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ある国である男が死んだ話

作者: ろく


一つめ。


  やばい。

 そう思った次の瞬間には、腹をかっさばかれて仰向けに倒れこんだ。

 どっと地面と体がぶつかる音が、やけに遠くに聞こえた。

「……大将!」

 部下達の泣き声も遠い。本格的にやばい。死ぬのだ、と、鮮明に心が鳴いた。それを己の耳が聞き取る。

 だが不思議と怖いとは感じなかった。ただ、残念に思う。あれだけ奴を煽っておいて、このざまだ。は、と鼻で嗤った。

 奴が毅然とした足取りでこちらに向ってくる。部下達を容赦なく斬り捨て、ふんと鼻を鳴らした。

「……待てよ」

 背を向け立ち去ろうとする伊庭を、錦戸は掠れた声で呼び止めた。

 伊庭は逡巡を見せた後、ようやくこちらを振り返った。白い頬に己のだか彼のだかの血がとんでいた。貴様、と薄い唇が動く。

「……死ぬのか」

 何だって?

「貴様、死ぬのか」

 何を言う。てめぇがやったんだろうが。

「……ああ、そうだ。私が」

 言って、伊庭はゆるく首を振った。

「死ぬの、だな。貴様は。そなたも」

 ……どうした、伊庭忠正。破瓜を向かえた小娘のような顔をしているぜ?

 伊庭は口元を覆い、こちらを見おろしている。その姿が揺れて見えた。

 どくり、どくり、と、血が。流れる。空が迫ってくる。呑まれる。

 伊庭は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。そして、背を向けて歩き出した。

 何故だか、笑みがこぼれた。

 おかしいのでもない。楽しいのでもない。なのに、笑みが。


 なあ、知ってるか? 伊庭忠正。

 月はいつか満ちるもの。

 氷はいつか溶けるもの。

 そして、日は、いつか沈むもの。




二つめ。

 

 ぢよぢよ。

   ぢよぢよ。


 日が肌を刺す。蝉の声を体が孕む。地の先が揺れて見える。

 青い、蒼い空だ。高い。

「忠正様! 敵襲、敵襲です!」

「……慌てるでない」

 錦戸から笠戸の地を取り戻し、幾月。自国の安泰を揺るがすものは排除したというのに、またも火種が迫っていた。

 遠くに見えた旗は、阿住の旗だ。

 笠戸の奥に陣を取り、伊庭はふ、と息を吐いた。

 阿住よ。何故この国を喰らう。貴様も天下が欲しいと申すのか?

 ……天下とは、いったい何だ。貴様は、戦の無い世を創るために天下を欲しているのだったな?

 ……和とは、戦によってしか創られぬ。そのような天下など。


 ぢよぢよ。

    ぢよぢよ。


 ああ。蝉が。

 戸が破られ、兵がなだれ込んでくる。この兵を自分が抑え、その隙に船で敵を囲む。そういう手筈だ。

 矢を刀で払う。体を捻って避ける。だが避けきれず、数本が眼前に迫ってきた。刀を振り上げる。

 同時に、名を呼ばれた。忠正様と、兵が目の前に飛び出してきた。名は、確か、吉田と言ったか。

 吉田の背に矢が突き刺さる。腹を伊庭の刀が裂く。血が。

 血が。


 ぢよ。

 ぢよぢよ。


 温かい。

 頬を血が、濡らす。頬をつたい、顎をすべり、咽仏に流れた。

 あたたかい。

 ど、さ。と、吉田が倒れる。血が広がる。

 ……なあ、部下ってのは家族みたいなもんだろ?

 ……部下を名で呼んだこともねえのか?

 耳障りな声がした。錦戸だ。何故。疎ましくてならないあいつは、もう排除したはずなのに。

「……黙れ」

 黙れ。黙れ黙れ。


 ぢよぢよ。

      ぢよぢよ。


 蝉が。

 おかされる。蝉に。


 ぢよぢよ。

       ぢよぢよ。


 ど、と胸元に衝撃が走った。矢だ。体が傾ぐ。忠正様、と呼ぶ声がした。

 血が流れる。

 ゆるりと胸元に手をやり、伊庭は、僅かに笑った。そのあたたかさに笑った。

 日の光を、月を模した阿住の前立てが反射する。く、と咽が笑み声をあげた。


 ぢよぢよ。

 ぢよぢよ。

 

 ぢよ。




三つめ。 


 ぱしゃ、と水の跳ねる音がして錦戸は腰を上げた。よう、と右手を挙げるが、視線の先の彼は不機嫌さを隠そうともせずに眉を顰めた。

「……何故貴様がここにいる」

 低い声で伊庭は言った。何故も何も、と錦戸は挙げた右手をひらりと振る。

「待ってたんだよ。お前を」

「……私を? 解せぬな」

「ちょいと、話がしたくてな」

「話すことなど何も無い」

「そうつれねえ事言うなよ。な?良いだろ?」

「……やかましい」

「はっは! 相変わらずだな」

 きつい目でこちらを見据える伊庭に、錦戸は豪快に笑ってみせた。更に眉が顰められるが、気にした事ではない。

「……寂しいか?」

「……何をふざけた事を。そのようなわけがあるか」

「そっか……。ま、これで生き残される心配はしなくですむんじゃねえの?」

「戯れ言を言うな」

「おっと、そうツンツンすんなよ」

 両手をあげて言う錦戸だ。伊庭はふんと鼻を鳴らし、顔を背けた。

「ところで貴様、その格好はいったい何だ。待っていたというならば、もっと小マシな格好は出来ぬのか」

 ああ、と錦戸は己の姿を見る。錦戸は褌一丁だった。言い訳がましく髪を掻きながら言った。

「婆が俺の服持っていきやがってよ。死ぬ準備なぞ糞喰らえだったしなあ、金なんて持ってねえし」

 はっと伊庭は身構えた。己の服も剥がされる事に泡立ったのだろう。

「なあ、伊庭忠正。言ったろ?俺、お前と話がしてえんだ。その為にここで待ってた。酒でも飲みながら、話そうぜ?」

「……私は酒は好かぬ」

「ま、良いだろ。こっちじゃあ青梅だろうが河豚だろうが食い放題だ。酒だって」

 言葉の途中で、伊庭は突然駆け出した。何だと首を傾げれば、婆が猛然とした速さでこちらに迫ってきていた。

 腹を抱えて、錦戸は笑った。

 そんな必死な顔もできるんじゃねえか、と。


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