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プロポーズから始めよう。

作者: 瑠璃丸

ライトノベル作法研究所大夏祭り大会に提出させて頂いた作品です。

実験的意味合いの強い、初ライトノベルです。

楽しんで頂ければ、幸いです。

「吾輩は魔王だ。結婚してくれ」


 魔王は呟くようにそう言った。そう言って、少女の眼前に跪き、頭を垂れた。

 古式ゆかしい魔界伝統の求婚方法だった。無論、人間である少女にそれを解する術などないのだが、魔王はそうせずには居られなかった。己の内側に灯る、どんな精霊が生み出すにも勝る熱量が、魔王を突き動かしていた。


 考えるより先に、言葉が漏れた。

 振り返るよりも先に、未来を夢に見た。


 地の底から湧き上がるような緊張に身を包まれながら、魔王は固く目を閉じ、少女の言葉を待った。それが、古来から連綿と続く魔界の求婚のしきたりだったから。


 時は緩慢に、だが確実に過ぎ去っていく――




 これは、魔王と少女の物語。


 公園のベンチに腰掛け黙々と本を読み続ける少女の眼前に、とある暗黒世界の王が積み上げ織り上げ重ね上げ続けた愛の言葉の物語である。




*   *   *


 


 少女の姿を見たのは、一月ほど前のことだった。

 ある春の日、あの小さな公園で、魔王は柔らかな木漏れ日に包まれて本を読む少女に出会った。


 

 何故公園に行こうと思ったか、いくら考えても思い出すことは出来ない。

 人間どもが堕落と惰性と惰眠を貪る"公園"なるものを見てみようと思った事は薄ぼんやりと覚えている。悪戯半分に魔法で吹き飛ばしてやろうと思っていたことは、都合よく忘れている。


 午後の公園は静寂に満ちていた。都会の端っこで、まるで世界から忘れ去られてしまったかのように、公園は平穏に満ち満ちていた。そこには"何もない"があり、何もないがゆえに、魔法で吹き飛ばすものもまた存在しなかった。


 たった一つ。


 公園の真ん中ある大きなメタセコイアの樹が、まるで天使の息吹の様な緩慢で退屈で奥ゆかしい風にその葉を揺らしていた。魔界にはない形の樹木だな、魔王はぼんやりとそんな事を考えた。


 その根本に一脚のベンチがぽつんと据えられていて――


 少女が一人、本を読んでいた。


 


 それだけと言えば、それだけの事だった。

 それだけのことが、やけに魔王の脳裏に焼き付いた。焼き付いて離れず、夢にまで見た。

 血と肉と骨が踊り狂い、怒りと憎しみと苦しみが悲鳴を上げる類の夢しか見たことのなかった魔王にとって、何もない公園にただ少女だけがいるという夢は、文字通り夢の様で現実感が無かった。

 しかしながら、それゆえに、心地よい浮遊感に包まれて、生まれて初めて、良く眠れた気がしたのだった。


 気が付くと、自然と公園に足が向くようになっていた。

 

 少女はいつだってあのベンチに座っていた。

 背筋をしっかりと伸ばしてちょこんとベンチに腰掛け、小さな文庫本を飽きること無く黙々と読み続けていた。時折、悪戯な風が少女の髪をなびかせる。その度に少女は頭上のメタセコイアを見上げ、木漏れ日に目を細めるのだった。


 ジャングルジムの影に隠れて、魔王はその様子をじっと見ていた。ずっと見ていた。公園はいつの間にか夕日に染まっていて、伸び伸びた自分の影が少女に届きそうになっていることに気が付き、魔王は逃げるように公園を去った。自分の顔が赤いのは、夕焼けのせいだったのだと言い訳をしながら。


 何度か、そんなことを繰り返した。


 次第に魔王は少女と話をしたいと思うようになっていた。


 どんな本を読んでいるのか。

 何故いつも同じベンチに座っているのか。

 何という名前なのか。


 自分のことを――どう思うのか。




*   *   *




 執務室の高級な椅子に腰掛け、魔王は卓上に置かれた鏡を見遣る。

 あの少女とは似ても似つかない、獣の顔が映っていた。


 思わず溜息が漏れる。


 人間の常識に照らしあわせて形容するならば、それは"狼"の顔であった。

 人間世界に初めて降り立った時、魔王の異形を認めた人間が漏らした「狼男」という言葉。図鑑を紐解き、それが獣と人間のキメラであることを知ると、魔王は随分と憤慨した。獣風情に例えられることは我慢ならなかった。


 再び溜息が漏れる。


 この顔を見たら、きっと少女は驚くだろう。驚き、恐れ、忌避するだろう。

 逃げ去って、二度と公園に戻らぬだろう。


「どうされました?」


 物憂げな魔王の様子に気付いた下僕が恐る恐る魔王に声を掛ける。


「黙れ。消し炭にされたいか」


「はい。喜んで」


 禿頭の小男はそう言うと、大きく両手を広げた。


 制圧作戦の初手である大規模転移魔法の失敗により、魔王はたった一人で人間世界に堕とされていた。それはそれで悲嘆すべき出来事であるのだが、瞬く間に魔界の七十七の国と地域を併呑した気鋭の魔王は、救援を待つまでの暇つぶしと称して、手近にあった最も偉そうな建物を片手間に手中に収めてた。


 逃げ散る有象無象を千切っては投げ、最後まで残っていた最も薄鈍い男を捕まえて下僕とした。

 人々から"総理大臣"と呼ばれていた男である。

 

「吾輩は今機嫌が悪いぞ」


「それは重畳。さあ、私に八つ当たりをなさいませ」


「言ったな」


 魔王の指先が紅く煌めいたかと思うと、下僕の頭頂部に青い炎が灯った。下僕は「ほああ」と「ふああ」の中間の様な奇声を発し、絨毯の上を転げまわった。転げまわって、嬉しそうにしていた。

 支持率4%という無酸素空間に喘いでいたその男は、魔王に支配されるという究極の非日常に身をおくことで、決して開けてはならない、精神の奥底の扉を開けてしまっていた。


「さて、魔王様」


 頭からもくもくと煙を立ち上らせながら、下僕が尋ねる。


「いったい何があったのです?」


「本来なら貴様の様な下賤のものに聞かせる話ではないのだが……まあ、良かろう」


 魔王は、仔細を語った。

 下僕は真剣な面持ちで魔王の話に耳を傾け、歪曲した感性に基づく下卑た感想を差し挟み、燃やされ凍らされ毒に侵されながら、見事最後まで聞きおおせた。


「気になって仕方がないのだ。あの小さな少女が」


「魔王様――」


 下僕はボロ布の様に成り果てたオーダーメイドのスーツを整えると、総理大臣に相応しい声音を取り戻して、言った。




「恐れながら、それは恋でございます」




*    *    *




 余韻、というには余りにも時が経ちすぎていた。

 魔族は人間には永遠とも思われる寿命を有するがゆえに、時間に対する感覚が緩慢である。何時間でも気になる少女を眺めてしまえるくらいには、緩慢である。


 しかしながら、それでもなお、その沈黙の長さは異常であった。


 心臓が早鐘を打つ。血流が波を打つ。


 内なる炎に頭の中を真っ白に焼かれ、思わずプロポーズが飛び出してしまった。

 それは良い。良くないが、この際良いとしよう。

 魔王は跪き、頭を垂れたまま、ちらりと少女の顔を盗み見た。盗み見ようとした。


 見えたのは、文庫本であった。

 少女の眼前には、その視界を完全に封じる形で文庫本が据えられており、文字通り魔王は少女の視界にすら入っていなかった。


 ぱらり、と。


 少女の白く細い指が、文庫本のページを捲る。

 その仕草が余りにも流麗で、華麗で、そして可憐であったから、魔王を頭を下げることも忘れて、少女を、もとい文庫本を眺めていた。そうして一時間も――となりそうだったので、これはいかんと頭を振る。頭を振って、思い至る。


 ――もしかして、吾輩、無視されている?


 昨晩、人知れず『麗しの少女との想定問答集』を書き上げていた魔王である。それは、怖がられないように、恐れられないように、出来ればちょっとだけ笑顔を見せてくれるように、細心の注意を払って書き上げた渾身のリハーサルであった。


 怖がられるが――結婚する。

 恐れられるが――結婚する。

 拒絶されるが――結婚する。


 想像しうるありとあらゆる展開を網羅し、ネガティヴとポジティヴが魔術的なレベルで渾然一体となった想定問答集は、誇り高き魔王をして完璧と言わしめる出来であった。全ての道は結婚に通ずる。

 何度も読み返し悦に至っていた所、下僕が部屋を覗いているのに気が付いた。

 気が付いたので、折檻した。

 仕方が無いので、魔法使いが用いる古代ルーン文字を用いて書き直し、凡百の者ならば手に触れるだけで灰と化すレベルで呪術的装飾を加えた。何が潜んでいるか分からない。念には念をと、魔王は思った。翌朝、魔王は執務室の扉の外にこんもりと盛られた灰を発見する。下僕の姿が見えないが、どうでも良かった。


 さて。


 求婚を黙殺される、という哀しい状況は『麗しの少女との想定問答集』には記載されていなかった。

 第二百五十ニ項に『黙殺されるが――結婚する』という章を追加しておくべきだったと魔王は後悔した。後悔したが、遅かった。


 汗は滝の様に流れ落ちるし、心なしか足も痺れてきたような気がする。

 心にヒビが入って、ぽっきりと折れてしまいそうだ。


 魔王は魔界の統治者であると同時に、魔界最強の戦士であり、また魔法使いでもあった。

 魔王の体内には魔力が渦をなして循環しており、それは彼の類まれな精神力が加える強大な圧力によって、抑えられ、そして発現する。

 当然に、心が弱れば魔力が漏出する。

 小さな小さな公園に、膨大な魔力の漏出の前兆である微振動が訪れていた。




「あの、そろそろお返事を――」


 根負けした魔王が求婚の儀式を放棄するのと、背後の水飲み場からまるで間欠泉のように大量の水が噴き出すのはほぼ同時であった。


 水は、公園に季節外れの虹を掛けたかと思うと、一気呵成に魔王へと降り注いだ。

 魔王が濡れネズミとなる一方で、少女はといえば、メタセコイアの葉が天然の傘となり、奇跡の様な美しさを保っていた。目の前で繰り広げられる乱痴気騒ぎもなんのその、ページを捲る手は止まらない。時折目を閉じて、空想の世界に浸る余裕である。


「なんだ! 何が起こった!?」


 爆発音に引かれて野次馬が集まってくる、哀れ公園の静寂は完全に破壊しつくされていた。

 人が集まれば姿が知れる。姿が知れれば騒ぎになる。騒ぎになれば――


 少女に嫌われるかもしれない!


 混乱しきっていた魔王の思考は戦場さながらの鋭敏さを取り戻していた。びしょびしょの外套をはためかせ、颯爽と立ち上がる。



 水しぶきが一滴、少女の頬に触れた。



 少女が初めて文庫本を置いた。文庫本を置いて、眼前の濡れネズミもとい狼男もとい魔王を見遣った。


 視線が交錯する。


「また、会いに来る」


 魔王はそう呟くと、風のような速さで、風に等しい早さで少女の眼前から消えた。

 少女は一瞬きょとんとした表情を見せたが、空に掛かる虹を見上げたかと思うと、また本の世界へと没入したのだった。




「今日はこれで良い。これで良いのだ」


 魔王は駆ける。鼓動の高鳴りに併せて、どんどん加速していく。

 少女と目があった。

 今日の所はそれだけで十分だった。




*   *   *




「全く良くありません」


 渋る魔王を宥めすかし褒め殺し、ようやく事情を聞き出した下僕はため息混じりにそう言った。


「全く良くありません」


 二度言った。


 下僕は後ろ手を組み、革靴を打ち鳴らしながら執務室を闊歩する。魔王は苦虫を嚙み潰した様な表情でその様子を横目に見ている。高鳴る心を打ち明ける相手がこの禿頭しかいないことが腹立たしかったし、その禿頭に罵倒されるのはまさに屈辱の極みであった。

 頬杖をつき、指を机にとんとんと打ち付ける魔王の怒りを知ってか知らずか、下僕は演説めいた調子で語り続ける。


「目が合って嬉しかったですなど今日日小学生の作文にも出てきません。全国小学生作文コンクール審査委員長を務めた私が言うのですから間違いはありません。この世の恐怖の象徴、暴虐と絶望の権化たる魔王様におかれましては、そうですね、全裸にひん剥いたその少女を有無を言わさず攫って来ました位の気概を見せて欲しいものです」


「魔王たる我輩にそのような破廉恥な真似が出来るか。それに――」


 嬉しかったのだから仕方が無い、そう言いたかったが、不用意に本音を漏らして、言質を取られた挙句、これ以上下僕風情の言われるがままになるという展開は到底容認出来ない。拳を握りしめ、何とか堪えた。

 長い溜息が出た。何を勘違いしたか、下僕は独演のヴォルテージを高めていく。


「あまつさえ、魔力をお漏らしするなど! あれですか。魔王様は童貞野郎なのですか?」


「やかましい!」


 魔王が握りしめた拳を突き出すよりも速く、人間の限界を凌駕した挙動を以って、下僕は魔王の眼前に一枚の書類を突きつける。そして、お得意の総理大臣ボイスをここぞとばかりに駆使して言った。勝ち誇るように、言った。


「苦情が来ております」


 書面には"某月某日に発生せし爆発事故に関する保証願"と記されていた。


「苦情が来ております」


「何故二度言う」


「魔王様のお漏らしのために、斯様に多くの人間が迷惑を被っております。ご自覚下さいませ。他人に自らのお漏らしの世話をさせるなど愚の骨頂。幼児の所業。穴を締めるのです魔王様。ぎゅっと閉じるのです魔王様」


 下僕はそう言って尻を突き出し、二度三度叩いてみせた。凡そこの世に存在する最高の不愉快である。有無を言わさず、蹴り飛ばした。穴とやらを、正確に蹴り抜いてやった。


「吾輩の魔力が尻から漏れると申すか!」


 パチンコ玉の様に吹き飛んでいく下僕に大声で言い放った。余りに冷静さを欠いているために、自身もまた訳の分からない事を言っているという自覚は、魔王には無かった。




「手紙を書くというのは如何でしょう?」


 原型を留めぬほどに滅茶苦茶に折り曲がった眼鏡を押し上げながら、下僕は言った。


「貴様にもまともな意見を吐く口があったとは驚きだ。しかしながら、それは出来ん」


「何故でございますか」


「恥ずかしい」


 魔王はそう言って、窓の外に浮かぶ月をぷいと見遣った。ぷいと見遣って、顔を逸らした。


「吾輩は魔王だ。そんな乙女の真似事の様な事ができるか」


「童貞野郎なのに乙女の真似事が出来ないとは一体どういう了見で……やめて! 痛い! 気持ちよくなっちゃう!」


 魔王の巨大な手が、ぎりぎりと下僕の禿頭を締め付ける。強制的に流し込んだ魔力は電撃にも似た衝撃を与え続け、下僕はまな板の上の鯉の様にびちびちと跳ねる。下僕の歪んだ回路の奥で、電撃が電流に、電流が快感に変換されていることを魔王は知らない。多分、知らないほうが良い。


「とにかく、書けぬものは書けぬ。どうしてもと言うのならば、貴様が書け」


 魔王はそう言って、革張りのソファにどかりと腰を降ろした。


「魔王様」


「何だ」


「出来ませぬ」


 いつの間にか魔王の眼前に背筋を伸ばして立っていた下僕が、宣誓するように言った。

 魔王は目を閉じ、暫くの間沈黙していたが、やがて目を開くと徐ろに指を一本立てた。


「良い度胸だ」


 怪しく煌めく青い光子が指先に集中する。本棚が、椅子が、机がガタガタと音を立てて激しく振動した。窓ガラスにヒビが入ったかと思うと、次の瞬間には粉々に砕け散った。


「何か言い残すことはあるか?」


 ゆっくりと、魔王が指を下僕に向ける。集中した光子が渦を巻き、やがて翠の炎が灯った。下僕は直立不動の姿勢のまま、魔王の金色に輝く瞳を真っ直ぐに見つめていた。


「恐れながら」


「申してみよ」


 獣面の魔王が嗜虐的な笑みを浮かべる。それは魔界の王に相応しい、気高く誇り高くそして邪悪な笑みであった。


「魔王様が、魔王様自身の心と言葉をもって書かれなければ、手紙に意味などありません。魔王様は少女に嘘をお届けになると言うのですか?」


「嘘……」


「嘘でございます。稚拙でも幼稚でも不格好でも構いません。魔王様の思いを筆に込めるのです。それが唯一にして最高の手段であると私は確信しております」


 重苦しい沈黙が執務室を包み込んでいた。魔王と下僕は微動だにせず、視線を交わらせる。

 暫くそうした後、魔王は不意にふっと笑うと、指先に灯る翠炎に息を吹きかけた。炎は光子に分解され、拡散し、まるで星空が降りてきたかの様な幻想的な輝きで執務室を満たした。


「出て行け」


 口を大きく開けたままくるくると周囲を見渡す下僕に魔王は言った。


「貴様の口車に乗ってやる」


「御意」


 下僕は恭しく最敬礼を行うと、音もなく執務室から消えた。





 翌朝の事である。


 結局魔王は一晩執務室に閉じこもったままだった。

 下僕はドア越しに二度三度「全国小学生作文コンクール審査委員長の助言は要りませんか」などと要らぬ茶々を入れ、その度に電撃や炎撃や氷撃と言ったお仕置きを味わっていた。味わい尽くしていた。


「魔王様、一服いれては如何でしょうか」


 コーヒー片手にドアをノックし、恐る恐る室内に顔を覗かせる。


 下僕の目に飛び込んできたのは一面に広がる紙の山だった。特注した最高級の羊皮紙を惜しげも無く使う辺りが魔王らしいのだが、何か間違っている気がしないでもない。

 既に、魔王の姿はなかった。開け放たれた窓の外でカーテンが風にそよいでいた。


「ご出陣、なされましたか」


 一日の始まりを告げる朝日に目を細め、爽やかな覚醒の日差しを頭頂部に反射させながら、下僕は一人呟いた。呟き、足下の羊皮紙を一枚、つまみ上げた。



 見る間に、血の気が引いた。涙が溢れ、頬を伝った。


「0点でございます。魔王様」


 天井を見上げ、下僕は目頭を押さえるのであった。




*    *    *




 本というものに興味を持ったことはない。

 魔導書や戦術書の類ならば少なからず読んできた魔王であるが、それらは必要であるから摂取したに過ぎず、所詮は圧縮された情報の羅列に他ならなかった。内容を理解し行使することこそが読書の目的である。読むという行為そのものに意味を見出したりなどしない。


 何が面白いのだろう?


 魔王は考える。いつも考えている。




 いつもと同じ場所で、いつもと同じ様に、少女はやはり本を読んでいた。


 きちんと整えられた制服に身を包み、ベンチに腰掛け背筋を伸ばし、本で顔を隠すようにしてちょこんと佇んでいる。本を取り上げて顔を覗きこんでやりたい衝動に駆られる魔王であるが、そんな事をして嫌われてしまったらきっと立ち直れないし、触れれば壊れてしまいそうな少女の清廉さが少しだけ恐ろしかった。


 伸びかけた右手を左手で押さえつけ、息を整える。そのままゆっくりと三つ数えて、魔王は再び少女の眼前に立った。


「この前は、その、済まなかった」


 返事は無く、代わりに、ページを捲る音がした。

 無防備に投げ出された白い足が目に留まり、思わず目を逸らした。悪鬼羅刹が襲いかかってきた時もまずは目で射殺す事を信条とする狼面の王様も、こうなると門前の犬に等しい。弱気が次から次に降って湧いて迫り上がり、思わず「ぐるる」と唸りが漏れた。


「今日は、お前に手紙を書いてきたのだ」


 意識して大きな声を出した。

 それは少女に気が付いて欲しいという切ない思いと、少女に気圧されまいとするか弱い思いが同居し、同棲し、一体化した結果であり、それはもう健全に魔王らしく激烈に恐ろしい声色であった。「今日はお前に手紙を書いてきたから、お前の魂を寄越せ」そういった印象を与える類のおぞましい音色であった。


 呼応して、大気が鳴動した。


 鳥が一斉に飛び立ち、野良猫が逃げ惑う。突如噴出した強烈なプレッシャーに小さな公園に密集するありとあらゆる生物が数瞬の内に姿を消していた。

 微動だにせず本を読み進めるたった一人の少女を除いて。


 その静謐と静寂と沈黙に、先日の大失敗が思い出され、たちまち魔王は狼狽した。先ほどの「ぐるる」はいつの間にか「ぐるるるるるる」にまで発展し、小さな公園に緊張を響かせていた。


 その時、一筋の風が吹いた。


 大声が影響したか、魔力が漏出したか、単にちょっとした奇跡が起こっただけなのかは分からない。


 風が、メタセコイアの葉を微かに揺らし、葉が数枚、たった数枚ではあったが、二人の頭上に舞い落ちた。そして、その中でも特段に奇跡的な一枚が、ひらひらと、ふわふわと、少女が持つ本の上に落ちた。



 少女がまるで春の日差しの様に暖かな笑顔を浮かべて、その一葉を摘み上げた。

 本を閉じ、大きく伸びをして――


 眼前の魔王と目を合わせた。


 二人の間に、また一つ、メタセコイアの葉が音もなく揺れ落ちていた。




「はじめまして、だな」


 永遠とも思われる一瞬に再び鼓動が高鳴るのを感じながら、魔王が笑みを浮かべる。

 少女はきょとんとした表情で、瞬きも、身動ぎもせず魔王をじっと見つめていた。


「手紙を、書いてきたのだ」


 魔王は懐に忍ばせた羊皮紙を取り出し、くるくると紐解いた。


「特別だ。吾輩が手ずから読んで聞かせてくれよう」


 地獄の底から這い上がるような低音。原始的な恐怖に直接的に響く魔王の声。

 公園には誰もいない。何もいない。

 ただ一人の少女だけが逃げもせず、恐れもせず、怖がりもせず、魔王の金色の瞳を見つめ続けていた。


「手紙を書くというのは生まれて初めてで、一晩悩んでみたものの、結局どうしたものか分からずじまいだった。だから、吾輩は好き勝手書こう。好き勝手に語ろう。吾輩は万物を統べる魔王である。万物は吾輩の所有物である。言葉の上でもそれは変わりない」


 羊皮紙を持つ手が震え、声が掠れた。だが決して悪い気分ではなかった。


「お前の瞳の輝きは――デル=ダルド=デムデムの発芽を思わせ実に可憐だ」


「お前の髪のうねりは――神話に伝わるコーネルル・ディルレドッドが地の底から這い出し、村々を焼きつくした神代の叙情を我輩にありありと想起させる」


「お前の白い肌は――ガ・ガ・レームの幼虫がその粘性の消化液でモノクレルの花を溶かして作り上げる繭の色によく似ている」


「嗚呼、少女よ。物言わぬ少女よ」


「お前の声を聞かせて欲しい。きっとマジュマルメルモルが破裂し、ボイゼ川に種子を飛び散らせるその様にもにて美しいことだろう」


「お前の事を聞かせて欲しい。ドールドール=ドールレロが著した魔導書でさえも、お前の歴史に比べたら比べるべくもなく無価値だ」


「嗚呼、嗚呼」


「吾輩はこの思いをどう伝えれば良いのだ」


「ただ、吾輩はこの思いを空に浮かぶ、魔界と変わらぬあの月に伝えるばかりである」


「ポポゼ、ポポゼと」



 ――嗚呼、ポポゼリーヤ。




 さて。


 聞いている方が逃げ出したくなるような、この絶望的な悲劇が展開されたのにも、無論哀しい事情が存在する。

 膂力のみならず知力においても魔界に並び立つものは無い魔王と言えど、"経験"というものは一足飛びに獲得できるものではない。魔界に当たり前に存在することが人間世界においては当たり前で無いことを魔王は未だ経験していなかった。

 そのための時間が無かったわけではない。しかしながら、魔王はその時間の大方を少女を眺めることに費やしていた。費やしていたために、必要な知識のインプットが後回しになっていた。

 魔界で最もポピュラーな花である所の『デル=ダルド=デムデム』も、魔界の創世神話に登場する大蛇『コーネルル・ディルレドッド』も、人間は誰も知らないのである。



 その結果が、この茶番だ。


 全くもって、ポポゼリーヤである。




 魔王は目を固く閉じ、ありもせぬ万雷の拍手を妄想し想像し、その虚像に浸っていた。劇場と化した小さな公園で、千万の観客のスタンディングオベーションにその身を晒している。


 困ったような、それでいて少しだけ悲しそうな曖昧な笑みを浮かべていた少女は、天を見上げ目を閉じたまま微動だにしない魔王を暫く眺めていたが、五分たっても十分たっても動き出す気配が無いので、静かに立ち上がり一礼すると振り返ることもなく小走りに走り去っていた。


 後にはベンチだけが残された。


 繰り返して言うが、魔族の時間の感覚は緩慢である。

 感動に身を浸らせたならば数時間は浸り作ることの出来る程に、緩慢である。


 再び目を開けた時には、日はすっかり暮れていた。


 一人取り残された哀れな狼は、またぞろ自分が無視されたことに気が付いて、涙混じりの遠吠えを上げるのであった。




*    *    *




 魔王に呼び出された下僕は死を覚悟していた。

 出入り業者が「88ミリ砲でも破れません」と豪語していた特注の門扉が、まるで紙切れの様に引き裂かれたかと思うと、「げぇぇぇぇぇぼぉぉぉぉぉくぅぅぅぅぅ」という地獄そのものの様な怒声が首相官邸に響き渡った。下僕は自らの死が絶対であることを察し、そこに付随するであろう死ぬほどの快感を思った。

 恐怖と期待がどろどろに溶け合った純粋に不純な心持ちで、下僕は魔王の前にひれ伏した。ひれ伏すと同時に頭を踏みつけられた。


「失敗したぞ、この役立たずめ」


「はい。私は役立たずの去勢豚です」


 そう言えば、きっと頭を踏み抜いてくれるかと思ったのが、そうはならなかった。意外にも魔王は下僕を解放した。解放して、大きな溜息を尽き、革張りの椅子に深く腰掛けた。


「何故だ。何故だったのだ」


 額に手を当て、消沈する魔王。ここで「あのクソみたいな恋文では無理でしょう」などとという勇気はさしもの下僕も持ち合わせていなかった。魔王に虐められるのは良いが、本気で嫌われるのは御免であった。


「時の運。地の利。天の配剤というものもございますゆえ、気を落とされませぬよう」


 コーヒーを差し出しながら、下僕は言う。


「人間に恋をするなど、初めから夢物語だったのだろうか」


 巨大な手でカップを摘み持ち、魔王はコーヒーを啜り「あちち」と呟いた。まさかの猫舌に下僕が思わず噴き出すと、間髪入れずに、頭にコーヒーを注がれた。


「ありがとうございます」


「愚か者め」


「私としては魔法をぶち込んで頂いても結構だったのですが――いや、待てよ」


「どうした?」


 下僕は魔王の問いには答えず、考えこむような仕草をした。そうして「魔法魔法」と呟きながら、執務室をぐるぐると歩きまわった。


「どうしたというのだ」


「魔王様」


「何だ」


「私に考えがございます」



――実に魔王様らしい悪の考えでございます。



 下僕はそう言って、にやりと笑った。




*     *     *




 いくら手を伸ばしても、空を掴むことは出来なかった。


 砂場に大の字に寝転んだまま、魔王は思わず苦笑する。勝利し、征服し、支配してなお、手中に出来ない美しいものたちで世界は溢れている。満ち溢れている。暖かで麗らかで柔らかな午後の空気に包まれて、流れる雲を見ているとそれが世界の真実のように思えてくる。


「それでも吾輩は魔王なのだ」


 敢えて口に出した。口に出すことで否定した。

 届かぬ程に遠くても、掴めぬ程に空虚でも諦めることができないものがあった。諦めてはいけないものがあった。


「お前を愛でるのはもう少し後にしよう」


 空に向かって呟いた。呟いて、かかと笑った。


 全身に鋭い痛みが走り、魔王は顔を顰める。全身は擦り傷と打撲だらけだし、ボロ雑巾の様に成り果てた外套からはぷすぷすと音を立てながら煙が立ち上っていた。なかなかの大ダメージである。立ち上がろうと腕に力を込めるが、身体が思うように反応してくれない。「ぼす」という間の抜けた音と共に、魔王は再び砂場に背中を付けた。


「格好いい事を言ってみたが、これは動けん」


 再び遥かな空に目を向ける。大気を満たす魔力の作用で七色に輝く魔界の空とは異なる、一面の青。

 その青の端っこに小さな影が一つ。少女の影が一つ。


 相変わらず大事にそうに文庫本を抱え持ってはいたが、本の世界に没頭する時の凛とした姿は影を潜め、あわあわという声が聞こえてきそうな愛らしい顔で魔王の顔を覗きこんでいる。


 ――心配、してくれているのか?


 平素の凛々しい顔も捨てがたいが、この顔も実に良い。可愛らしいではないか。

 痛みがみるみる和らぎ、幸福感が身体を満たしていくのを感じる。この溢れる力の正体は一体何なのだろう。天にも昇る気持ちで、地に伏したまま魔王はそんなことを思った。


「もう大丈夫だ」


 本当に大事なのだろう、本を胸に抱えてまま心配そうな目つきで傍らに立つ少女を手で制し、魔王は半身を起こした。不安のそうな様子で目に涙をいっぱいに浮かべている少女に「笑顔」というものを向けようとしてみたが、顔の筋肉が硬直するばかりで果たして上手くいったかどうか分からなかった。


「大丈夫だ」


 今度は少女の目を真っ直ぐに見ていった。思いが伝わったか、はたまたその恐ろしげな顔にたじろいたか、少女は黙って首を縦に振った。


「そもそも自業自得だしな。だが下僕はあとで殺す。まぁそれは良い。しかし――」


 そう言って魔王はいつものあのベンチを見遣る。

 ベンチそのものは奇跡的に無事だったが、周囲の地面は無慈悲に陥没し崩落し崩壊しており、爆心地さながらの様相を示していた。バチバチという雷にも似た音は、そこで強烈な魔力の炸裂があったことを意味している。不思議そうな顔で魔王とベンチを交互に見遣る少女に向かって、魔王は言った。




「あの時、お前は一体何をしたのだ?」


 


*    *    *




「魅了の魔法を用いるのです」


 あの時、下僕は魔王の耳元でそう囁いた。そう囁いて、魔王のピンとたった耳に息を吹きかけ、綺麗な背負投げをお見舞いされていた。


「我輩に嘘を付くなと言った口で良くそんなことが言えるものだ、清々しいまでの屑だな貴様は」


「お褒めに預かり恐悦至極」


 尻を天に向けて不自然に折れ曲がった格好の下僕が満面の笑みを浮かべる。最大出力の火炎魔法を叩き込みたい衝動に駆られたが、すんでの所で思い止まる。

 人間世界の事情に疎い魔王である、頼れる存在は案外少ない。全くもって認めたくないことであるが、この禿頭に頼る他は無い程に魔王は追い詰められていた。


「まぁ、正直ズルい手段ではあります」


 動画の逆再生の様な気味の悪い動きで下僕は立ち上がり、大きく伸びをした。ベキベキと骨の鳴る嫌な音がした。明らかに折れている。前々から兆候はあったものの、魔王の側に居すぎたためであろうか、下僕は徐々にしかしながら確実に人間離れしていた。


「が、手紙という正攻法が失敗した今、邪法に打って出るほかはありませぬ」


「随分と気の短い話だ」


「童貞野郎の緩慢な時間感覚に付き合っていられません。奥ゆかしい恋愛などくそ喰らえ。結果のみを美味しく喰らうとしましょう、魔王様」


 "魔王様"を強調する辺りが実に小憎らしかった。お前には出来ないと言外に匂わせている。この下僕に良いように踊らされているのではないかとさえ思えてくる。


「分かった。吾輩は敢えて餓狼の汚名を受けよう」


「餓狼! 餓狼! が! ろ! う! う、う、うほぉぉぉぉぉ」


 やかましい下僕の口の中に火球を放り込んで、魔王は外套を身にまとう。そうしてドアノブに手を掛けると、一瞬動きを止めて、誰に言う訳でもなく、呟いた。


「少女と仲良くなれるなら」


 ――餓狼で良い。


 魔王は執務室を出た。




 魔王がいつもの公園に赴くと、やはりというべきか、少女は本を読んでいた。

 肩まで伸びた黒い髪をかき上げる仕草が堪らなく愛おしかった。くるくると変わる表情が得も言われず美しかった。鳶色に煌めく二つの瞳がこの上なく可愛らしかった。

 眼前一メートルの至近距離で顔を赤らめた魔王に凝視されているのに、少女は全く意に介する様子は無い。その集中力の全てを、小さな文庫本に注ぎ込んでいた。


「また会ったな」


 返事は無かった。無かったが、最早魔王もそんな事は先刻承知である。『麗しの少女との想定問答集』の最新版は『無視されて――』の章が大部分を占めている。学習し、復習し、想定済みなのである。


「今日は少しだけズルをすることを許して欲しい。吾輩は――」


 ――お前と話がしたい。


 少女の目が一瞬魔王を捉える。だが、魔王は目線を合わせない。合わせることが出来ない。

 悪事を働くのに後ろめたさを感じる矛盾に魔王は戸惑っていた。数えきれない程の他者の意識を操作し歪曲し陵辱し尽くしてきた。かつては何も思わず何も感じず何も考えず出来たことが、今、何故こんなに胸を締め付けるられるのだろう。その気持ちに名前を付けることが堪らなく恐ろしいことに思われて、魔王は魔法の発動に意識を集中させた。


「揺蕩う風よ。心を揺らす風よ。世界の静と動を司る風の精霊よ。魔王の御名において、魔王が命に従え。古の理に従い、宣誓する。その手に我が目を握らせ、その口に我が耳を喰ませ、その魂に我が心臓を捧げよう。約定を遂げる意志あらば、一陣の風となりて我が下に参ぜよ」


 それは"詠唱"と呼ばれる魔法の行使における工程の一つであった。

 呪文を用いた精霊との契約、それが"詠唱"である。精霊とは世界に遍く満ちるエネルギーの集合体の様な存在であり、魔法使いは精霊との契約に基づき魔力を支払い、精霊はその対価として奇跡を実現させる。


 つまるところ魔法とは、契約を媒介とした魔法使いと精霊による魔力と奇跡の等価交換である。


 この"契約"というのが魔法の基礎にして根幹にして奥義である。

 魔王が下僕にお仕置きをする場合など、実際的な使用の場においては"詠唱"は省略される場合も多い。対価、ここでいう魔力を先払いするような変則契約に基づく場合もあるし、精霊が好みとする性質の魔力を対価として差し出すことで魔法使い側に有利な契約を結ぶということもある。


 魔王の場合は後者である。

 魔力の性質というものは、各人によって千差万別である。魔王の魔力は「破壊」に特化した性質を有しており、目的が「破壊」に関係する場合に限り、精霊とかなり有利な条件で契約を結ぶことができる。美味しい餌を差し出しているので、精霊がサービスをしてくれるという訳だ。


 さて。


 人の心を操る「魅了」の呪文は、当然ながら破壊とは異なるカテゴリーに属する魔法であるので、精霊との契約行為を魔王は簡略化することが出来ない。ゆえに魔王は正当な手段に則り、"詠唱"という仰々しい過程を踏んでいる。



 風が渦を巻く。

 魔王の外套がはためき、少女の黒髪がさざなみ、二人の頭上のメタセコイアがざわめいた。


 ――約定を遂げる意志あらば、一陣の風となりて我が下に参ぜよ。


 契約が成った合図だ。魔王の周囲を淡い紫色の光が包み込んだ。風は奔流をなし、空へと駆け上る。


「聞け」


 目を丸くして魔王をじっと眺めている少女に言葉を向ける。"対象の選択"これも魔法の重要な過程の一つである。


「お前は心の帳を開け放ち、我輩を受け入れるのだ。我輩と楽しくお喋りをするのだ」


 ――あと出来れば結婚して下さい。魔王は早口でそう付け加えた。初々しく奥ゆかしく微笑ましい懊悩は忘却の彼方へと追いやられ、土壇場で己の願望に呑み込まれる哀れな男である。悲しいほどの、男である。


 瞬間、風がぴたりと止んだ。

 ゆるゆると流れていた紫色の魔力が、途端に荒々しく飛び回り跳ね回り乱れに乱れ――



 爆発した。



 その衝撃は凄まじく、二メートルはあろうかという魔王の巨躯が宙を舞い、きりもみを打って公園の端っこにある砂場に墜落した。


「跳ね返された?」


 受身を取ることを忘れるほどに、魔王の思考を満たしつくしていたのは、困惑だった。

 術式に間違いはなかったはずだ。失敗の余地は無いほど単純な魔法だったはずだ。


 それなのに――何故。


 続いて遅い来る鋭い痛みに耐えながら、魔王は空を見上げる。

 鳶が一匹、ぴいひょろと間の抜けた声で鳴いた。




*   *   *




「教えてくれ。お前はいったい何をしたのだ」


 勢い込んで少女に尋ねる。ふさぎかけた傷口が開き、思わず「ぐる」と唸りが漏れる。

 目線が交差する。沈黙が訪れる。

 少女は困った様な顔に明らかな作り笑いを浮かべ、そうしてゆっくりと首を横に振った。


「そうか」


 少女の意図は分からなかったが、魔王はそれ以上追及しなかった。

 何かを言いたげな少女を再び手で制して、魔王はゆっくりと立ち上がる。外套の砂を払い、乱れた衣服を整える。


「すまなかった」


 失敗して良かった。そんな風に思えていた。

 下僕に笑われるかもしれないが、それでも良かった。

 俯いて、目に涙をいっぱいに浮かべるこの心優しい少女の心を穢れた指で汚さずに済んだ。


 ――我輩は、我輩の心ままに。


「いつかお前を手に入れて見せるさ」


 独り言のように、そう呟いた。


 呟き、翻り、立ち去ろうとする魔王の外套の裾を、少女がちょこんと摘んだ。


 怪訝な顔で振り返る魔王に向けて、少女は先ほどから胸に抱き続けた一冊の本を差し出した。

 差し出して、そのまま逃げるように小走りに去っていった。

 魔王はまた一人、公園に取り残されるのだった。


 掌中の本を見遣る。


 大事に読まれてきたことが一目で分かる。時の堆積を感じさせつつも、美しさは全く損なわれていない。

 大きな大きな魔王の手に余る小さな小さな文庫本。


 はらりと。


 一枚の便箋がページの間から零れ落ちた。




「いつもお会いする貴方に」




 真っ白な便箋の面には、確かにそう書かれていた。





*     *     *




 高速で回転する魔力が魔王の手の平の上で球を成す。

 摩擦し摩滅し炸裂する魔力がパチパチと小気味良い音を響かせた。額に汗した魔王が拳に力を込めるのに比例してに回転は加速度を増す。球体は凝縮し、次第に小さくなっていった。


「魔王様は一体何をなさっているのですか?」


 傍らに控える下僕が魔性の掌中に回る魔力球に目を向ける。深く青みがかった光が回転により拡散され、執務室はまるで万華鏡の様に巡り乱れる輝きで溢れかえっていた。


「少し黙っていろ」


 魔法はそう言うと手の平を強く握り締める。青く瞬く煌めきは掌に閉ざされ、静寂と暗闇が訪れた。


「千年ぶりだが、意外と上手くいくものだな」


 魔王が手の平を開くと、卓上にころりと何かが零れ落ちた。ビー玉程度の大きさのその球体が発する青は、まるで空をそのまま閉じ込めたかのような、大らかで清々しい吸い込まれるような煌めきに満ちていた。下僕の口から「美しい」と声が漏れる。


「魔石というものだ」


 魔王は魔石を拾い上げ、執務室の窓から覗く月にそれを翳してみせた。


「集約し、凝縮し、凝固した魔力の塊だ。童どもが魔力のコントロールの練習で作る類の、まぁ、遊びのようなものだ。遊びと言っても、吾輩は魔王であるから、山一つ消し飛ばすくらいの魔力は込めたつもりだぞ」


 遊びでこれ程の逸品が作り出せものかと下僕が不思議に思っていると、魔王は耳をピコピコと動かしながらニヤリと笑い「回転を加えたのは吾輩のオリジナルだがな」と言った。


「どうしてそのような"遊び"を? まあ、聞かずとも分かる気もしますが」


 そうして二人で笑い合った。

 魔王は下僕の用意したコーヒーを啜り「丁度良い温度だ」と言った。そう言って卓上に置かれた一冊の文庫本に目を向ける。


『狼王ロボ』


 それが少女が手紙とともに魔王に手渡した本のタイトルだ。あれから何回読んだか分からない。多分暗誦だって出来るはずだ。話の内容もさることながら、この本を貸してくれることそのものが持つ意味に魔王は感激していた。


 ――怖くないよ。


 少女の声が聞こえた気がする。目を閉じれば、いつだって聞こえる気がする。


「吾輩は少女に謝らねばならん。全てはそこからで良い。緩慢だって良い。それが吾輩だ。それが、魔王たる吾輩の遥かな恋路だ」


「私の責任です。どうぞ何なりと罰をお与え下さい」


 下僕は身体を直角に折り曲げる。その顔には些かの緩みもない――見事な礼であった。この男にもこんな姿が出来るものなのだな、込み上げる感慨は何故が不思議と暖かかった。


「魔王で無ければ、出来ぬ間違いがある。間違わなければ、気付かぬ真理もある。人の、そして自らの心の有り様について、吾輩は此度の事から実に多くの事を学んだ。その痛みと苦さの上に、今日の我輩はある。吾輩は、今の我輩が、嫌いではない」


 だから――


「罰を与える」


「はい?」


「罰を与える」


「二度言った!」


「良い話であるから逃げ果せると思ったか愚か者が。貴様のせいで危うく破談になるところだったのだ。罰は罰で、きっちりしっかりみっちり果たすべきであろう?」


 笑顔と呼ぶべくもない引き攣った表情を浮かべる下僕に、心からの笑顔を返した魔王が指を鳴らすと、下僕の頭に白い炎が灯った。魔王の高笑いが首相官邸を満たすのと、月夜に哀れな下僕の嬌声が恥ずかしげも開く響き渡るのは、ほぼ同時であった。




*    *    *




 いつもお会いする貴方へ――


 人間以外の方にお手紙を差し上げるのは初めての経験で、とても緊張しています。どんな風に挨拶をしたら良いか分からなくて、何度も何度も手紙を書き直している私です。


 あの日あの公園で狼の顔をした貴方を初めてみた時、私は自分がお伽噺の主人公になったようなふわふわとした不思議な気持ちになりました。これはきっと夢に違いないと思って、家に帰った後に何度も頬を抓ってみたけれど、痛いばかりで覚めるということがありません。

 そう、あれは現実の出来事だったのです!


 それからの私のうきうきとした気持ちをどう説明したら良いでしょう。


 今日は来てくれるかな。明日は来てくれるかな。

 平坦で、平凡で、ちょっとだけ辛かった毎日に暖かな光が差したようでした。

 本は大好きだったけど、一人ぼっちはやっぱり寂しかったから。


 何か言わなきゃ、何か伝えなきゃ。

 一生懸命話しかけてくれる貴方に何か応えなきゃ。


 いつも私は焦っていました。焦るばかりで何も出来なかったけれど。どうしたら良いか分からなくて、私はずっと本に隠れていました。嫌われるのが嫌で、一歩を踏み出す勇気が持てなくて、手紙でしか自分の言葉を伝えることの出来ない弱くてズルい私を許してください。


 そして出来ることならば、私と友達になって下さい。


 

 お返事楽しみに待っています。

 そしてその時、お伝えしたいことがあります。

 いつもの公園で、貴方を待っています。


 PS この手紙を挟んだ本ですが、面白いので読んでみてください。世界で一番格好いい狼の物語です。いつか、感想が聞けたら嬉しいなぁ。




*    *    *





 手紙の内容を反芻しながら、ニヤニヤと笑みを浮かべ意気揚々と魔王は公園へと向かっていた。

 少女の言葉が、少女の心が全身に魔力の様に巡り巡って、未だかつて感じたことの無い活力を魔王にもたらしていた。

 魔法でひとっ飛びの道のりを、魔王は歩く。黙々と歩き続ける。

 何人かの人間とすれ違った。彼らは一様に驚きの表情を浮かべて振り返るが、いずれも何やら勝手に納得して歩み去っていく。好きに想像するが良い人間共。道を遮るならば、焼き尽くすまでだ。

 大胆に、上機嫌に、そして魔王らしく自分勝手に、魔王は少女の下へ歩き続ける。


 


「だからさぁ! ちょっとお茶しようって言ってるだけだろうが!」


 辿り着いた公園に響いたのは、その静寂に凡そ似つかわしくない醜い声音であった。

 メタセコイアの樹の下、魔王が立つべきその場所に、男が立っていた。髪を金色に染め上げ、ぶかぶかとしただらしのない服を着た男が、聞くに堪えない金切り声をまき散らす。

 少女は怯え、竦み、恐れていた。

 目に涙を浮かべながら、それでも決して逃げ出そうとはしなかった。守りの護符の様に本を抱え持ち、ベンチを離れようとしなかった。


「無視すんなよ」


 男が少女の肩を掴み、乱暴に突き飛ばした。

 少女はベンチから投げ出され、地面に叩きつけられる。鈍い音がして、少女は痛みに顔を顰めた。

 文庫本が放り出され、まるで助けを求めるように、魔王の足下に落ちた。

 魔王は無言で文庫本を拾い上げ、繊細に、丁寧に土埃を払い落とすと懐に収めた。


 そして――風をも越える速度で駆けた。

 



「お前の貸してくれた本、面白かったぞ。だが――」


 突如として目の前に現れた狼面の大男に、少女を踏みつけようとしていた男の動きが止まる。

 男のことなど全く意に介さず、狼男は倒れ伏した少女を助け起こし、その恐ろしい顔に似つかわしくない慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

 そうして懐から一冊の本を取り出すと、少女の手に恭しく握らせた。握らせ、男の王に向き直ると、地獄の底から湧き上がるような咆哮を浴びせかけた。


「世界一格好良い狼とは、我輩のことだ!」


 魔王の金色の瞳が揺らめいたかと思うと、男の身体は黒い炎で包まれた。

 それは『瞳術』と呼ばれる最高難度の魔法だった。種々の術式の一切を破棄し、見つめた対象に魔法の結果を強制的に行使する。それは、魔界で唯一、魔王のみが使用を許された深遠なる魔法の極致である。


 見たものを、燃やす。


 簡潔にして究極。如何な生物でも防ぎようのない容赦の無い火勢がみるみる内に男を灼いていく。塵芥が燃え上がる様を見る様な冷徹な目つきで、魔王は男が燃えるのを眺め、その悲鳴を聴いていた。


 その時であった。


「もう、やめて、あげて」


 声が聞こえた。

 その声は野辺に咲く一輪の花の様に儚げで、風に揺れる葉のように切なげで。

 そして。

 聞くものの心を堪らなく締め付けるほどに、"ぎこちない"響きだった。


 魔王は思わず振り返る。

 

 文庫本を胸に抱き、口を真一文字に結んだまま小さく肩を震わせる声の主。

 少女は顔を真赤にして俯いている。宝石の様な大粒の涙が、その目から零れ落ちるのを見た。


「分かった」


 魔王の瞳が再び煌めいたかと思うと、まるで絵の具が水に溶けるように、たちまちに黒い炎は散り消えた。もともと見た目ほどには大した火力は出していない。炎は男の服を少々いや大部分を灰にした程度であった。


「とっとと消えろ」


 魔王がそう言って「ぐるる」と唸り声を上げると、男は悲鳴を上げて逃げ去った。

 男の姿が見えなくなると、魔王は声を上げることもなく啜り泣く少女の前に跪き、零れ落ちる涙を指で拭った。そうしてそれを一吹きすると、メタセコイアの樹の下に小さな小さな虹が掛かった。


 少女が魔王の目を見つめる。その金色の瞳を見つめる。

 魔王はその視線をしかと受け止め、それを包み込むように優しく言った。




「お前は、耳が聴こえないんだな」




 聴こえずとも、意図は伝わったのだろう。少女が首を縦に振る。

 

 魔王にプロポースされているのに、全く意に介さない少女。

 

 魔王は全てを諒解した。


 求婚をしても反応が無かったのも、稚拙な恋文を朗読しても軽蔑されなかったのも、魅了の魔法が届かなかったのも、そのためだった。気付こうと思えば、気付けたはずだ。それが出来なかったのはただただ恋に舞い上がっていた自分の落ち度である。どれだけ残酷なことをしていたのだと自分を責めた。


 「ぐる」と唸ったきり俯いてしまった魔王の外套の裾を少女が引っ張る。

 そうして、ゆっくり首を横に降った。横に振って、陽だまりの様な笑顔を見せた。

 

 鼓動が高鳴る。


「強いな、お前は」


 そう言って魔王はふっと笑う。消沈している場合では無い。吾輩は魔王である。

 ポケットに捩じ込んだ魔石を取り出す。昨晩、夜なべをして加工していた。小さな指輪に加工していた。魔王は少女の手を取り、その手に口づけをすると、その最も相応しい場所に指輪を収めた。少女は目を丸くして、きょとんとしている。


「ここからは挑戦だ」


 魔王が少女の手を取る。魔石が輝きを増し、深く蒼い光が二人を柔らかに包み込んだ。


 ――祈ってくれ。


 魔王が少女の耳に囁き、少女の手を強く握った。

 目も眩むばかりの光でお互いの姿は見えない。握りしめる手の感触だけが頼りだった。


 それは、破壊の対極にあるもう一つの深淵。

 破壊の極致であるところの魔王には、決して行使することの出来なかった優しい魔法。

 莫大な魔力を背景に無理やり精霊を隷属させる、もはや方法論とすら言えない暴挙。


 魔力で不足なら、吾輩の身体を持っていけ。


 身体が軋む。

 骨が折れる。

 血が吹き出す。

 

 途切れそうになる意識を辛うじて繋ぎ止めたものは、自らの手に確かに伝わる暖かな温もりだった。




 そして――。



 メタセコイアの葉がひらりと舞い落ち、魔王は我に返った。

 我に返ると、以前とは比較にならない程の痛みが襲いかかってきた。これは暫く絶対安静だな、そんなことを考えた。ふと今の今まで少女の手を握りしめ続けていたことに気が付いた魔王は、ここにきて急に恥ずかしくなり、手を離した。


 指輪に嵌め込まれた魔石はすっかり無くなってしまっていた。


 台座だけが、まるで約束を果たすように、少女の細い指にしかと残っていた。

 宝石の抜け落ちた間の抜けた指輪がきらりと光り、少女と魔王は顔を見合わせる。

 二人して、笑顔を浮かべた。


 どこからか鳶がやってきて、ぴいひょろと祝福の声を上げた。



 少女が驚いた様子で空を見上げる。

 空と魔王を何度も見遣り、目を丸くしている。


 そして。


 大粒の涙が、頬を伝わった。



 その様子を眺めていた魔王は、ニヤリと邪悪な笑みを浮かべたかと思うと、少女の眼前に跪き、頭を垂れる。それは、古式ゆかしい魔界の求婚方法であった。


 魔王は言う。万感の思いを込めて。




「吾輩は魔王だ。結婚してくれ」





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