやがれ」

 土佐藩の方からも、三春藩の求めに応じで来てやったのだと、怒鳴り返す声が聞こえる。

「ここにあるのは、当藩の御用木、滝桜」不破は、例の枝ぶりの良い木の下に座り込んだ。「樹齢千年になんなんとする、三春の宝でございます」

「桜がなんだ、裏切りやがって。三春武士は、信義は守らねえが、桜は守るのか」清八がまた怒鳴った。

「仙台や会津のような大藩は、戦争か和議か自分で選ぶ事ができます。しかし、二本松や当藩ではそれも叶いません。当藩が勤王を表明すれば、たちまち仙台や会津に攻め込まれます。次には官軍との戦争に成りましょう。領地領民を、この二度の戦火から救うため、この様な仕儀となりました。申し訳ござらぬ」

 言いながら不破は居住いをただし、大小を自分の前に並べると腹のあたりをゆるめた。おまん何をする気ぞ、と土佐兵から声がかかる。

「この滝桜は、お殿様から百姓に至るまで、この三春の誇りでございます。これをおめおめと失っては、三春武士の面目が起ちもうさん。

 この通りでございますゆえ、ここで戦争はおやめ下され」

 不破は、半紙にくるんだ小刀を腹に付き立てた。

「ああ、本当にやりやがった」さしもの清八も息をのんだ。不破は小刀を横に引き、そのまま前のめりに倒れた。

 ややあって、

「幕府陸軍の方」

 土佐藩の隊長らしいのが立ち上がった。

「我らは不破殿を埋葬して行くゆえ、お手前方はこの場を立ち去られよ」

 弥助も立ち上がった。

「我らは百姓、介錯などはおまかせします」

 集合をかけると、素早く点呼を取る。土佐兵が不破の回りに集まり、介錯のため座らせているのが見える。

「手当てすれば助かるんじゃなかっぺか」定吉がぼそりと言う。

「馬鹿野郎、そりゃ最高の恥だ」清八が言った。

 不破の首が大地に転がり落ちるのを横目で見ながら、三番小隊と三頭の荷駄は出発した。

(小藩は戦争か和議か選ぶこともできない)不破のその指摘が、弥助の頭の中を廻っていた。三番小隊は自ら戦争を選んだ口だ。自分達も、疫病神の端くれではないのか。


 彼らは、偵察のため再び三春城下へ戻る。町は静かだった。通行人を捕まえて訊いてみると、仙台、会津の兵は戦わず後退していったという。わき道を抜け、城の方向へ向かう。大通りの周辺に町人たちが集まって城の様子をうかがっている。弥助達の日の丸の肩章を見ると、皆はっと息をのんだ。弥助は構わず進み、建物の陰から様子を見た。

 城へ続く長い坂道を、土佐藩の本隊と思われる隊列が登ってゆく。その入口に、むしろを敷き土下座して隊列を迎える少年藩主の姿が見えた。

 もう充分だ。

「行くぞ」

 三番小隊は、敵の視界の外を迂回し、城下を離れた。


 三春北方の山中で一息ついた時には、もう午後になっていた。朝から何も食べていない。水の手を見つけ、ここで炊飯を命じた。

 定吉らが握った握飯が二個づつ配られ、樽から直接漬物を取って食った。

「なあ」清八が言う。「三春がこんなで、今頃二本松はどうなってるかな」

「ああ、早く帰らねば」弥助も、口を動かしながら言った。主力は白河口に出払って、二本松城下には大した戦力はない。



    慶応四年七月二十九日-二本松藩玉砕


 その頃、木村銃太郎は二本松藩家老丹羽一学に呼ばれていた。

「今日二十六日、三春が落ちた。無血で恭順したそうじゃ」

「なんと、やはり」

「そこで、そなたの隊にも出陣を命じる」

「しかし」木村は抗弁した。「まだ元服前のわらべでございますよ」

 少年部隊としては会津藩白虎隊が有名であるが、それでも元服を済ませており、当時の感覚では立派な戦闘員であった。その意味でも、二本松藩のそれは際立っている。

「判っておる。しかし、そなたの門下生のように洋銃を扱える者が居らんのじゃ」

 藩は老人隊にも銃隊調練をしようとしたが、「わしらは鉄砲足軽ではない」と老人たちに反発され、頓挫していた。木村の子供たちがミネー銃を支給されていた背景には、その様な事情もある。

「あのような幼年の者たちを戦争に駆り出しては、当家末代までの恥と存じますが」

「左様な考えもあろう。だが、奥羽列藩同盟の盟約を交わした以上、武士の一分をまもってあくまで戦いぬく所存じゃ。

 殿にはそう言上するゆえ、そなたも準備を進めてくれ」

「は」木村は下を向いたまま、しばらく動かなかった。

「武家に生まれた者の定めじゃ。不憫だがの」


 翌日二十七日、弥助達は三春の北方にある小浜と言う村を抜けようとした。

 しかし、すでに長州兵に占拠されていた。

「百人ぐらい居るな。手回しの良いこった」木陰から伺いながら、清八が言った。

「それなりに築造してるから、押し通るのは無理だ」弥助も答えた。

「どうする、沢伝いに行けねえ事もねえが。馬を連れてると、難しいぜ」

「うん」弥助は考えた。荷駄の背にある拳銃弾は、火力発揮の要である。捨ててはいけない。「馬の通れる道を探そう」

 だが、集落の東側の川沿いに行こうとしたところ、敵に発見された。

 リボルバーで弾幕を張って、その場は逃れる事ができたが、兵は散り散りになった。


 この日、三春を発した新政府軍は、奥州街道上の二本松領本宮宿を攻略した。本宮は、白河と二本松の間にある。この為、白河口の軍は連絡を絶たれ遊兵化してしまった。白河城攻めに加わっていた二本松藩の主力部隊は、帰ろうにも帰れなくなってしまったのである。


 慣れない土地を長州兵に追われ逃げた三番小隊は、迷子になった仲間を集めるのにその日の午後いっぱいかかった。最後に、定吉らに引かれた三頭の荷駄がやってきた。

「どうもこうもねえべ」定吉は不満顔だった。「こいつら、昨日からまぐさを食っとらん。道草を食わせる時は、もっと時間をやらにゃ。ばてちまうべ」

 馬だから草なら何でもいいと思ったら大間違いである。栄養価の低い野草は、大量に食べさせないと体力を維持できないのだ。消化にも時間がかかる。

「判った、今日は動かんから好きなだけ食わせろ」

 道案内もいないので、夜は移動できない。二本松を案じてやきもきしながらも、野営するしかなかった。


 そのころ木村とその少年兵たちは、城下の南の入口にある大壇口の小高い丘に布陣していた。ライフル砲一門に各自ミネー銃、子供兵士には破格の装備である。裏返せば、これを使いこなせる大人がいなかったからに違いない。

 大人と肩を並べて仕事ができる嬉しさから、少年達はまるで遠足のようにはしゃいでいたと伝えられる。


 翌日は、早朝から出発した。と言っても道は判らない。太陽の方向を見て、西と思われる方向に歩いた。

「沢を下ってゆけば、阿武隈川に出る筈だ」

 その程度の、頼りない知識で歩いた。何だか、山の中をぐるぐる回っているような気がした。

 昼ごろ、沢沿いの道を歩いていると、里が近いのか農民がやってくるのに出会った。

 お互い警戒しながら近づいて行くと、弥助が斥候として訓練した農兵の一人であった。

「ああ、田畑様、ご無事で」

 弥助達は、ここで敵が本宮宿まで迫った事を知った。斥候がいくら正確な情報を上げても、それを活用するだけの兵が無い事も。

 農兵の案内で、阿武隈川の渡河地点まで移動した。

「舟を見付けてめえりやす。馬を渡すなら、それなりの舟を見付けねば」

 そう言って農兵は夕闇に消えた。


 農兵は夜半に戻ってきた。朝一番に、舟が来るよう手筈を付けたと言う。

 翌二十九日の朝は霧が出ていた。川岸で待っていると、川船がやってきた。人を渡すのは簡単だが、馬はそうはいかない。荷物を降ろした状態で、船に載せる。三度に分けて、渡河した。

 馬に荷を括りつけていると、南の方から砲声らしきものが聞こえてくる。急がねば。


 少年兵の守る大壇口に、南の本宮宿方面から薩兵が迫ってきた。木村は充分に敵を引き付けると、榴弾の火縄を調節して発砲を命じた。初弾は敵の頭上で炸裂し、破片を降らせた。少年たちは歓声を上げた。

 電波を出して目標との距離を測る近接信管などない当時、これは見事な砲撃技術と言わざるを得ない。


 三番小隊は、二本松郊外の街道で長州兵と戦闘になっていた。小浜から進撃した部隊であろう。

 清八が半数を連れて迂回し、背後からリボルバーの連続射撃を浴びせた。長州兵はたまらず逃げた。

 長州兵の居たところは、二本松の外郭陣地のひとつであった。戦国さながらの甲冑に身を固めた老兵が、そこここに倒れていた。少年ばかりではなく、六十五歳以上の老年隊も動員されていたのだ。装備は槍だった。

 まだ息の有る者がいた。

「おお、幕府陸軍のお方か」弥助が抱き上げると、老人がうめく。「不様なことよの。こんなことなら、鉄砲の調練をしておけばよかった」

「しっかりなさいませ」

「わしはもう駄目だ。介錯を頼む。

 それから、頼みがある。わしの孫が大壇口で木村銃太郎と共に戦っておる。頼む。孫を、守ってくれ。幕府陸軍のお方」

「承知しました。私は百姓ゆえ、介錯は致しかねますが」弥助は立ち上がって、リボルバーを抜いた。

「御免!」

 老人の心臓に一発撃ち込んだ。

「大壇口とはどこだ」弥助は農兵に訊いた。「行くぞ」


「隊長が撃たれちった!」

 少年兵のひとりが叫んだ。ミネー銃で射撃していた弥太郎、善次郎の兄弟を始め、みんな集まって来た。既に何人かの仲間は動かなくなっていた。

 木村は腰から血を流していて、歩けない重傷である事は子供にもすぐわかった。

「私を介錯して城まで下がれ」

 木村は苦しい息をしながらそう言った。副隊長格の武士が、覚悟を決めて刀を抜き、木村の首を切り落とした。

 その時、弥太郎の胸に衝撃が走り、大地にどうと倒れた。

「兄上、兄上!」

 善次郎が助け起こすと、胸に大穴があいていた。弥太郎は激しく咳込み、血を吐いた。

「皆と一緒に逃げろ」

「兄上と一緒でなければ」

「母上を頼む。母上、母上!」

 それが最期の言葉だった。弥太郎は気管に出血し、激しく咳込みながら自分の血で溺死していった。なす術もなく見守るしかなかった善次郎は、仲間に引き連られ後退した。


 弥助達は城下の市街戦に巻き込まれていた。日の丸の肩章のある兵と出会うと、会津兵だった。

「我らは、会津領まで退く。仙台兵もぬげた。城に残ってるのは、家老、重臣の他は老兵ばっかだ」

「大壇口の陣地はどうなりましたか」

「奥州街道沿いの陣地は、あらかた壊滅スた」

 それでも弥助は、前進を命じた。


 この時、善次郎の祖父与兵衛は城内にいた。周囲には甲冑姿の老兵ばかりがいた。

「こんなことなら、与兵衛の言うとおり、洋式銃隊の調練を受けておけばよかったの」ひとりが言う。

「まだ遅くないわい。足軽共が捨てて行った和筒を集めればひといくさできる。そちとて鉄砲の撃ち方ぐらいは知っておろう」

 そうだの、と何人かが火縄銃を集めに出て行った。

「ところで与兵衛、お主はなぜ甲冑を着けておらんのじゃ」

「今どきの鉄砲は甲冑では防げぬ。ならば身軽な方が良い」

「お主のところに泊っておった、幕府陸軍の百姓兵の入れ知恵か」

「そうじゃ。百姓兵と言うが、あの者たちは天狗党の頃から戦っておる。それに引き換え、我らは今どきの戦争の何を知っておる。今日、初めて知ったのではないか」

 そこへ重臣の内藤四郎兵衛が戻ってきた。

「ご家老は何と」与兵衛が訊くと、

「ふん、あの慮外者め、城を焼いて自刃すると申しおった。信義のため戦って死するこそ武士の本懐と言い出したのは、自分ではないか。ならば戦って死ね」

「では、我らだけでも戦って死にましょうぞ」

「おお、自害など禁ずる。みな、この四郎兵衛について参れ」

「今、城内の鉄砲を集めております」

 老人たちは堂々と城門から押出し、火縄銃の一斉射撃後敵陣に突撃して、戦死した。


 弥助達は、城下を南に進もうとしていた。リボルバーの一斉射撃で目の前の薩兵を排除し、取敢えず一息つく。

「ああ」伊兵衛が叫んだ。「城から火の手が」

「おいどうする」清八が訊く。「逃げ込む場所もなくなっちまった。このままだと、俺たちまで袋の鼠だぜ」

「ちくしょう、ここいらが潮時か」弥助は歯軋りした。

「おい、あれは」伊兵衛が、今度は南の方を差す。ひとりの少年武士が、道の真ん中に悄然と立っている。着物は泥だらけ、顔は煤だらけで真っ黒の敗残兵姿だが、それでも身の丈ほどもあるミネー銃を引きずっているのは、さすが武士の子と言わねばなるまい。戦う意思を放棄していないのだ。

 弥助達が駆け寄る。何と、善次郎だった。顔見知りと出会ってほっとしたのか、泣きじゃくり始めた。訳を聞くと、大壇口の戦闘の後、皆とはぐれたのだと言う。

「城下の方々は、水原と言う所に立ち退かれたご様子。お母上もそこにおられやしょう」清八が言った。「そこまで参りましょう」

「いやじゃ」善次郎の返事は、意外だった。「兄上の仇を討ちとうございます。助太刀下され」

 善次郎は土下座した。

「お願いでございます。助太刀下され」

「この上、あなたまでが戦死されたら、お母上はなんとしますか」清八はいつになく懸命だった。

「わしは武士じゃ。死ぬ事など怖くない」

「お母上はそうは参りませんよ」

 すると善次郎は立ち上がった。

「助太刀下さらぬのなら、ひとりでも行く。それが武士じゃ。百姓には判らぬ」

「ええ、判りません。その士道とやらの為に、何人もの立派なおさむらいが死ぬのを、この目で見て参りました。もう沢山でございます。腕ずくでもお連れしますよ」

「いやじゃ、いやじゃ。兄上や木村先生の仇を討つのじゃ」

「もう、さむらいの世は終りなのですよ。少しはお考えなさい」

 その言葉に、善次郎ははっとした。今、進行していることの本質が子供ながらにも判ったようだった。

 善次郎が脱出を承諾したので、三番小隊は北へ向かって移動を始めた。


 その日は夜通し歩き続けた。藩主一家が脱出したと言う水原に向け、二本松藩の女たちの列が続いていた。新暦ではもはや九月十五日、夜は冷えた。途中で出産したと言う女に出会ったので、荷駄に載せた。

 幸いにも、水原に善次郎の母親はいた。息子を返すと、弥助達は防衛線に加わるため、また南下した。会津国境には、土方がいる筈だ。



    慶応四年八月-母成峠


 二本松を占領した新政府軍は、しばらく動かなかった。今後の作戦方針が決まらなかったからである。

 江戸の大村益次郎は仙台へ進軍を命じていた。おそらく、仙台藩兵の戦いぶりを見て組みしやすしと思ったのだろう。弱い所から刈取るのは、西洋であろうが和漢であろうが、兵法の常道である。

 が、二本松の現地司令部は会津攻めを主張した。仙台の攻略に成功したとしても、もう降雪の季節となり、会津での戦争は来春まで持ち越しとなる。いや、雪に不慣れな西国の兵士たちでは、形勢逆転となるかもしれない。大村もそんな事は判っていたろうが、仙台・米沢が落ちれば、会津一藩ならどうにでもなると思ったのだろう。

 激しいやり取りの末、会津が越後口・日光口にも戦力を割いている今が好機だとする現地司令部の意見が通った。この間、約一カ月ほどである。

 

 三番小隊は、二本松から会津に向かう街道上にいた。母成峠と言う急峻な峠道で、防衛陣地を構築していた。

 ここには、日光方面から転戦した大鳥圭介が、二本松城奪回のため、いた。彼は、新政府軍の進攻ルートはこの母成峠だと見ていたが、会津藩では中山峠だと見ていた。弥助達が二か月前に通った、あの道である。二本松から会津に抜けるにはこちらが本道だ。だから、大軍を擁する新政府軍は、単純に中山峠を通ると会津藩は思ったのだ。

 しかし大鳥は、「我らが待ち構えているのが判っている所へ、わざわざ攻めかかるとお思いですか」と反駁した。「鵯越の故事をお忘れか」と言うと、会津側はますます依怙地になった。

 そのため、母成峠の防衛部隊は、二百人ばかりの会津兵が三重の防衛陣地を築いているだけだった。

 他にも、伝習隊四百を始め、二本松兵、仙台兵、会津兵、新撰組、そして三番小隊がいたが、これは二本松奪回部隊だった。

 新撰組に、土方はいなかった。傷がまだ癒えておらず、時々リハビリを兼ねて馬で打合せに来る程度だった。

 八月半ば、弥助は大鳥と各台場を見て回る機会が有った。台場には、日の丸が翩翻と翻っている。

 第三線の陣地は、母成峠を過ぎた会津側に有った。

「これを、反対斜面の陣地と言う」と、大鳥は言った。つまり、二本松側から峠を攻める敵軍からは、峠の反対側は見えないので、砲撃では潰せないのだと言う。実際航空機が発達するまで、反対斜面陣地は厄介な存在だった。

「だが、敵が存在を知らないとは限らない」大鳥は、峠の上からある方向を示した。

「会津兵が焼き払った村でございますな」

「その通り、あんな事をすると、領民を敵に回してしまう。今も、この辺の藪の中に百姓の目が光っているかも知れない」

 大鳥はこの種の事を学者らしく嫌い、宇都宮では略奪を働いた兵を実際に処刑している。

「敵将は薩州の伊地知と聞きましたが」戦線の後方では、弥助の訓練した斥候が今でも活動しており、時折情報をもたらしていた。

「ああ、伊地知にしろ、土佐の板垣にしろ、実戦で経験を積んで上手くなってきた。それに引き換え我が軍は負けいくさ続きで、士官は経験を積むどころかどんどん戦死してゆく。やはり、戦いは勝たねばだめだな」

 そう嘆息した。

 峠を越えた二本松側に、第二台場が、そしてそこを下った所に第一台場が有る。こんにちの言い方だと「縦深に防衛陣地を配置した」となる。味方の第一台場、第二台場を突破してくる間に、敵は兵力を消耗して攻撃衝力を失う、という計画である。上手くゆけば、砲撃では潰されない第三台場から押出し逆襲もできる。それには、こちらも充分な防衛戦力が必要なのだが、それが足りなかった。要請しても送ってくれないのだ。会津藩で戦争の判る人間はだいぶ戦死してしまったからの、などと大鳥の繰り言を聞いていた弥助の目は、別のところに釘付けになった。

「大鳥様、あれは」

「第一台場か。敵の正面を引受けるゆえ、木砲しか置いていないが」

「もくほう?木の大砲でございますか」

「そうだ」

「あれをもっと小さくできませんか。人が担げるくらいに」

「どうだろう、訊いてみようか」

 大鳥が話を付けると、二十歳を過ぎたばかりの若侍がやって来た

「仙台藩大砲方、秋津正之助と申します」

 弥助は自己紹介を済ませると、早速木砲の諸元を述べた。歩兵ふたりで担ぐか荷駄で戦場を機動できる事、射程は百メートル程度、一発撃てれば良い。

「あらかじめ弾込めして戦場に赴きます。撃ったら、捨てて身軽になります」

「なるほど」大鳥は感心している。「ピストルの連続射撃に加え、大砲か。奇襲にはもってこいだな。一発撃ったら捨てて身軽になる、と言うのも気に入った。大砲は高価な武器だが、木砲ならそう気にする事もない。材料はいくらでもあるしな」

 しかし、正之助は首をかしげている。

「国の師匠に、我らの魂である大砲を最初から捨てるつもりで作るとは何事か、と小言を言われそうですが」

 多少訛はあるが、共通語でそう言った。

「秋津君、これはなかなか面白い試みだ。ぜひやってみてくれ」大鳥は乗り気である。

「そうですね、当たり前の事をやっていても戦争には勝てませんから」

 正之助は仙台藩から三番小隊へ「出向」し、伊兵衛らを指揮して木砲を作る事になった。寝起きも一緒だ。


 正之助は、仙台藩の大砲方の家に生まれ、江戸の江川太郎左衛門の塾に留学していた。だから、二本松の木村銃太郎を良く知っていた。清八が、善次郎少年から聞いた木村最期の模様を物語ると、

「子供たちを守って死んだか。奴らしい」

と、目を潤ませた。

 木砲だから、材料は付近の山にいくらでもある。だが問題になったのは砲弾であった。砲弾を作るような設備はこの山中にはない。鍛冶屋を探そうか、と言っていると、正之助が妙案を思い付いた。小銃弾多数を袋に詰めて、木砲から発射すると言うのだ。何なら、その辺の小石でも良い。散弾砲である。

「古釘や鉄くずを集めて撃った例が、実際にあると聞きます」

 これを屑鉄(さってつ)弾と言い、散弾の代わりであった。さすがに、正規に洋式砲術を学んだだけの事はあった。

「ただし、ピストルの距離ほどに接近しないと、威力は無いと思います」

 どの道、それくらいの距離で使うつもりである。

 ただ、正之助の話を聞いた時、定吉がぽつりと言うのが、弥助の耳にも聞こえた。

「弾が雨みたいに飛散るのけ。むごいもんだべ」

 明治維新の頃から、世界史的に銃火器が急速に発達を始める。それは、戦死者を量産する手段の発達であった。


 散弾には、結局その辺の小石を使う事になった。補給状況から小銃弾を使うわけにはいかなかった。古釘も、農村では鍛冶屋がすぐにリサイクルしてしまうので、集めようがない。前近代では、鉄は貴重品なのだ。

 砲その物は、試作品を何門か作ったが、順調に完成した。正之助は、先祖が木砲の小型化を研究した事が有り、そのデータを覚えていたのである。

 八月二十日が、二本松奪回作戦と決まった。

 だがその二十日に、猪苗代で奥羽列藩同盟の軍事会議が有り、大鳥も出席させられると言う。もちろん抗議したが、そっちが勝手に作戦の日程を決めたと言わんばかりだったらしい。

「何とかならないのですか」と弥助は尋ねたが、大鳥も、「あの連中は、評定部屋で戦争してるからな。まあ良い、会議の件は敵にも知れるだろうから、そのに当日に攻められるとは、敵もおもわんだろう」と、多少投げやりに答えた。


 二十日の未明、三番小隊の持つ三頭の馬の一頭に、定吉と平太が木砲二門を括りつけていた。

「できたか」と弥助が訊くと、

「なあ弥助、この木砲、本当に使うのかい」と定吉。

「もちろんだ。何でそんな事を訊く」

「こんなん、むごいものを」

「戦争だ、しかたない」

「だども、石つぶてが何個も敵兵の顔にめり込んで・・・」

「やかましい!」

 弥助は突然定吉の襟首を掴むと、地面に引き倒した。

「お前たちの命を守るためだ、何が悪い」

「おいよせ」清八と平太が割って入る。周囲には新撰組の斎藤一をはじめ各藩の士官が、何事かと人垣を作った。

「散弾で死ぬのもミネー弾で死ぬのも同じ事だ」清八に引き剥されながら弥助は喚いた。「戦死のどこが違う」

「人相も判らなくなっちまうべ。誰が死んだか判らなくて、在所にどうやって知らせる」

「そんなこと、おらが知るか」

 その時、定吉をかばっていた平太が口を開いた。

「おみゃは、わしらと違うから」

「なんだと」

「下妻で、伊兵衛と三人で天狗党と鉢合わせした事が有ったじゃん。天狗党の血刀を見て、わしは怖気づいたが、おみゃと伊兵衛は逆にやる気が湧いてきた」

 弥助はその時の事を思い出した。歩兵仲間を斬ったであろう血の滴る刀を見て、弥助の心にむくむくと復讐心が湧いて来たのだ。

「おみゃは、いくさ向けなんじゃんよ。小便ちびった事もなかろう。三番小隊で、そんな奴、おみゃだけじゃん」

「そんなことはない、この清八だって」

「俺もあるぜ」清八が冷静に言った。「三番小隊で、小便ちびった事が無いのは、数馬様とおめえだけだ。だから、みんな付いて来たんだぜ、いくさ向けのおめえに」

 弥助は呆然と立ち尽くした。自分では秘かに知識人の積りでいた。国学の知識はその辺の武士より豊富だし、漢籍だって読める。だから、知識人の常として、戦争は忌むべきものと思っている。今だって、百姓兵の力を見せて武士の世を潰すために、止む無くここにいるのだ。

「おらはいくさ好きじゃねえ」

「そんなことは判ってる。でも、弾の雨の中でもおめえは落ち着いて指揮する。自分が死ぬとは思っちゃいねえ。だからいくさ向けなんだよ。これからも頼むぜ」

 落ち着いたので、周囲の人壁は去って行った。拙者の隊にもいくさ向けの百姓がござるよ、などと士官たちが話し合っているのが聞こえた。

「鳥羽伏見でも小便を漏らさなかったか、名将の資質とはそんなものでござろうな」

 斎藤一が、弥助の肩を叩いた。


 夜明けと共に、先頭の二本松兵が出発した。道案内だ。二番目が伝習隊、三番目が三番小隊と新撰組二十名、そして仙台兵、会津兵と続く。新撰組も、この時期には当然のように小銃を担いでいた。

 山道を下りながら、弥助は先ほどの事を考えていた。俺が、自分は戦死しないと思ってる?そんなことはない。俺だって怖い。皆と違わない。ただ、どうやって生き延びるか、考えているだけだ。

 やがて平地に出る。両側に山が迫る、幅数百メートルの狭い平地で、畑になっている。ここに差し掛かった時、前方で銃声がした。

 喇叭が鳴り、伝習隊は道の左右に展開した。

「何が有った」

 新撰組を指揮していた斎藤が、叫びながら前へ走る。弥助も続く。新撰組と三番小隊もその後を追う。横隊に展開した伝習隊が発砲した。耳をつんざく轟音と煙。伝習隊の士官が振返って何か言うが、聞こえない。

「何が有った」士官に追い付いて、斎藤が再び訊く。

「敵兵およそ三百と遭遇、旗は土佐柏だ」士官が答える。

「峠の陣地を抜きに参ったのですな。それが今日とは」弥助も追い付いた。

「おそらくそうだろう。後詰が居ろう。三百では済まぬぞ」士官が敵の後方を。望遠鏡で伺う。

「新撰組と我らが左手の山林を迂回して、敵の後方に出ましょう」言いながら、こうだから俺はいくさ向けと言われるのだ、と思った。

「うむ、敵の本陣を付けるやもしれぬ」斎藤も同意した。

「おい、木砲を降ろせ」弥助が命じると、斎藤が、

「おい、鉄之助」と呼ぶ。まだ十五、六の少年がやって来た。

「お前にあの馬を貸すから、峠まで伝令に走れ」

「しかし、裸馬では」

「つべこべ申すな。乗れぬなら馬を曳いて一緒に走れ」

「はいっ」少年は素直に答えると、荷降ろしを手伝うため走って行った。

「良いよな」斎藤は弥助に訊いた。

「有難うございます。馬を捨てて行かねばならぬところでした」捨てて行ったら、また定吉に何を言われるか判らなかった。

 三番小隊と新撰組は、左手の山林に分け入った。上から見ると、伝習隊の横隊の左右に、仙台兵と会津兵が展開して、土佐兵と銃撃戦の最中だった。土佐兵三百の背後では、さらに三百ほどの後詰が左右に展開して、包囲しようとしていた。

 今日の会津兵は農兵が中心、とても昔日の精鋭度は望めない。仙台兵も「ドンゴリ」、つまりドンと砲声がすると五里逃げると言う評価が定着していた。

 どうもまずい状況だ。


 土佐藩の谷干城は、集団の中央で指揮を執っていた。

「こがな所で手間取ったら、今日中に峠にとりつけん。あ、荷駄は後ろに下げとけ。

 四斤砲、はようしやせんか。右翼の会津兵に狙いを付けたら、呼べ」

 その時、右手後方で砲声がした。驚いて振り向くと、四斤砲を守っていた歩兵が隊列を崩している。右手の藪の中から、バンバンバンと連続して撃ちかけてきた。ピストルの音だ。続けて二十人程の武士が斬り込んできた。砲を取る気だ。

 谷は前進していた部隊から二個小隊を呼びもどした。


 弥助達は四斤砲を確保した。例の木砲は、小石では殺傷力は不充分だが、敵を追い払うには充分だった。問題は次の段階。

「早くしろ、囲まれるぞ」斎藤が叫ぶ。

 正之助が指図して、砲四門を倒して多量の火薬を詰め込んでいた。砲の回りにも黒色火薬の袋を積む。

「終わったか、新撰組の方々下がってください」

 弥助の指示で、新撰組が山林に駆け込み、援護射撃の体制を取る。次に、三番小隊が下がるが、土佐兵はリボルバーの火力を警戒して、すぐには追ってこない。

 山林まで退くと、弥助は、

「火薬の袋を狙え」

と命じた。

 砲の回りの火薬袋に銃弾が集中し、着弾の摩擦熱で発火した。轟音と共に四斤砲が爆発した。

 それを確認すると、弥助達は山林を撤収した。


 砲を失い、呆然とする谷干城の肩を、板垣退助が叩いた。後詰を率いて到着したのだった。

「砲などまた送ってもらえばよかぜよ。旧幕の伝習隊は町人出じゃから、抜刀して斬りこませろ」

 谷は板垣の落ち着いた態度に我に返った。今日の伝習隊は良く見れば前装式のミネー銃で発射速度は遅い。後装のシャスポー銃は弾が尽きたのであろう。白兵戦に持ち込めば武士階級主体の自分たちの方が確かに有利だ。

「右の会津兵は、素人の農兵です。そっちから片付けましょう」

 板垣は満足そうに頷いた。


 弥助達が山の上から見ていると、土佐兵はまず会津兵に斬り込んだ。そちらが崩れると、反対側の仙台兵に突撃する。両翼が逃げてしまったので、中央の伝習兵が自然と最後尾を受け持つ形となり、後退していった。伝習兵はフランスの軍事顧問から銃剣格闘術も伝授されていたが、所詮日本の武士のような高度な白兵戦能力を持った相手を想定したものではない。だから土佐兵相手に、損害を出した。斎藤はそれを見ると、

「今すぐ横合いから斬り込む」

と言ったが、弥助が止めた。兵数が違いすぎる。

 伝習隊は犠牲を払いながらも会津・仙台兵の逃げる時間を稼ぎ、山道へと後退した。正面が狭くなったので、土佐藩の攻撃を、銃撃戦で夕方まで持ちこたえることができた。夜になるのを待って、母成峠の陣地まで後退した。


 翌日は、母成峠に押寄せてくるであろう。軍事会議から急ぎ帰った大鳥圭介は、無事だった部下と肩を叩きあい喜んだが、すぐに命令を発し部隊を配置に付けた。続けて弥助と斎藤を呼んだ。

「君たちには明日も今日と同じことをやってもらおう」

 つまり、右翼の間道を伝い敵の背後に出て、砲弾を焼き払うのである。

「ここは山地だから、敵は西洋のハンニバルのように背後に回る包囲戦はやらぬと思うが、もし大人数とぶつかったら、適当に撃ち掛けて、藪の中に逃げ込みたまえ。それだけでも良い」

 大鳥は、そう念を押した。

 翌朝の母成峠は、濃い霧に覆われていた。その中を、三番小隊と新撰組は、右翼の間道に入って行った。木砲二門は、歩兵達が交替で担いだ。

「昨日、西洋のなんとやらが心配だと言っていたが、何のことだ」斎藤が弥助に訊いた。

「ハンニバルとは、二千年以上も前の武人です」正之助が、答えた。

「歩兵が正面で敵の攻撃を引受け、その隙に騎兵が敵の背後に回り込み、押し包んで討ち取る戦法を完成させました」

「それなら、『三国志』でもやってるな。西洋だけじゃない」斎藤も、それくらいなら知っている。

「そう、兵法の基本だから、西洋の士官学校では必ず教えています。基本は簡単なのですが、機を見て騎兵を放つなど、結構難しいらしいのです」

「なるほど、その騎兵の役割を歩兵に与えたとしても、こんな霧の山中では立ち往生して上手くゆかないから敵はやらないだろう、と大鳥様はおっしゃったのですね」弥助も合点がいった。

「そうだと思います」

 ところがしばらく歩くと、前方から人の声がするのに気が付ついた。

「止まれ、静かに」

 弥助の命令で、全員が凍りつく。

 正面の藪の陰から、洋装の小銃兵が現れた。

「二列横陣組め」

 三番小隊が前に出て、前列が片膝をつき、エンピールを構え木砲を据え付けた。砲には簡単な脚が付いている。新撰組は下がった。敵先頭が視界に入って来ると、こちらに気付いたか左右に散開を始める。

「撃て」

 エンピールの轟音が轟く。硝煙が晴れる間もなく、敵が突貫してきた。

「木砲撃て。ピストル構え、撃て」

 連続射撃で敵兵の足が止まり、何人かが地面に転がる。

「今のうちに、少し下がりましょう」

 斎藤が頷いた。

「伊兵衛は、横に回り込んで敵の人数を探れ。平太、一緒に行け」

「わしが行くの」と平太が情けない声を出したが、伊兵衛が引きずって行った。

 弥助達は間道を後退し、適当な場所で敵を待伏せる。敵が居って来ると、引き付けて三番小隊が猛射を加え、新撰組が右手から斬り込んで敵を撃退した。

「もう一度同じことをやりましょう」

と、後退して適当な場所に布陣していると、伊兵衛と平太が戻ってきた。

「敵は薩州だ。見えただけでも四~五小隊いる」

「何、そんなに」弥助と斎藤は顔を見合わせた。

「こっちは、新撰組と合わせても一小隊分しかいないぞ」

 この時弥助達の正面にいたのは、闘将伊地知政治率いる薩摩小銃一番隊から六番隊、部隊番号からも判るように、最精鋭であった。

「どうやら一小隊に、林の中を回り込ませてるようだぜ」

「そうなると、後ろから挟み討ちか」

「どうする、弥助」斎藤が訊く。斎藤はやはり一介の剣士でしかなく、作戦指導は弥助頼りだった。

「ここを引払いましょう。敵が我らの後ろに回り込む積りならば、さらに後ろを取ってやるのです」

「よし、そうしよう」

 再び後退して適当な藪を見付け、待っていると下の間道を薩兵が進んできた。かなり兵の間隔をあけている。

 射撃の効果は少ないが、止むを得ない。

「撃て」

と弥助は命じた。薩兵は、やはりわずかな損害で物陰に難を逃れた。

 と、その時右手から銃声。新撰組が発砲した。林の中を進んできた薩兵に遭遇したのだ。銃を捨てて、斬り込む。

 横から仕掛けてきたからには、呼応して正面も突貫する筈だ。だが、正面は動かない。これはどうした事だ。そうか!ここからは見えないが、藪の中をさらに大きく迂回している小隊が、我らの背後を突くに違いない。

「清八、十人連れて、左手に回れ。敵が回り込んで来るぞ」

 清八が頷く。

「みんな引くぞ。斎藤様にも伝えろ」

 さすが薩州、弥助の思惑をはるかに超えた迂回運動をやっていた。兵力にも余裕が有るのだろう。


 弥助達は、やっとの思いで二番台場まで引揚げた。途中で点呼を取ると、三番小隊は一人欠けていた。新撰組の市村鉄之助が泣きながら言った。

「私が敵に追われていると、歩兵の方がピストルを撃って逃がしてくださいました。輪胴を交換していましたが、どうなったかわかりません」

 新撰組も三人欠けていたが、彼らは仲間を探すこともできなかった。第一台場は既に奪われ、二番台場が正面と右翼から迫る敵の防戦に追われていた。土佐藩の後詰めの四斤砲の射撃も始まっていた。

「右の敵を足止めできず、申し訳ありません」弥助が言うと、大鳥は、

「君の罪ではないよ。もっと人数を付けるべきだった。私の不明だ」と言った。「握飯を食ったら、台場に加わってくれ」

 が、三番小隊が加わる間も無く第二台場は敵に奪われた。大鳥が自慢した反対斜面の第三台場も、峠の頂上に新政府軍の砲兵が進出してきたので、意外とあっけなく落ちた。砲声に驚き、またもや仙台、会津藩兵が逃出し、陣地に穴が空いたのだ。伝習隊だけが踏みとどまり、またもや損害を出した。

 こうして、鶴ヶ城への進撃路が開かれ、一ヶ月後に会津藩は降伏した。

 


    明治元年冬-箱館


 母成峠の後、大鳥、土方らは鶴ヶ城に合流しようとしたが、会津藩に拒絶された。もはや会津人だけで戦うと言う。それで憤激しながらも止む無く仙台へ移った。三番小隊も、この二人について行くしかない。

 仙台湾には、榎本武揚率いる旧幕府海軍の艦隊が停泊していた。スクリュー船を主力とする本格的な西洋式艦隊である。聞けば、清国もこれほどのものを持っておらず、東洋一の艦隊だと言う。なぜその艦隊で、磐梯平への新政府軍の上陸を阻止してくれなかったのか、弥助は不満に思った。宝の持腐れではないか。

 九月初め、仙台では奥羽列藩同盟の軍事会議が持たれた。その席上、榎本は同盟軍の総督に土方を推薦した。実際、この時期の同盟軍に「闘将」と呼べそうな人材は土方ぐらいしかいない。士気の落ちている同盟軍に喝を入れにはそれしかないかと、ほかの参加者もそう思ったが、呼ばれて会議室に現れた土方は、闘将らしくこう言った。

「総督をお引き受けする以上、大藩のご家老衆といえども軍律に背けば斬って捨てますが、宜しいか」

 もっともな理屈である。「ドンゴリ」と暗喩されている仙台藩の代表などは、顔を真っ赤にして下を向いてしまった。

 しかし、異を唱えた者が有った。

「その様な生殺与奪の権は、本来主君に属するもの。各ご家中で、ご決裁を仰ぐべきです」

 二本松藩の代表であった。多くの藩士が戦死し、領国も既に失われている。これ以上の戦争は真っ平だったのかもしれない。

 ともあれ、これも理論的には正しい。では殿に図ろう、とほっとした空気が流れ、土方総督の件は一時棚上げになった。

 棚上げになっている間にも、状況はどんどん悪化していた。九月三日に、米沢藩が降伏した。十日には、太平洋岸仙台・相馬藩境の防衛線が破られた。もはや降伏しかなかった。


 九月十一日、弥助は榎本艦隊の艦上に有った。新暦では十月二十三日、甲板に出ていると寒い。七月十七日に江戸が東京と改称されたのは聞いたが、三日前に明治と改元されたことはまだ知らかった。

 艦のタラップを、軍服の日本人が西洋人の士官を連れて上がって来た。

「君は田畑君だったな。榎本だ、宜しく」

 榎本は、土方よりひとつ下と聞いているから、三十路半ばであろう。西洋人に何か言っている。弥助の事を説明しているらしい。

「こちら、フランス士官のブリュネ殿だ。我らに加わるため、軍を脱走してこられた」

 旧幕府が招聘したフランス軍事顧問団のひとりであった。記録を見ると彼らの平均は百七十センチ前後、当時の日本人の感覚では大男ぞろいであった。

「脱走?西洋ではその様な事が許されるのですか」

「もちろん許されない。国に帰れば、お尋ね者だ」

 ブリュネが右手を出しながら、何か言った。「ミシュ、タバタ」と聞こえた。

「西洋式の挨拶だ。右手で握り返したまえ」

 弥助も右手を出した。大きな手で、力強く握り返された。殴り合いをしたら負けるなと思った。

 ブリュネが榎本に何か訊いている。「サムライ」と言ったのだけ聞き取れた。

「ブリュネ殿は、君が百姓出の兵を率いて、武士を圧倒した事に興味を持っている。どんなやり方をしたのかと。日本の武士の白兵戦の強さは、西洋人も一目置いているらしいよ」

 弥助は、リボルバーの連続射撃で弾幕を張る要領を説明した。榎本の通訳を、ブリュネは真剣に聞いていた。

「その様なやり方は、日本の複雑な地形だから有効なのだろうと言っている。大陸の開けた地形では、使用できる局面は限定的だろうとも」

「なるほど、『使用できる局面は限定的』ですか」

「西洋では、その様な言い回しをする。長い文になると、翻訳はなかなか難しいよ」

 ブリキ太鼓の音が響き、投錨地そばの陸地を、赤い軍服を着た一隊が行進してきた。

「おお、額兵隊参ったな」

「仙台藩の洋式歩兵でございますね。元込式のスナイドルを持っていると言う」

 横浜で洋式兵学を独自に学んだ星恂太郎が、藩士の次・三男を素材として訓練した仙台藩の精鋭が、この額兵隊である。総勢約八百名。上着は、英国式に赤と黒のリバーシブルであった。

「藩からは、一日も早く出兵するよう催促されていたが、充分な弾薬が無くては戦争に成らぬと、配下の者たちと弾薬作りにいそしんでいたそうだ。弾薬が出来て、いざ出陣しようとしたら、藩の降伏を知らされたらしい。そう聞かされても、納得できない者たちが我らに合流しようとああしてやってきたのだよ」

「何と、まあ」これも宝の持ち腐れか。「弾が無くてはいくさはできませぬし、戦争とは難しいものですね」

「君たちのように、手っ取り早く調達する策を講じれば良かったのだ」

「私どもは運がようございました」

 江戸城の武器庫から、リボルバーとその弾薬を盗み出した顛末は知っているようだった。

「君は知らないだろうが、結構な騒動になったよ」

 榎本はそう言って笑った。

「実は我ら三番小隊が江戸を出奔したのは、榎本様のお考えを知ったからです。蝦夷地を旧幕臣で開墾すると言う・・・」

「ほう」

「私が引連れてきたのは、在所に帰ってもろくな居場所がない者です。ですから、奥羽でも蝦夷地でもいい、土地を見付けて百姓に戻るのが、他の者たちの夢です」

「では君自身が蝦夷地に渡りたい訳ではないのだね」

「私は江戸に戻ります」

「仲間と一緒に村を作ってもいいだろうに。なぜ?」

 弥助は一瞬口ごもった。が、榎本には話しておくべきだと思った。

「私には許婚が居りますので」

 弥助は、首に下げたお守袋から婚約指輪を取出した。

 榎本どころかブリュネまでが、驚いて指輪を覗き込んだ。

「ブリュネ殿が、田畑君はこの様な品を持っている日本人第一号だろうと言っている。いやはや、これは驚いた」

 海軍の士官がやって来て、星恂太郎殿が面会を求めています、と告げた。

 ブリュネが大きな手で弥助の肩を叩いて、死んではならぬと言い、ふたりは星を出迎えに行った。

 二十年後、軍事顧問団長のシャノワーヌが陸軍大臣に出世した時、脱走歴があるにもかかわらずブリュネを参謀総長に抜擢した。してみると、フランスは最優秀の人材を教官に送ってくれたのに、幕府は生かすことが出来なかった事になる。


 十月二十一日、榎本軍は箱館北方の太平洋側にある鷲の木に上陸した。

 西洋式のボートで三番小隊も浜まで運ばれた。浜には、既に上陸した兵の編成が行われている。

「ううい寒い。雪が積もっとるじゃん」

 三河育ちの平太は、雪を見ただけで凍えそうだった。

「風もないのに、底冷えするべ」

 上州育ちの定吉も、未経験の冷え方だった。仙台で三頭の馬を売り払ってから、少々元気がない。

「それはそうと、新撰組が土方様の所に整列してないのは何でだべか」

 弥助が答えた。

「我らは土方様の軍に加わるが、新撰組は大鳥様が率いることになった」

 新撰組は、国許が降伏し行きどころのなくなった桑名藩士らを大量に吸収し、隊長も桑名藩士森常吉に代っている。斎藤一ら何人かが会津に残ったので、京都以来の隊士は数えるほどだ。

「ようやく浜に着いたべ。足を濡らしたくないのう」

「もし濡れたら、足袋を履き換えてください。あとで大変ですよ」

と、北国育ちの正之助が言った。彼も仙台藩の降伏に納得せず、脱藩して付いてきたのだった。自慢の木砲は艦に置いて来たので、今はただの小銃兵である。


 編成が終了すると、大鳥軍は内陸を、土方軍は太平洋沿いの道を向け進撃、明治政府の箱館府に降伏勧告の使者を送ったが、拒絶されたので戦闘になった。相手は旧式装備の弘前藩や松前藩であったので、大した困難もなく箱館を占領できた。

 続いて土方軍は西方の松前城に向かい、十一月五日にには、落城させた。この間、三番小隊は予備として土方の本陣を警備していたので、戦闘することはなかった。

 だが次の江差攻略で大事件が起こってしまった。榎本艦隊の主力開陽丸が、座礁・沈没したのである。榎本艦隊の優位性は、ひとえにこの艦の火力にあったので、新政府軍の渡海攻撃を防ぐ手段が無くなってしまった。

 開陽丸の江差派遣は、「海軍にも活躍の機会が欲しい」と若手士官に突き上げられたからである。春まで待てば、いやと言うほど活躍の機会がある事は目に見えていた。榎本のくだらないミスだった。


 年が明けた。

「江戸と違って、さみしい正月じゃん」

「江戸じゃねえ、東京だ。去年の十月には、天朝様が江戸城へお入りになったじゃねえか」

 平太と清八が言葉を交わしていた。ここは、箱館の大網元萬屋専左衛門の店の一室、ここに宿を取った土方歳三の警固と、市中取締りのため三番小隊も共に居住していた。

「でも、どうして京都から江戸に移る事にしたのかね」

 清八が頭をかしげると、横になっていた弥助がむっくり起き上がった。

「おそらく、パークス辺りが手を回したんだろうよ。百万人のマーケットを守りたくて」

 江戸無血開城には、英国公使パークスも暗躍していた。当時世界最大の都市であり、その市場を破壊したくなかったからである。

「考えて見ろよ、江戸が徳川の都でなくなったら、百万の人間は在所に散っちまう。だけど、天朝様を持ってきて、この国の都にすれぼそれは防げる」

 そう言って、またごろりと横になった。最近、弥助はひどく機嫌が悪い。そこへ、正之助が戻って来た。

「フォルタンの所で、変な噂を聞きましたよ」

 フォルタン軍曹は脱走フランス軍人のひとりで、砲兵士官を集めて座学をしている。正之助は、江戸にいた時フランス語をかじっており、フランス人と頻繁に会話する機会を得てめきめき上達していた。

「今、五稜郭で、江戸から持ってきた小判を使って二分金を鋳造してるらしいです。ただし、金の割合は十分の二」

「なんじゃいそりゃ。幕府の二分金は十分の四じゃなかったか」清八も、最近は博学になっている。

「その通り、半分の値打ちしかありません。

それから、新税を設けるらしいです。一本木町の出口に関門を設けて、町人が山へ青物を摘みに行くときには、二十四文の銭を取る、夜働きする女には手形を出し月一両二分取る。

 税じゃありませんが、市内二か所に博打場を設けて・・・」

「もういい!」寝ていた弥助が、突然大声を出したので、皆驚いた。

「蝦夷地は徳川家が貰うんじゃなかったのか。なのに、百姓を敵に回すようなことばかりしてどうなる」

「まあ、そう怒るなよ、とりあえず金がなきゃ、どうしようもあるめえ」

 清八が宥めた。箱館政権には三千人の兵士が居り、月一両一分の給金を必ず払わねばならない。金は無いが武器は持っている人間が何をするか、治安維持のためにもそれは必要だった。

「百姓町人のためにもなる金だぜ」

「そんなの、詭弁だ」

 弥助はますますふてくされて、目を瞑った。

「まあまあ、難しいお話で。お茶をお持ちしましたよ」障子が開いて、下女のお福が大きな盆に載せた湯呑を差し入れた。漁師だった亭主を海で亡くしてから、萬屋に住み込みで働いているとのことだった。幼い息子が一人いて、清八が凧などを作ってやっていた。

「おお、いつも済まねえね」

 清八が立ち上がって、ホイホイと受取る。

「今日は、皆さん走りませんの」

「そうねえ、正之助さんも帰って来たから、一服したら行くよ、なあ弥助」

 返事はなかった。

「おい弥助」

 また返事はなかった。

「田畑指図役!」

 弥助がむっくり起き上がるのを見て、お福は下がった。

 足音が遠ざかるのを確認して、弥助が言った。

「なあ清八、お福さんて似てねえか、あの二本松の」

「うるせえやい!」


 正月早々から、フランス人教官による厳しい調練が始まった。欧米諸国が、箱館政権を反乱勢力と見なすことが明らかになったからである。おそらく、雪解けと共に新政府軍の上陸が有るだろう。

 それに対して、箱館政権は精一杯手を打った。有名な宮古湾海戦で新政府側の新鋭艦を奪取しようとしたが、失敗した。三番小隊も加わる筈だったが、乗っていた蟠龍が悪天候ではぐれてしまい、参陣できなかった。

 箱館政権の劣勢が明らかになるにつれ、市民の目も冷たくなっていった。重税を呪い「榎本ブヨ(武揚)」と吸血昆虫になぞらえて陰口を叩いていることが、兵達の耳にも聞こえてくる。

 箱館政権にできる事は、上陸予想地点に兵を配置することぐらいだった。



    明治二年春-五稜郭


 四月九日、新政府軍は警戒の薄い日本海側の乙部村に上陸した。付近の防衛兵は一蹴された。新政府軍は、三方に道を取って箱館に進撃した。

 土方は伝習隊など三百名を率い、箱館北方の二股に陣取った。ここは内陸の乙部村から山越えで直接箱館を狙えるルートで、こんにちの国道二二七号線に当たる。土方の本陣には、後詰として三番小隊の姿が有った。

 土方の指示で、台場山周辺に十六カ所の胸壁を築造したが、弥助は全く感心してしまった。

 土方は、本格的な洋式兵学は学んでいない。なのに、この兵の配置や火線の張り方はどうだ。どうあがいても、敵を不利に陥れるようにできている。

 土方には、武将としての天性の資質が有るらしい。

 十三日、新政府軍と接触、攻撃が始まった。大雨の中、猛烈な銃撃戦の結果撃退に成功した。双方増援を得た、二十三日から二十五日の戦闘でも土方軍は負けなかった。

 しかし、日本海側の拠点が、松前、木古内、矢不来と陥落したため、二股を保持する意味もなくなり、四月二十九日に土方軍は箱館へ撤退した。

 

「おい、清八の姿が見えないが、どこへ行った。正之助さんもだ」

 弥助が苛立って五稜郭の中を捜しまわっていた。五月十一日、ついに新政府軍の箱館総攻撃が始まったのだ。

「萬屋へお福さんの様子を見に行ったべ。正之助様も連れてった」定吉の、見かけは愚鈍なしゃべり方が、弥助を益々苛立たせた。最近は逃亡兵も多い。

「お福さんと名残を惜しむのに、何で正之助さんが要る。

 昨日、土方様にも言われたろう。俺たちは最後の後詰なんだ。いつ出撃の命が有るか判らんのに、勝手な事を」

「弥助は土方様と一緒に戦かえれば嬉しいかもしれんけど、俺たちはそうはいかん」

「なんだ定吉。それはどういう意味だ」

 その時障子が開いて、清八と正之助が戻って来た。

「ずいぶん騒々しいな」

「清八、どこへ行ってた。」

「萬屋へも行ったが、プロイセン領事館へも行ってきた」

「プロイセンだと、おまえ、いつからそんなに国際派になった」

「いやはやまったく」正之助が頭をかいていた。「言葉がしゃべれるだけでは、国際派とは言えませんね。頭の中身から変えないと。清八さんは大したものです」

 なるほど、通訳として正之助を連れて行ったものらしい。清八が訳を話し始めた。

「プロイセンの何とか言う商人が、この近くの七重村の土地三百万坪を、九十九年間借りる条約を結んだろう」

 商人の名はガリトネルで、蝦夷地の気候が故国に似ている事に目を付け、ヨーロッパ式農業を伝授する名目で、箱館政権から開墾地を租借したのだ。これを聞いた時、弥助は気に入らなかった。九十九年とは香港と同じではないか。ここを足がかりに、周りの土地も奪う積りに違いない。

「だが聞いたところじゃ、人手が足りねえらしい。夷人と言うだけで、なんかおっかねえんだな。ところがここに、ちっとは夷人を見慣れてる百姓が二十人ばかしいる」

 弥助はあっけに取られた。新政府軍に軍事的打撃を与えた上で蝦夷地の入植を認めて貰うしかないと思っていたのだが、清八たちはもっと現実的な選択肢を探っていたのだ。

「おらは、多摩に帰るよ」

「ああ、正之助さんも国に帰るそうだ。でも他の連中はここに残る。蝦夷地に、骨を埋める覚悟だ。プロイセンの租借地なら、落武者狩りの手も及ぶめえ」

「そうか」

 ついに来るべき時が来てしまった。皆、家を建てる場所を探してここまで来たのだ。帰るべき家がある弥助とは、いずれ袂を分かたねばならなかった。

 そこへ、伝令がやって来た。

「土方様がお呼びです。箱館山付近に敵が上陸して、弁天台場の新撰組が孤立しました。土方様は、三番小隊を率いて出陣すると仰せです」

「承知しました」

 弥助は反射的にそう言ったが、みんなの顔を見た。もう、戦場に身を晒したくないに違いない。

 思いがけず定吉が口を開いた。

「新撰組なら助けねばなんねえべ。島田様なんか、もう他人とは思えん」

 ちげえねえや、と全員が立ち上がった。


 三番小隊は、五稜郭の庭に整列していた。木砲二門を括りつけた荷駄も一頭いた。土方が騎乗して前に立つ。

「君たちには良い隊名を付けてやらねばと思っていたが、いまだに叶わんな」

「お気になさいますな」清八が言った。「俺たちは七年前から三番小隊。西丸下三番小隊で充分でございますよ」

「すまんな。ところで弥助、今日はおとなしいな」

「そんなことはありません。それより、早く弁天台場へ」

「よし、ではみんなの健脚ぶりを見せて貰おう。早掛け前進!」

 馬上の土方を先頭に、三番小隊は走った。

 箱館市内は、既にそこここに新政府軍が進出していた。海では、双方の海軍が砲撃戦を演じているのが見えた。その中を、弁天台場に通じるまっすぐな道を進んでいった。

 一本木関門まで来ると、箱館山方面から敗走して来る大勢の兵を、ひとりの士官が押しとどめようとしているのに出会った。が、敗兵の勢いは止まらず、士官の左右から、こぼれる様に兵が逃げて行く。

 土方は大音声を発した。

「陸軍奉行並、土方歳三である。みなその場に止まれ!」

 土方が愛刀を抜くのを見て、敗兵の足が止まった。

「まだいくさは終わっていない。臆病風に吹かれるな」土方は関門で馬を止め、手近な兵に刀を突き付けた。

「退く者あらば、この土方が斬って捨てる」

 敗兵達はその場に凍りついた。鬼の副長の噂を、知らぬ者はいない。逃げれば本当に斬られるであろう。

 その時、海から爆発音が聞こえた。

 見ると、新政府側の軍艦から火柱が立ち上がり、大きく傾いて行く。火薬庫に火が回ったのであろう。

 土方はその瞬間を逃さなかった。

「見よ、天はまだ我々を見放していない。我が海軍に続け!」

 おうー、と弥助が鬨の声を上げると三番小隊も続き、それは敗兵達に次々と伝染していった。

「土方さん、右手から敵が迫っています」関門にいた士官が言った。陸軍奉行添役の大野右仲であった。

「うむ、前へ進む道を作ってやらねばな。おい弥助。手前から回り込んで、あいつらを追っ払ってくれ」

「横から木砲を撃ってやれば、慌てて逃出すでしょう」弥助も応じ、木砲を荷駄から降ろして三番小隊は関門から出て行った。

 草むらを迂回し、敵の横に着いた。相手は松前藩兵であったが、去年より装備を一新していた。身のこなしも、まるで違う。相当調練してきたに違いない。

 木砲を据付け、発砲と共にリボルバーの連続射撃を行った。突然の砲声と、多量の発射煙に驚き、松前兵は後退していった。

 前進して掃討すれば、なお安全であるが、弥助はプロイセン租借地入植の話を思い出し、やめた。ここまで来て戦死者を出したくなかった。

 ともあれ街道が安全になったので、敗兵達は大野に率いられてまた前進していった。


 草むらの中で、三人の松前兵が囁き合っていた。

「なんだ奴ら、歩兵のくせにピストルを持ってるぞ」

「それに、あの大砲は、木で出来てるぞ。破裂したりしねえのか」

「一発撃ったら捨ててた。そう割り切れば使えるんだろう」

「あいつら、会津で官軍を手こずらせた三番小隊じゃねえのか」

「ピストルを持ってるから、そうかも知れねえが、それにしては詰めが甘い」

「ああ、この草むらを探しもしねえで戻っちまった、おかげで命拾いだ」

「素人っぽいな。もうちょっと、近付いてみっか」

 故郷を奪われた松前兵は、怒りに燃えていた。


 関門の前で、土方はひとり馬首を回らし、行きつ戻りつしていた。三番小隊が戻る。

「僕はここで兵の逃走を止める。君たちも、ただちに弁天台場へ向かってくれ。」

「それでは土方様おひとりになってしまいますが」


「あの馬に乗ってる奴」

「ああ、いい士官っぷりだ。賊軍の名のある大将に違いない。殺すには惜しい気もするが」

 三人の松前兵は、腹ばいになったまま関門の様子を窺っていた。

「それがいくさだ。どうだ、狙えるか」

「松前藩砲術方の腕前を見せてやるよ」

 彼はゆっくりと引金を引き絞った。


「心配するな。僕を誰だと思っているのだね。

 さあ、弁天台場の囲みを説いて、新撰組を助け出して来てくれ」

「お気を付け下さい」

 弥助が振向いて号令をかけようとした瞬間、銃声が轟き、土方が弾けるように馬から落ちた。

「土方様!」

 弥助と正之助が駆け寄った。背後で清八が、どっちだと叫んでいるのが聞こえる。

「しっかりなさいませ」

 弥助は土方の傷を見た。腹部貫通銃創。傷口から止めどなくも血が流れ出している。正之助が手拭を押しあて止血しようと試みるが、みるみる赤く染まってゆく。腹部大動脈切断、と直感した。

「申し訳ありません。草むらの中をもう少し探索していれば。私の失態です」

「気にするな。新しい時代に、鬼の副長の居場所はないよ。これでいいんだ」

「お気の弱い事を申されますな。土方様は、次の時代の陸軍にも必要なお方です」

「次の時代の日本国の陸軍。日本陸軍か。いい響きだ」

 土方は激しく咳込んだ。

「弥助、水をくれ」

「はい」土方の上体を起こし、水筒の口を含ませる。その間にも、土方の血液は失われていった。

「君に死水を取って貰う事になるとはな。近藤さんでも斎藤君でもなかったか」

 土方はそう言うと、目を瞑った。

「なあ弥助。多摩で、君のへぼ剣術の相手をしていた頃が、一番楽しかったな」

 土方の体から、力が抜けた。脈を取っていた正之助が、首を振った。

「土方様」

 土方は目を瞑ったままだった。

「ひじかたさまーっ!」

 弥助の獣のような絶叫が、原野に広がって行った。


「おい、何か聞こえたか」

 三人の松前兵は、一瞬足を止めた。

「ひじかた、と聞こえたような気がするが」

「ひょっとして、あの土方歳三か」

「ならば大手柄だが、鉄砲のいくさでは、誰が誰をやったのかよく判んねえな」

「首級を揚げれば証拠になるが、散兵戦では無理だ。さむらいのいくさはもう終わりだな」


 弥助の絶叫を聞いて、仲間が集まって来た。弥助は下を向き、子供のように泣きじゃくっていた。

「くそ、逃がしちまったぜ。おい弥助、泣いてるなよ。次はどうする」

 清八が訊いた。弥助は思った。そうだ、俺は士官だ。三番小隊の隊長だった。どうするか、決めなければ。

 そう思った時、弥助の中で何かが折れた。

「え、何か言ったか、弥助」

「かいさん」

「何だって」

「三番小隊、解散!」

 いつもの号令、気を付け、直れ、解散。いやこの解散は違う。

「ここから脱走していいのか」

「みんな、好きにしろ。おらは、土方様をどこかに葬って来る、薩長の手の届かない所へ」

「私も手伝います」正之助が言った。「ひとりじゃ大変だ」

 皆で、土方の遺骸を平太の持っていた日の丸にくるみ、愛馬に載せた。

「それじゃ、行くよ」

「これを持って行け」

 弥助は清八に、紙の包みを渡した。

「十両ある」

「藤岡屋の金が、まだこんなに残ってたのか。ありがたく貰ってくぜ」

「お福さんによろしくな」

 清八たちは、ガリトネルの土地を目指して出発して行った。数年後、明治政府はガリトネルから租借地を取り戻すのに大変な苦労をするが、それは清八たちの責任ではあるまい。


 翌朝、土方を葬った弥助と正之助は、包囲の狭まる五稜郭へ戻って来た。庭には、フランス人達が何故か全員集合しており、そばには大鳥圭介も立っていた。

「おお、田畑君か。安富君が、君の隊の者から土方君が戦死したと聞いたそうだが、まことか」

「ふたりで、さる所に埋めて参りました」

「さる所か。そうだな、誰も知らん方が安らかに眠れるだろう」

「三番小隊も解散いたしました。勝手な事をして申し訳ありません」

「詫びなければならんのはこちらの方だ。こんなところまで引っ張って来て、この負けいくさだ。君たちは本当によく戦ってくれた。すまぬ。

 このフランス人達も、今から脱出するところだ」

 フランス人と話していた正之助が、弥助の方を向いた。

「私が彼らの通訳で、弥助さんは下男だそうです」

「なんだって」

「これからフランス船で東京に向かうそうです。それらの名目なら私たちも同行出来るだろう、と言っています」

「それが良い、田畑君。遠慮せずに行きたまえ」

「それならば、下男らしい恰好をせねば」

 弥助はランドセルから野良着を取出して、その場で着替えた。フランス人達は、珍しそうにふんどしを見ている。

「天璋院様お手縫いの戎服ともお別れだな」

「ではご迷惑がかからぬよう、こちらで処分しておこう。さ、早く行きたまえ」


 一行は港に向かった。途中で津軽兵に出会ったが、西洋人の集団なので見逃された。

 無事フランス船に収容され、食堂に通されて、くつろぐことが出来た。弥助と正之助は、フランス人から少し離れた所に座っている。そこへ、ひとりの西洋人が入って来た。フランス人達は、その人物の出現にやや戸惑っているようだった。

「あれは誰だ」

「東京のフランス公使館の人らしいですね」

 その人物が話し出すと、ブリュネはますます困惑の表情を浮かべた。

「何を話してる」

「公使館の人が言うには、お役目御苦労でござったと」

「え、脱走して来たんじゃないのか」

「そう、ブリュネ殿も戸惑ってますね。お役目とは何のことかと」

 公使館の人物は、にやにやしながら話を続けている。

「奥羽列藩同盟が優勢になった時に備えて、恩を売っておく必要があったと言っています。だから、脱走を見逃したと」

 ブリュネ達が脱走した頃は、二本松城はすでに陥落していたが、母成峠の戦いの前であり、優勢であったとはいえ新政府軍が何かミスを犯して冬を越す事になれば、戦局はどう転ぶかはまだ判らなかった。

「なんて事でしょう、フランスは二股をかけてたんですよ。ブリュネ殿も今知った様で、信義にもとると怒っています」

 弥助は、共に怒りつつも考えた。

「薩長が勝ちそうだが、いくさは時の運、奥羽にも目が無いわけじゃねえ。そんな時、ブリュネ達が脱走をたくらんでいたので、わざと見逃した。奥羽が負けたら、ブリュネは脱走したお尋ね者で関係ないとしらを切れる。何しろ、本人がそう思ってるんだから。もし奥羽が勝ってこの国が真っ二つに割れても、フランスはブリュネのお陰で奥羽の政府に顔が利く。イギリスと違ってね。

 そういう事か」

「なんて汚い。外交は騙し合いだと聞いてはいましたが、自国の軍人まで騙すとは」

 弥助は腕組みをしていた。

「戦国の世、真田家は徳川家と豊臣家に二股をかけて、今に生き伸びた。どこの国でも同じことだ。我々も開国したからには、覚悟して西洋人と付きあわねばならないのかも知れませんね」

 これからは西洋の動きを頭に入れて動かねば。彼らと取引をする商人だけでなく、百姓だって同じことだ。

 弥助は清八を思い、彼の才覚と成長に、改めて驚いた。



    明治二年六月-東京


 お志乃は繕い物を終え、寝ようとしていた。箱館の戦争は終わったと聞いた。賊軍の大将は降伏して、東京に護送されるらしい。弥助達はどうなったのだろうか。一緒に護送されるのか。そもそも、箱館まで行ったのだろうか。それとも・・・。

 その時、戸口を叩く音がした。

「お志乃ちゃん、俺だ」

 いとしい声。お志乃は戸口に走った。心張棒を外す間ももどかしく、引き戸を開けた。

「あんた」

 そのまま、男の大きな腕の中に身を預けた。暖かな匂い。安らかなぬくもり。

「おらの村へ行こう」

 お志乃は、うんと言ったが、言葉にならなかった。穏やかな幸せが、体中に浸み込んで来るのを感じていた。

「道中、天璋院様にもご挨拶せねば」

「それなら、おめかししなくっちゃ」    (了)



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