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なぜ。
なぜ?
その言葉が頭の中を埋め尽くした。
どうしてわたしの縁談の相手に、その人物の名前が上がるのだろう。
ベルガ伯でもなくて、ザーラ伯。おかしいのではないらしか。なぜザーラ伯なの。そんなのおかしい。
ただひたすら疑問がうずまいて、まともな思考ができない。
自分の結婚相手がとても嫌な人かもしれないという予想はしていた。女性をぞんざいに扱うような人だったり、とんでもなく年上の人だったり。
でもこんなのは想像できるはずがない。自分の考え得る限りの最悪の人を凌駕している。
だって変だもの、こんなの。ザーラ伯だなんて。
わたしがショックを受けていることに気づいているはずなのに、お父様は淡々と話す。
「お前は幸い、見目はそう悪くない。ザーラ伯に気に入られるようにしっかり尽くすのだ。決して不興を買うようなことはするな」
口答えなど許されない威圧的な口調。
でも簡単にわかりましたなんて言えない。あの非道な領主に尽くすなんて。そんなのどうすればいいの。
それよりもわたしは本当にあのザーラ伯の妻にならなくてはいけないの。
「領主、一応きちんとご説明したほうがよろしいでしょう」
家宰がお父様に進言する。そう、説明して。なぜこの状況でわたしがザーラ伯に嫁がなくてはいけないのか。
「うむ、まあそうだな」
お父様は疑わしそうな目でわたしを見ながら頷いた。説明したところで理解ができるのかと思っている顔だった。
「ロズリーヌ様、ザーラ領とベルガ領の戦が激化しているのはご存知ですね」
家宰の言葉にわたしは頷く。それくらいは知っている。だからさっきまで食料の心配をしていたのよ。ザーラ兵が襲って来た時のために。
「ここまで大きな戦になっては、我々ヘイスティン領の人間も傍観しているわけにはいきません」
それもわかるわ。だからベルガ伯に協力して、同時にヘイスティン領をザーラ兵から守ってもらうのではないの。
「ですから我々はザーラ伯側に付くことに致しました」
ヒュッと喉が鳴った。どうして、という言葉を辛うじて飲みこんだ。反論や批判など、決して許されない空気がここには漂っている。
「ザーラ伯はとても寛大な条件を出してくださっています。去年の不作の影響で、戦をする余裕がない我々のために、ほとんど味方に付くことを宣言するだけでいいと仰ってくださっています」
何それ。ザーラ伯が寛大だなんて、聞いたことがない。条件がそれだけだなんて信じられないし、もし本当だとしても、それはあちらの都合だわ。
あんな領主のことを持ち上げる家宰に腹が立って、わたしの頭がようやく正常に動きだした。
だってアルノが言っていたもの。今までヘイスティン領が襲われなかったのは、そんなことをしている間に横からベルガ兵に攻められたら困るからだって。そういう場所にヘイスティン領があるからだって。
そもそもヘイスティン領は貧しい部類に入る土地なのよ。少し遠出をして襲撃をした場所で、得られるものがあまりないのなら、ただの労力と時間の無駄になってしまう可能性もある。
それなら敵方に付かないようにだけすればいい。
そこまで考えてわたしははっとした。
ここにいる顔の知らない騎士たち。ようやく彼らが誰なのかわかった。
彼らはザーラ伯の騎士なんだわ。
家宰だってさっきから彼らを気にしながら話をしている。
だったらこれは友好的な協定なんかじゃない。お父様はザーラ伯に脅されているということになる。
いくら何でも、ただ味方に付けと言われただけで、恩義のあるベルガ家を裏切るわけがない。それはないわ。
お父様とザーラ伯の騎士との間でどんな話し合いが行われたのかわからないけど、ベルガ伯に助けを求める猶予もなかったということなの。
わたしはお父様の顔を見た。
家宰よりももっとザーラ伯の騎士を気にしている。そして苛立たしげにわたしを睨んだ。
お父様が何もせず、ただ戦が終わって、問題が過ぎ去ってくれるのを待っていたせいで、こんなことになっている。巻き込まれることは誰だってわかっていたというのに。
「ロズリーヌ様はヘイスティン家がザーラ伯側に付いたことを証明するために嫁いでいただきます。五番目の妻ではありますが、我々に反意がないことをザーラ伯に理解していただくという、重要な役割があることをご理解ください」
家宰は噛み砕くように言った。彼はこれをわたしに言いたかったのだ。
スッと背筋が冷えた。
ザーラ伯はきっと自分よりも立場の弱い者に容赦などしない。わたしは一切逆らわず、そんな人の従順な妻でいなくてはいけなくなるのだ。
お父様はきっと脅されている。拒否すればヘイスティン領がどうなるかわからない。最悪すべての村が見せしめとして蹂躙されるかもしれなかった。
わたしにはほんの僅かな選択肢すらなかった。
大広間にいる全員がわたしに注目していた。眉根を寄せている家宰、険しい目つきをしているお兄様、無表情な騎士、同情的な顔の騎士、そしてわたしが返事をしないことに、今にも怒り出しそうなお父様。
この場でわたしが口にしていい言葉など一つしかなかった。
「わかりました。誠意を持って、役目を果たします」
自分の声がどこか遠くから響いていた。
大広間を出て、ふらふらと廊下を歩いていた。
どこに向かっているでもない。食料保管庫に戻る気にはなれなかったし、自室に戻ってカーラに何の用だったのか聞かれるのも嫌だった。
誰にも会いたくない。
何かを考えるのが億劫だった。
いえ、そうじゃない。わたしは思考することを意識的に止めていた。でないと自分の中からどす黒い感情が溢れ出して来そうだったから。
宛てもなく人気のない場所を選んで、城内の廊下を歩く。そんな意味のない行動を続けていた自分の足が、ふと止まった。
目の前に西日が差し込む窓がある。
覗くと眼下に城門が見えた。この城は小高い丘の上に建っていて、小さな窓からでも遠くを見渡せる。
ヘイスティン領の四つの村の内の一つは城のすぐ近くにあり、民家の屋根や豆粒のような大きさの人の姿が確認できた。更に遠くには、もう一つの村の輪郭が見える。
今は朝日と共に働き始めた人々が、ようやく仕事を終える頃だろうか。
あそこにいる農民たちは生活に苦しみながら、領主に税を納めている。いざという時に守ってもらうために。
領主の娘であるわたしは、彼らの税で、彼らよりもいい暮らしをしてきた。だから守らなくてはいけない。わたしにはその義務がある。
彼らのためにザーラ伯に嫁ぐのだ。そして自領の民にまで恐れられている横暴な領主に逆らわない従順な妻として、これから一生を生きなくてはいけない。
例え暴力を振るわれることがあったとしても、目の前で理不尽な行いがあったとしても、耐えなくてはいけないのだ。ここに住む人たちの命を守るために。
涙が溢れた。
自分でもどんな感情からくる涙なのかはわからなかった。
でも止まらなくなる。悲しいのか、不安なのか、恐ろしいのか、どれも当てはまるようでいて違うようで、正体のわからない自分の気持ちが行き場を無くして、目から零れ落ちているかのようだった。
涙はどんどん流れて嗚咽さえ漏れているのに、自分がなぜ泣いているのかわからない。
わかるのは今日の昼までの、ただの小さな領地の領主の娘であった自分が、とても幸せな人間だったということだった。
ほんの数刻の間にわたしは違う人間になってしまった。もうあの頃には戻れない。
ぼやける視界に村と農民たちの姿を入れた。
しばらく動かず、ただその景色を見ていた。
わたしは酷い人間だ。
窓の下部にかけていた手に、額を乗せてうずくまった。止まりかけていた涙がまた流れる。
そして意識したわけでもないのに、わたしの口が勝手に意味のある言葉を発した。
「アルノ・・・」
助けてほしい。
それだけがわたしの中で唯一、形のある感情だった。