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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ペンローズの夢

作者: 三塚未尋

(本作品は2015年の名古屋コミティアにて配布した小説です。)

 雑踏の中で、僕は真莉先輩をコンクリートの地面に組み敷いた。抵抗されることは、やっぱり、ない。彼女は作り物めいた笑顔を浮かべている。馬乗りになっている僕を見上げてくる瞳に、怯えの色は一切ない。

 包丁の存在を確かめるために、僕は右手に力を込めた。

 往来の只中で、刃物を持った男に女性が襲われているというのに、誰も僕らに見向きもしない。数え切れないほどの足が、僕と真莉先輩を避けて、せわしなく行き来している。通行人たちの顔には濃い影が差し込んでいて、その表情を見ることができない。墓石のように無機質なビルのシルエットが、僕を取り囲むように立ち並んでいた。

 もう、これで何回目だろう……?

 ふと思いを巡らせたが、そんなものは最初から考えるだけ無駄だった。僕の思考は、朝もやが立ちこめた街みたいにぼんやりとして、掴み所がない。ひとつのことを集中して考えようとすればするほど、もやは濃密になり、僕は自分の頭の中で迷子になる。あるいは思い出そうとしても、なにも手に入れられない。やっとのことで広大な意識の砂漠から掘り出した、化石のような記憶の断片も、片っ端からボロボロに崩れ、僕の指の隙間からこぼれ落ちていく。そのたび、僕はもどかしさに悶えることになる。

 考えること、思い出すことに、僕の頭は疲れているようだった。何日も眠らずに過ごしたら、きっと、同じ心地がするはずだった。しかし僕という人間の根幹を成す、不可欠な記憶だけは失っていない。それらは、ほとんどが真莉先輩に関するもので占められている。先輩の笑い方、話し方、歩き方、僕を見るときの瞳、一緒に過ごした輝かしい日々の記憶。

 手に持った包丁を逆手に握り、その切っ先を真莉先輩の胸に向ける。数え切れないくらい繰り返してきた行為だった。それでも慣れたとは思えない。大事な彼女の肉体に刃を突き立てる、この蛮行の瞬間は、僕の胸をひどく苦しめずにはいられない。

 真莉先輩は何も言わず、僕をじっと見つめている。泣き叫びもせず、批難もせずに。だから余計に、僕は泣き出したくなる。いつも僕に優しくしてくれていた彼女に、僕の汚い部分を直視されているような気がしてしまう。

「……ごめんなさい、真莉先輩」

 言って、僕は刃を彼女に向けて振り下ろす。

 次の瞬間には、僕は大学の講義室にいた。広い講義室のほとんどの席には、学生が座っている。僕もそのうちの一人だった。黒板前の教壇には、白髪の男性教授が立っていた。僕の隣には、真莉先輩が座っていた。僕の視線に気付くと、先輩はニコッと笑いかけてくる。

 教授は色とりどりのチョークを使って、幾何学模様を一心不乱に黒板に描き殴っている。それを見ながら、学生たちは黙々とノートに板書している。真莉先輩もそうしていた。僕は彼女のノートを覗いてみたが、なにが書いてあるのかを一切読み取れなかった。

 これは夢だ。

 僕と真莉先輩は、大学で知り合ったが、学年が違う。優秀な先輩がこんなふうに、下の学年の僕と同じ講義を受けたことなど、一度も無かったはずだ。現実には起こりえなかったこと。だからこれは、束の間の幻想に決まっていた。

 真莉先輩が僕のそばにいる。そんな夢の世界に、僕はずっと閉じ込められている。今までひとつひとつを覚えていられないほど数多の夢を、絶え間なく見てきた。そのどれにも真莉先輩の姿があった。ひとつの夢が終わっても、すぐにまた別の夢で、僕は彼女と会うことになっていた。終わりのない明晰夢、とでも表現できるだろうか。自分の見ているものが全て夢の景色であり、僕はどう振る舞えばいいのかを、理解していた。

 教壇に立つ教授は、いつしか、アコースティックギターで弾き語りを始めていた。僕が聴いたことのない洋楽を、しゃがれた声を振り絞って、歌っている。学生たちは身じろぎ一つせず、教授の歌声に聴き入っている。

 真莉先輩の顔を、僕は見た。先輩の瞳が、僕へ向けられていた。口許にほんのわずかに笑みを浮かべた、あの優しさに満ちた表情を浮かべている。これは夢の産物にすぎない。そうわかっていながら、僕は恋心に胸を内側から圧迫されてしまう。

 僕は真莉先輩が好きだ。周りの連中が軽々しく口にするような「好き」や「愛している」では、とても表現しきれないほどに。この気持ちを先輩に伝えたいと、僕はずっと思っている。夢に出てくる真莉先輩ではダメだ。現実の彼女にこそ、想いを告げなければいけない。そのためにも、早く、この夢から醒める必要があった。

 学生たちから拍手が巻き起こった。教授の弾き語りは、いつの間にか終わったらしい。学生たちの惜しみない拍手に見送られ、教授はギターを担いで、講義室を出て行く。教授の姿が見えなくなると、席に座っていた学生たちも霧散するように消えていった。がらんとして広い講義室に残されたのは、僕と真莉先輩の二人だけだ。僕は自分の掌に、包丁の重みを感じた。

 この夢から醒める方法を、僕はすでに知っている。真莉先輩を殺めれば良いのだ。誰かに教えてもらったのか、直感で知り得たものなのかは、定かではない。ただ僕が真莉先輩に包丁――なぜか毎回、凶器はなんの変哲もない包丁だった――を突き刺すと、次の夢が始まる。

 もちろんたとえ夢であっても、大好きな人を刺殺するような真似など、したくはない。しかしこの儀式を繰り返すことで、僕は深い夢の底から、一段ずつ階段をのぼるようにして、現実の世界へと戻ることができる。そんな気がしているのだ。

 現実の世界には、本物の真莉先輩がいる。だから、

「真莉先輩……すみません」

 僕は彼女の白い首を、真横から掻き切った。包丁の先端は苦もなく真莉先輩の首筋に沈み込み、パックリと切り口を作ることができた。夢の中で、血は一滴も出ない。傷跡は洞のようにぽっかりと暗い穴が空いただけだった。痛みに喘ぐこともせず、真莉先輩は僕を見つめてくる。彼女の綺麗な双眸に後ろめたさを覚えてしまい、凶器を握る自分の手に視線を逃がす。僕はシャープペンシルを握っていた。

 高校の教室で、僕は窓際の席に座っている。放課後なのだろう。教室に人影はなく、窓からは西日が差し込んでいる。僕の机の上には、学級日誌が広げられている。

 すぐ目の前に、気配を感じた。初めからそこにいたかのように、真莉先輩が開かれた窓の下端にもたれて立っていた。先輩は大学に着てくるような私服ではなく、セーラー服に身を包んでいた。僕の母校の、女子生徒が着ていた制服とは違う、と思った。教室の雰囲気や、窓から見える景色も、僕の記憶にはない。ここはひょっとしたら、真莉先輩が通っていた高校かもしれない。

 僕は何度も考えたことがあった。延々と地続きになっているこの夢物語を見ている張本人が、僕ではなく、真莉先輩だったならば……?

 他人の見ている夢に、ずっと登場し続けなければいけない。そんなことは空恐ろしい想像に違いない。しかし僕は、彼女の夢の登場人物になれるのなら、それはそれで幸せだろうと思っていた。なぜならそれは真莉先輩の心、あるいは頭の中に、僕の存在する余地があるという証拠だからだ。あるいは、それはなによりも幸せなことなのかもしれないとも思う。ずっと先輩と、夢の中で過ごせたら……。

 僕らのいる教室は、校舎の最上階のようだった。先輩は首を回して、窓からの景色を眺めていた。オレンジ色の光に、町が照らされている。眼下の運動場では、黒い影になった学生たちが蠢いている。

 僕は学級日誌を書こうとしていた。一緒に帰る約束をしている真莉先輩は、ここで窓枠にもたれて待っていてくれる。しかし僕には、今日の日付がどうしても思い出せない。黒板を見ても、意味のない記号が、チョークで書き並べられているだけだ。だから僕はいつまで経っても、学級日誌を書き終えることができずにいる。

 先輩と知り合えたのは大学に入ってからのことだ。しかし、もしも真莉先輩ともっと早く……せめて高校時代に出会えていれば、もっと長い時間を一緒に過ごせたのではないか。こんなふうに、夕暮れどきの教室で、幸せなひとときを享受できたのではないか。

 僕は椅子から立ち上がった。有り得なかった過去への憧れに後ろ髪を引かれながら、僕は包丁を握り絞める。窓際の先輩は、目の前に立った僕に小首を傾げる。彼女の唇がざわめき、なにか言葉を発する。

 僕はぶつかるようにして、先輩の胸に刃を突き立てた。そのままの勢いで、僕らは重なり合ったまま、窓の外側へと転落した。視界がひっくり返る。浮遊感に全身が包まれる。直後、地面に心臓を叩きつけられたような衝撃で、僕はハッと気がついた。

 目を開けているはずなのに、なにも見えない。視界が黒に塗りつぶされていた。背中には柔らかさを感じる。僕はベッドのような台に仰向けに寝ているようだった。背筋の凍る恐怖を覚えた。

 真莉先輩の姿が見えない!

 僕は体を起こそうとした。しかし背中をほんのわずかに浮かせるのがやっとだった。強靱なベルトでもって、僕の体はベッドに縛り付けられているようだった。

 こんな夢は見たことがない。見たことがない、はずだ。どんな夢にも、真莉先輩がいてくれた。僕は台の上でのたうち回った。先輩の名前を叫びながら、狂ったようにもがいた。しかし拘束具が皮膚に食い込むばかりで、抜け出せない。

 四肢を圧迫される痛みよりも、彼女がそばにいないことへの不安に、僕は泣いてしまいそうだった。僕の大声が部屋に反響し、それが僕には怪物の咆吼じみて聞こえ、それに掻き消されないように喉が張り裂けんばかりの声量でまた彼女を呼ぶ。その繰り返しの最中で突如、強烈な光が僕の目に照射された。閃光に目が眩み、視界が明滅する。声が、聞こえてくる。

「……彼が……また……興奮して……押さえて…………を……とうよ……………そんなに……どうして、あんな…………どうして…………いや……いや、やめて………和史くん?」

 聞こえてきたのは、真莉先輩の声だった。

 光に、目が慣れていく。小さい虫の死骸が透けて見える蛍光灯のカバーが最初に目に入った。僕は布団に横たわっていた。カーペットの上に敷かれたまま万年床と化している布団。周りを見回すと、埃っぽい、手狭な部屋だった。ここは僕が大学時代に一人暮らしをしていた、安アパートのワンルームに違いなかった。

 キッチンのほうから足音が近づいてくる。視界の端から、真莉先輩が覗き込んできた。彼女は心配そうに、眉を寄せていた。

「大丈夫?」

「先輩……あっ、ああっ、真莉先輩……!?」

「どうしたの、すごくうなされてたけど、恐い夢でも見ちゃった?」

 真莉先輩はカーペットに膝をつき、顔を近づけ、ほほ笑みかけてくれる。ミニスカートから覗いた先輩の膝頭が輝いて見えた。不安に怯えていた僕の心を温かく包み込んでくれる先輩だった。僕は途端に気恥ずかしくなった。

「いえ、なんでも……ありません」

 僕は起き上がろうとした。しかし先輩がすかさず両肩を押さえてきたものだから、再び布団に寝直してしまう。先輩は子供を諭すように、わかりやすく顔をしかめて見せた。

「寝てなくちゃダメだよ。きみは病人なんだから」

 一転して、先輩は笑顔を浮かべる。

「もうちょっとで林檎、剥き終わるから、待っててね」

 僕は気の抜けた返事をした。キッチンに戻っていく先輩の後ろ姿を見つめながら、この夢がまったくのまやかしではないことに、僕はぼんやりと気付いた。

 以前、僕は滅多に引かない風邪を引いてしまい、珍しく大学を休んだことがあった。そのとき、真莉先輩がお見舞いに来てくれた。忘れもしない一日だ。この夢の景色は、あの時と、まったく同じだった。先輩は僕に林檎を食べさせてくれた。それから僕が断るのも半ば無視して、お湯を絞ったタオルで背中を拭いてくれた。

 先輩は午前中で講義が終わっていたそうで、日が暮れてからもしばらく、僕の部屋にいた。

 僕は布団に寝かされたまま。先輩は座卓に筆記用具を並べて、大学図書館から借りてきた小難しい専門書に向き合っていた。僕らの間で交わされる言葉も少なくなった頃だった。先輩はおもむろに本を閉じた。

「ちょっと眠くなってきちゃったな」

 そう言うなり、寝ている僕の隣に、真莉先輩は横たわってきた。敷き布団のふちギリギリに身を寄せた先輩は、いたずらっぽく笑っていた。僕はなんとか平静を保ったが、彼女を見つめ返すのにも全身全霊を総動員させなければならなかった。

「そんなに近づいたら、風邪が、う、うつっちゃいますよ」

 僕の精一杯の強がりも、先輩の前ではハリボテ同然だった。

「風邪って、うつすと治るんだよ?」

 クスクスと笑う真莉先輩は、普段よりも数倍、大人びて見えた。先輩に比べればあらゆる経験が足りていない僕は、あっという間に、我慢の限界を迎えてしまった。僕は勢いよく体を反転させ、先輩に背中を向けた。

「わたし、いま、付き合ってる人いないんだよね」

 僕の背後で、彼女がそう言った。その声が耳元で聞こえた気さえして、僕の体はさらに硬直した。真莉先輩が交際していた同じ大学の男と別れたという話は、すでに噂にも聞いていた。そのことを、なぜ今、このタイミングで僕に知らせたのか。彼女の意図を、推し量れないわけではなかった。だけど僕はなにも言えなかった。彼女に指一本、触れることさえできなかった。

 僕は真莉先輩を心の底から好いていた。だからその時、先輩に告白することができなかった。

 僕が勝手に先輩の気持ちを誤解しているだけで、彼女の気持ちは本当は違うかもしれない。もしそうなら間違いなくフラれてしまう。フラれたら、どれほどの傷を負わねばならぬのだろうか。いや、最悪の場合、先輩との関係が壊れてしまうかもしれない。

 そう恐怖してしまい、一歩、僕は踏み込む勇気を持てなかったのだ。僕は手の施しようのない臆病者だった。

 なにも応えずにいる僕に、やがて真莉先輩は呟いた。心なしか、落ち込んだ調子で。

「意気地なし」

 もしも、あの時、勇気を出せていれば……。

 夢の中で再びその瞬間を体験しながら、僕は激しい後悔の念に襲われる。夢の中にいる今ならば、先輩のほうを振り向き、無謀にも抱き締めることさえできる。だがそれは、なんの慰めにもなりはしない。ここで気持ちを伝えたところで、もはや遅い。僕のいま見ているものは所詮、夢、幻の彼女でしかない。だから今度こそ、この夢から醒めたとき、今度こそ僕は告白するのだ。堂々と、先輩の瞳を見て。

 布団から起き上がる。僕は右手に、やはり包丁を握り締めている。隣に寝転んでいる先輩は、もはや一言も発さない存在となっていた。

「真莉先輩……」

 僕は先輩の喉元に、刃先を押し当てる。

「許してください、先輩」

 先輩に包丁を突き刺す。夢の登場人物などではない、本物の先輩に会うために。何度も、何度も。幻想の真莉先輩を殺める。そのたびに僕は胸を痛め、せめてもの謝罪の言葉を口にする。僕は他にそうするしかなかったのだと思う。

 終わりの見えない繰り返しの中で、夢と現の境界が幾度も揺らぎ、僕は自分の見ているものを何度も信じられなくなる。暗闇の中、階段をたった一人で歩いているような心細さに、足が竦みそうになった。しかしそのたび、真莉先輩への恋心が、僕の足下を照らしてくれた。一段、一段をしっかりと踏みしめながら、僕は確実に、現実へと戻っていく。

 いつしか僕の手にしているものは、包丁ではなくなっていた。真莉先輩の手を、握っていた。僕は彼女と手を繋いで、休日の昼下がりの公園を歩いていた。先輩の左手の薬指には、銀の指輪が輝いていた。大学を卒業して数年後、先輩は結婚したのだ。僕は先輩と同じ会社で働いている、どこにでもいる男の一人だった。

「真莉さん」

 僕がそう呼びかけると、彼女はあの優しい笑みを浮かべて言ったのだ。

「■■■■」

 先輩は、僕ではない誰かの名前を、僕に向かって愛おしげに呼び返した。

 突然、僕は背後から突き飛ばされた。それまで握っていた先輩の手が離れた。地面に倒れ込んだ僕は、先輩の悲鳴を聞いた。

 慌てて顔を上げる。真莉先輩がへそのあたりを、服の上から両手で押さえていた。彼女の白い手に、鮮やかな赤色の血が滲み始める。

 先輩の目の前には、男が立っていた。彼は真莉先輩を地面に押さえつけると、右手に握ったものを頭上にかざした。午後の柔らかな陽光が、包丁の刃で赤く煌めいた。止める暇などなかった。男は刃物を振り下ろしていた。

 真莉先輩の甲高い叫びが、僕の耳をつんざく。それはほとんど、意味をなさい音でできていた。いや、やめて、どうして。そんな言葉が、いくつか聞き取れるだけだった。男を見上げる彼女の瞳は恐怖に見開かれていた。先輩の目に映った男の顔の輪郭が、波打つ。

 男が再び包丁を勢いよく振り上げたとき、その切っ先から飛び散った血の飛沫が、芝生の緑に落ちた。彼女の体に再び凶刃を突き立てようとする男に、僕は弾かれたように掴みかかった。揉み合いになり、男とともに地面の上を激しく転がる。体の上下が入れ替わり、男を下に組み敷いたとき、刃を持つ彼の手首を地面に押さえつけることに成功した。

 僕は男を睨みつけた。男は他でもない、僕自身だった。僕は泣いていた。僕は涙をさめざめと流しながら、ひたすらに謝罪の言葉を繰り返し呟いていた。

 その場に居合わせた男たちが駆けつけ、僕の体を押さえつける手が増えた。僕の腕は左右別々に、捻り上げられる。彼らはみな、真莉先輩の夫と同様、怨嗟の瞳を僕へ向けてきた。

「真莉……!」

 倒れ込んだまま動かない先輩のそばに、彼女の愛する男が跪く。返事は聞こえなかった。再び、彼の声が先輩を呼んだが、悲痛な響きを伴っていた。三度、彼が先輩の名を叫ぶ。泣いているように歪んだ彼の声音が、まるで分厚いガラスを隔てて聞こえているような気がした。地面に押さえつけられている圧迫感も、どこか他人事のように感じられる。

 そうだ、全てが現実感を欠いていたのだ。長い間、ずっと抜け出せずにいる感覚だった。だからだろう。僕は頬を涙で濡らしながらも、同時に、安らいでもいた。これは現実の出来事ではないのだ。そうだろう、と僕は自分に言い聞かせた。全ては本当の彼女に会うまでの、いつ終わるかも知れない、僕の見る夢だ。

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