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厳しい冬がようやく過ぎ去り、ケンドリン領に春が訪れた。
雪はほとんどが溶けきって、白と灰色ばかりだった景色の中に、いろいろな色が増える。
家に籠もりきりだった人たちも、段々と外出を始めるようになった。
今年は凍死者の数も少なかったらしい。
この地域の冬は半年近くもあり、気温もかなり低くなる。厚い壁で造築された城の中はまだいいほうで、薄い木造の家に住む領民に、冬の寒さはまさしく殺人的なのだ。
作物もあまりなく、狩りにも行けないから、食料の備蓄が十分でないと、餓死の畏れだってある。
でも今年の冬はまだ暖かいほうだった。体の芯が凍るような寒さの日があまりなかったから。
そして待ちに待った春が来た。
「ようやく外に出れるわね、カーラ」
わたしは窓から身を乗り出して、背後の乳母に声をかけた。
「そうですね、ロズリーヌ様。もう糸紡ぎはこりごりです」
うんざりだと肩を竦める彼女に、思わずふふっと笑ってしまった。カーラは毎年それを言っている。
でも寒すぎて城に篭もっているしかない冬は、糸紡ぎぐらいしかすることがないのだから仕方がない。かく言うわたしも、いい加減に憂鬱になってきていたところだった。薄暗い城の中で、単調な作業ばかりしていると、気分が落ち込んでくる。
「でもまだまだ寒いでしょう。凍死の心配はなくなりましたけどね」
「そうかしら。外に出ても凍えないくらいにはなったわよ。カーラは寒がりだわ」
わたしが言いたいことを察したのか、彼女は眉間に皺を寄せた。
「外出するのですか?」
「カーラはここにいていいわよ。わたしは散歩してくるわ。そろそろ太陽の光を浴びないと頭がおかしくなりそうよ」
カーラはしばし迷った後、結局同行する気にはなれなかったらしい。城の中も嫌だけど、寒い外はもっと嫌なようね。
「ちゃんと騎士を連れて行ってくださいよ」
小言だけはしっかり飛んでくる。
「わかってるわよ」
たとえ城壁から出ることはないのだとしても、城の中にもたくさんの人が生活をしている。わたしはこれでも領主の末娘だから、城内から出るときはたいてい護衛の騎士が側にいた。
たいていということは、いない時もあるということで、お父様に仕える騎士はあまり給料が良くないから、真面目に仕事をしている人のほうが少ないみたい。
でもどこも似たようなものだと人から聞いた。貴族騎士ならともかく、このケンドリン領みたいな小さな領地では、職業騎士しかいない。だからみんな自分の生活で手がいっぱいだし、騎士なんて昔は複数の主に仕えることもあったそうだから、忠誠心なんてあってなきが如し。
一応は給料をくれる領主のことは守っても、領主の娘なんてどうでもいいわよね。
でもさっき信頼できる騎士を窓の外で見かけた。
だから彼と二人で散歩に行けるわ。
わたしは弾んだ心が見透かされないように、必死で顔に力を入れた。
「アルノ、散歩に行くわ。付いて来て」
窓の外にいる騎士に声をかける。
彼はちょっと驚いてから、微かに笑って頷いた。他の騎士なら面倒そうな顔をするのに、彼はいつだってわたしが言ったことに対して、嫌な顔なんてしない。
わたしは思わず顔を綻ばせてしまってから、慌ててなんでもないフリをした。誰かに見られてはいけない。
アルノが部屋の前まで来てくれるのを待って、自室を出る。
廊下を歩きだすと、アルノは黙って後ろに付いて来た。
振り返りたくなるのをぐっと我慢した。
他に行くところもないので中庭に向かう。庭園には今は花なんて咲いていないけれど、薬草や木々ならある。今は外にしかないものと触れ合いたかった。
城から外に出ると、太陽の日差しに目眩がした。半年ぶりの光が容赦なく目を焼く。
「うっ・・・」
視界が白くなってしまったので、立ち止まって慣れるのを待つ。目の上に手のひらで日除けを作った。
背後の人物が微かに笑った気配がした。
きっとアルノはわたしよりもずっと早くから外に出るようになっていたのよね。なんだか恥ずかしい。
ようやく目が慣れてきたので、中庭を一回りすることにする。
やっぱりまだ人の気配は少なくて、洗濯をしている人の他には、ただ通り過ぎて行く人しかいない。
わたしは前を見たまま彼に話しかけた。
「もう、狩りには出かけているの?」
低くてよく通る声が返ってくる。
「二度ほど出かけましたよ。でも冬眠を終えたばかりで気が立っている動物が多いので、結果はあまり芳しくありません」
「そうなの。でももう、保存食も飽きてしまったから、新鮮なお肉や野菜が食べたいわね。あ、無理して狩りに行けって言ってるんじゃないのよ」
「はい」
「村の様子はどうかしら。もうみんな種蒔きの準備を始めているの? それともまだそんな余裕はないかしら」
「始めている人もいますよ。ごく少数ですが」
わたしが質問することに、アルノはていねいに答えてくれる。ちょっと無口な彼は、自分からはあまり話さないけれど、話しかければ必ず相手をしてくれる。
この時間がとても好きだわ。
「訓練はもうやっているの? あっでも鎧なんてまだ着けられないわね」
「いつも鎧を着けてやっているわけではないですよ。そろそろ訓練も開始するでしょうね」
わたしはアルノと会話を続けたくて、どんどん質問をする。いつもこんな調子なせいで、好奇心旺盛な女だと思われてしまっている。
中庭をできるだけゆっくりと歩きながら、わたしはおしゃべりを続けた。
ちょうどいい場所に石のベンチがあったから、わたしはそこに座った。
ぴたりと横に立ったアルノを、ちらりと見上げる。
わたしのものより色素の濃い金髪は短く切られていて、首筋が寒くないのだろうかと思ってしまう。
騎士だというのに厳めしくなくて、荒々しさもない。でも軟弱な印象も与えない彼が、とても強いのだということを知っている。
代々騎士を生業としている家系だからなのか、まだ若いのに大柄なだけの騎士とは違った威圧感があった。
でもわたしと話している時は、その威圧感も和らぐ。優しい空気を纏うようになるのだ。
初めは誰にでも優しいのかと思っていたけれど、そうではないと気づいた。むしろ他の人には無愛想に接しているのを何度か見かけた時の、わたしの期待の膨らみようは、今思い出しても恥ずかしくなるくらいだった。
アルノはわたしがこっそり見つめていることに気づいたらしい。どうしたのかと問いかけるような眼差しを向けてきた。
咄嗟に言葉が出てこなくて、赤くなった顔を背けてしまった。ただ見ていただけなんて、言えるわけがない。
三年前に命を助けてもらった日から、わたしはアルノに恋をしている。
身を挺して守ってもらえれば、そうなってしまうのは当然と言えた。
でもそれだけが原因ではないとも断言できる。
わたしが何を尋ねても、ちゃんと答えてくれる。女には理解できないと、馬鹿にすることがないところ。誰にでも公平なところ。意志の強い目をしているところ。
何よりアルノのことを考えているだけで、厳しく辛い日でも、暖かい気持ちになれる。
そんなところが好きだと思う。
でも彼が実際にわたしのことをどう思っているかはわからない。
ただ主の娘だから丁寧な態度をとっているのかもしれないし、わたしとは比べものにならないくらい、ほんの微かな好意なのかもしれない。
彼はときどきわたしとの間に見えない壁を作る。
でもそれでも少しは特別だと思ってくれていると感じるし、嫌われていないことだけは確かだった。わたし以上に彼に優しくされている人間はいないのではないかと思えるくらいには。
だからわたしはこんな風に二人で穏やかに会話を楽しんでいる時に、ときどき想像してしまう。
いつか彼と結ばれる日が来るのではないかと。
こんなのはただ子供が夢を見ているのと変わらない想像でしょうね。女に結婚の自由なんてなくて、ただ親が決めた相手のもとへ嫁がなくてはいけない。そんなことはわかっている。
でも好きな人が側にいるのに、そういったことを一切考えずにいるなんて、わたしにはできなかった。
小さな領地の領主の末娘なら、貴族ではない騎士と結婚してもおかしくはない。可能性がほんの微々たるものでもあると思えるから、夢想してしまう。
この人と結ばれたら、どんなに幸せだろうかと。
そうなった時のことを思い描いてしまう。止めようとしても無駄で、わたしの頭が勝手に夢を見る。
騎士の妻となって、小さな家でパンを焼いたり、馬の世話を手伝ったりする、そんな日常を。
でもそんな日はきっと来ない。
わたしは父が決めた、よく知りもしない男性のもとへと嫁ぐのだわ。
幸せな未来が来ることはない。
だからわたしはこの時間を、できるだけ長く引き延ばそうとする。
決定的な瞬間が来るまでは、何もわかっていないフリをしたかった。
今はまだこの場所にいさせてほしい。もう少しだけ。
「早くもっと暖かくなるといいわね」
近くに誰もいないことを確認してから、わたしはアルノに笑いかけた。
「そうですね」
彼の目が優しく細められた。