(1)
「行ってきます。」
「おう、行ってらっしゃい。」
桐沢鏡夜はいつも通り、父からの馬鹿でかい見送りの声を背中に受け家を後にする。
自分の腹からは到底出すことの出来ない声量に、鏡夜は毎度、本当に父の血が自分に流れているのか疑わしさを覚える。
元々内気な方だった鏡夜だが、その内気さは年々加速している。
その証拠に今日もクラスに入って彼に声をかける者はいない。
だが、鏡夜は特にその事について息苦しさや寂しさを感じた事はあまりなかった。
何か周囲から目立って嫌味やら嫌がらせやらを受けるわけでもなし、それに昔から一人で静かに過ごすのは好きだった。
鏡夜にとっては当たり前の日常だった。
午前中は机に座り、授業を受け。昼食は屋上で一人父親の手作り弁当を頬張り、午後も授業が全て終われば家に帰るのみ。
決まりきったルーティンワークをこなすかの如く日々が過ぎていく。
しかししばらくして、図書室で時間を過ごす事が多くなった。
特に何をするわけでもない。
落ち着いたこの空間が気に入った。
ただ座っているだけでは申し訳ないかなと思い、適当な本を手に取り読書に耽っているように振舞っていた。
傍から見ていれば寡黙な文学少年にも見えるだろうが、その実ページは一切めくられていかない。全く場面の変わらない見開きを眺めるだけである。
そんな時間、鏡夜が考える事は家族の事だった。
父である桐沢雷夜は、今主夫として家庭を守っている。
元気が何よりも取り柄と言わんばかりに、いつだって笑顔を絶やさず家族に接する良き父親だ。
以前はやり手の営業マンとしてばりばり働いていた事もあり、家事に関して最初は四苦八苦していたが、やがてそれも板につき、今や効率、節約共に近所の主婦達も息をまく程の主夫っぷりを発揮し、本人もそれを楽しんでいるようだ。
そしてその傍ら、営業で培った人脈と、先を見通す千里眼から株に関しての知識を習得し収益を得ている。
鏡夜にはよく分からなかったが、雷夜の話を聞いている限りかなりの収益は確保出来ているらしい。
そして母である桐沢つぐみ。
雷夜とは対照的に物静かで、豪胆に笑う父の傍で彼女はいつも穏やかに微笑んでいた。
元気を周囲に振りまくのが父とするなら、母は優しさで全てを包み込む役割を担っていた。
今の自分自身を見ていると鏡夜には母の血が色濃く受け継がれたのだろうと常々感じる。
母は静かで優しく、時に厳しく鏡夜を育ててくれた。
決して子供扱いはせず、一人の人間として言葉を与えてくれた。
内気な鏡夜は口には出さなかったが、そんな二人が大好きだった。
でも、その母はもうこの世にはいない。
そんな母に変わって、雷夜は母の役割を引き継いだ。
母が事故で死んでから、何度夜が過ぎただろう。
彼女が電車に飛び込んでいく姿を、鏡夜は今も昨日の事のように思い出せた。