5話
「も、もももも、申し訳ありません!!」
食後の時間。
使用人の一人が紅茶をこぼし、主人の体を濡らしてしまった。
他の使用人達は、一斉に凍りつく。彼らができるのは、仲間の無事を祈ることだけだ。
「アルス、大丈夫か!?
おのれッ……!」
「大丈夫です。
ちょっと濡れただけですから、落ち着いて。
君も気にしないで。
拭くものはある?
いや、ちょっと着替えて来ますね」
王や周囲の反応を余所に、被害者であるアルス当人は気にしておらず、加害者の使用人を気遣ってさえいた。
「温和になられた。
かつては、激しい叱責を受けたものだが……」
アルスが意識不明になり、そして目覚めてから既に3ヶ月。
彼の性格の変化に、周囲の誰もが気付いていたが、それは好意的に受け入れられている。
「この国の後継者として、本当に相応しくなられた。
これでノーストリアも安泰だ」
(……確かに、かつてのような粗暴な部分を見せなくなった。
思春期特有の一時的な物だったから、それが治まるのは分かる。
だけど、今のアルスはあまりに……)
以前のアルスは、あまり学問には打ち込まず、外に逃げて遊んでばかりだった。
それが、今では進んで学ぼうとしているし、書物も多く読んでいる。
「ご馳走様でした。
父上、私はこれで。
少し、アルスの様子を見て参ります」
「おお、そうか。
ならば、アルスが火傷をしていないか、よく見て来てやってくれ」
席を立ったシルフィリアは、国王の言葉にお辞儀で返すと、アルスの後を急いで追った。
(私は何を考えているんだ。
アルスが人として成長していくのは、とても良い事。
それなのに、私は喜べていない。
私は……)
シルフィリアはアルスのことを、弟として嫌ってはいない。
しかし、父からの愛欲しさに、彼をライバルと捉え、敵視していたのも事実。
そんな相反する心の間で、シルフィリアは揺れている。
アルスが成長する事で、その揺れは増々強くなっていた。
(アルスが変わって、父上が激しく怒る事は無くなった。
それは良い事なのだが……)
「ん?」
アルスの部屋の前、部屋の中からアルス自身が出て来る。
その時の彼は、朝食の時と服装が違うのは勿論なのだが、それは普段着るような礼服の様式ではない。
運動に適した、幾分簡略化された服だった。
「おい、そんな格好をしてどこへ行くんだ?
まさか、また外に出る気じゃ……」
「!?」
アルスの体が小さく跳ね上がる。
彼はゆっくりと後ろへ振り返り、シルフィリアがそこに居ることを確認すると、彼女から逃げるように走りだした。
シルフィリアには、目の前で何が起こっているのか分かない。
彼女は少しの間呆然とし、アルスが走り去った後になって、ようやく気を取り戻す。
「……逃げた?
何故だ! 私は、嫌われるようなことは――」
無いとは言えない。
彼女は対抗心から、アルスに辛く当たっていた時期がある。
「口やかましい姉なのだろうな。
自業自得とは言え、やはり寂しいな」
その場を離れようとするシルフィリアの背中は、彼女の胸の内を自身で語っていた。
「そうです。なかなか筋がいいでずぞ!」
「そう?
でも、なかなか教えられた通りにはいかないな」
「ははは。簡単に出来てしまっては、我々の立場がありませんので」
一般の兵士とは違う、騎士と呼ばれる上位戦士。
その騎士達が使用する訓練場に、アルスの姿はあった。
騎士は騎士団と言う一つの軍団を形成しており、その騎士団の頂点に立つのが騎士団長。
アルスはその騎士団長から、剣の手ほどきを受けている最中だ。
「ですが、何故シルフィリア様に頼られないので?
お恥ずかしい話ですが、この私はシルフィリア様より些か劣ります」
ノーストリアに伝わる剣術は、かつて勇者が使用していたものを祖とする。
尚且つ、王族自身が勇者の血を引く子孫であり、その勇者の血を引く者にしか使えない技も多い。
剣術の基本部分は騎士団長でも教えられるが、それ以降は秘伝書を元に自力で会得するか、シルフィリアに教えを乞うかの二択になる。
ならば、最初からシルフィリアに頼んだ方が効率的だろう。
騎士団長の疑問は当然であり、自身を頼られたことに喜びを感じつつも、アルスに問いを投げかけた。
しかし、どういう訳か、アルスはその問に答えない。
答えに窮したように、黙りこんでしまう。
「ん~? なにか深い理由でもあるんですかい?
俺達にも教えてくださいよ」
二人の様子を遠目で伺っていた騎士達も、野次馬の心に火が着いたのか、アルスの元へどんどん近寄ってくる。
その圧力に耐え切れなくなったのか、アルスの口がとうとう開かれた。
「うぅ。そ、それは……」
「「それは?」」
「……苦手なんです」
「「は?」」
「苦手なんです。
嫌いではないんですけど、姉上を見ていると射竦められるような……」
「……ふふふ、はっはっはっはっ!」
やっと話されたその内容に、騎士団長は堰を切ったように笑い出す。
すると、それが呼び水となって、周囲の騎士達も一斉に笑い出した。
「……どうして笑うんですか!」
「ははは。いや、深い理由が無くてほっとしたんですよ。
私だってこの歳になっても、未だに父が恐ろしい。
誰だって、そういう人はいるものです」
「そうですぜ。
俺だって、姉さんには頭が上がらないものなぁ」
彼らの笑いは、アルスを馬鹿にしたものではない。
日常の中で自然と漏れ出す、暖かいものだ。
だが、それとは対照的に、心象を著しく悪くした者がいる。
その者は、自分に先に気づいた騎士達を威圧し、黙らせつつ、ひっそりとアルスの背後へ近づいた。
「……私がそんなに恐ろしいか?」
背後からの突然の声。アルスはそれよりも、何者かに抱きつかれた事に驚いている。
後ろへ振り向いて何者か確認しようにも、腕ごと締められていて身動きがとれない。
だがアルスは、その者の声から何者か予想出来ていた。
「あ、姉上?」
「ふふふ。騎士団の様子でも見ようとここまで来てみたが、まさかお前が居るとはな。
剣術が習いたいのなら、私に言えばいいのに。
それを、苦手などという理由で避けるとは。
こうなったら、この私が厳しく、徹底的に仕込んでやろう!」
「え……!?
や、やめて下さい!
離して!」
シルフィリアはアルスの言葉を無視し、彼を抱えたまま持ち上げ、運び去っていく。
まだ14歳のアルスと比べ、シルフィリアは頭一個ほど背が高い。
尚且つ、武人としてもかなり腕を持つ彼女は、見た目とは裏腹に力もある。
そんな彼女から逃げ出すことなど、捕まえられた時から既に無理だったのだ。
「団長達も見てないで何か言って~!」
「無理です。
そうなってしまった姫様には、誰にも手出しは出来ませぬ」
「私達も後で様子を見に行きますから、死にはしませんよ~」
触らぬ神に祟りなし。関われば自身に飛び火すると分かっていて、手出しする者など存在しない。
アルスを拝みながら見送った後、騎士達は自身の訓練に戻っていった。