#7 夏(7)
夏編はここまで。次回からは新学期が始まります。
夕闇と蛙の声。残照は物悲しく海から吹く涼やかな風が頬の汗を乾かした。
「なんだかさぁ」
小春がポツリと呟く。
「普通お祭りに行くときはすごいテンション上がるよね。なんだか気分が重いんだけど」
良介はすっかりいつもの調子に戻っていた。
「お前まだ気にしてるのかよ。そんなもん迷信、嘘、不幸も幸せも気分次第さ」
「ほんと、その性格羨ましいわ」
家の玄関先で尚也達が屯していると漸く美緒が家から出てきた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった」
薄紺の浴衣に萌黄色の帯を締めたその姿は浅い闇に明かりを灯したかのようだった。
美緒は下駄を鳴らしながら尚也の腕を掴む。
「行こう、お兄ちゃん」
亜季と小春はお互い見合わせ幾ばくかの嫉妬と後悔を無言のうちに共有した。
「こんなことなら浴衣もってくればよかたね」
「うん・・・」
暫く歩くと立ち並ぶ家々に堤燈と紅白幕が飾られて華やかさを増し、行き交う人々が列をなした。粗目の溶ける匂いと発電機の音。心なしか気分は高揚し先程の切ない気持ちも何処かへ消えていた。
人ごみを掻き分け鳥居を潜り境内に辿り着いた。
祭事場では神楽が催され、太鼓と鐘の音が響く。
尚也達は賽銭を入れて鈴を鳴らし、拍手を打った。
亜季が目を閉じようとしたとき尚也の母が話した物語が頭を過ぎった。
(何かを控えに・・・・)
自分の願いに躊躇した。
(でも、そうであっても・・・私は・・・)
深く目を閉じ強く掌を合わせた。
頭をあげ横を見た。尚也はまだ手を合わせている。
(何をお願いしてるんだろう)
そう思った瞬間、亜季の目の前に幻影が投射された。
亜季の五感は閉ざされ、直接脳にイメージが映し出される。
少女、少年、二人の笑顔、高鳴る鼓動、慈しみ、締め付けられる胸。
誰もいない家。少女の名を呼ぶ少年。絶望。悲しみ・・・・
時が一瞬とまった。白い空間には手を合わせている尚也と亜季しかいない。
(約束しよ)
(なんの?)
(忘れないって)
(忘れないよ)
(ほんと?)
(ほんとう)
(少し大人になっても?)
(あたりまえだろ)
(絶対?)
(ぜったい・・・)
誰かが鈴を鳴らしたとき祭りの喧騒が亜季を包んで現実に戻った。
「どうしたんだ、お前」
尚也が亜季に言う。
我に戻った亜季は強張った顔をつくろって「なんでもないよ」と踵を返した。
それから尚也たちは出店を散策した。学校の事や将来の事、正直な今の気持ちの事など忘れて只管に楽しんだ後、騒々しいほどの蛙の声に押されて家路に着いた。
小学生の子供のようにはしゃいで花火をし、蚊取り線香の匂いが漂う部屋で布団に着いた。小春と亜季は美緒の部屋。良介は尚也の部屋で。
(私ね、大きくなったらあの高校に行くの)
二人で歩いているとバスから清明学園の制服を着た女学生が降りてきた。
(あそこの高校、難しいんだろ)
(だってお母さん言ってたもん。いいお嫁さんになるんだったらいい学校にいって、いっぱいお勉強しなきゃいけないって)
(ふーん)
(尚也くんもいっしょにいこうよ)
(僕は無理だよ、頭わるいもん)
(・・・・・)
(とりえと言ったら、泳ぐことしかないからなぁ)
(・・・・・)
(わかったよ・・・僕も行く)
(ほんと?)
(ああ、ほんと)
尚也は暗い天上を見詰めていた。
横で良介は鼾をかいて布団をはだけている。
徐に起き上がって部屋を出て階段を下りた。便所に行った後、縁側の扉を開けて冷めた空気に身を浸し、床に腰を下ろした。見上げると上弦の月が紺色の空に引っかっている。
後ろで人の気配がしたので振り返ると小春が寝巻き姿で立っていた。
「どうしたの?」
「お前こそ」
小春は静かに尚也の横に座った。
「綺麗な星・・・。こうしてゆっくり夜空を見ることなんていままで、あまりなかったな」
尚也は何も言わず月を見詰めていた。
「いい町ね」
「そうか?」
「うん・・・・」
しっとりと時間が流れた。小春はなんだか裸になったような気恥ずかしさと、それとは裏腹の喜びを胸に感じていた。
「あのさぁ、小春は何で清明に入ったんだ?」
突然の質問に戸惑った。
「え?なんでって、その・・・、お医者さんになりたいから」
「医者?」
「お父さんがね、小児科医で、それで」
「尊敬してるんだ」
小春は言うか言うまいか少し考えたが雰囲気に流されて心の内を話した。
「小さい頃、お父さんのこと大嫌いだったんだ。だって、仕事が忙しくてお母さんの事も私の事も、いつも二の次で、ぜんぜんかまってくれなかった」
少し間を置き更に続けた。
「だけど大きくなるに連れてお父さんの仕事の大切さが理解できて・・・、あのね、清明が受かって、中学の卒業のとき家族旅行に行こうってお父さん言い出して、とても楽しみにしていたんだけど、掛かりつけの子供の容態が悪くなって、結局お母さんと二人だけの旅行になっちゃった」
静寂が二人を包む。僅かな光が小春の表情をさらに柔らかくした。
「お母さん凄い怒ってたけど、私、なんていうんだろ、勿論悲しかったよ、悲しかったけど、なんだか嬉しかった。誇りに思うってこんなふうなんだなって・・・ごめんね、なんかバカみたい、私・・・」
尚也は大きく頭をふって「羨ましいよ」と呟いた。
「柴田君はどうなの?なんで清明に入ろうと思ったの?」
そう聞かれるだろうと予想はしていたものの、なんと答えていいのか尚也は悩んだ。
彼女との約束。そんな事を言ったら笑われるだろうか。いやそもそも彼女自身約束のことなど忘れているに違いない。ただの独りよがりだったのだ。
「そうだな、ただなんとなく。ためしに受けみたらまぐれで受かっただけさ。おかげで勉強ついていけなくて困ってんだ」
小春は少し疑った目で「ふーん」と言いながら尚也の顔を見詰めていた。
「お祭り、楽しかったね」
「ああ。久しぶりに行ったけど、今までで一番楽しかった」
暫く二人は宵宮の出来事を他愛もなくしゃべり続けた。
「そういえば神社で何お願いしてたの?随分真剣だったけど」
「ああ、人類全ての幸せと、世界平和」
「嘘つき」
「ほんとうさ・・・小春は?」
「私は・・・・」
視線を空に移し、少し間を空けて小春は言った。
「もういいの」
「なにが?」
「もう叶っちゃったから」
「え?何時」
静かに澄んだ目を尚也に向けた。
「たった、今」
尚也はその言葉を真剣に受け止めるべきか、それとも冗談で返すべきか悩んだが小春の潤んだ瞳が悩ましく言葉が喉に引っかかって出てこない。そのとき廊下の軋む音がして後ろを振り返った。
「なに?」
「誰かそこにいたような気がしたんだけど」
小春も振り返った。
「誰もいないじゃない」
「いや、確かに・・・」
「変な冗談やめてよね」
居間の襖の陰で亜季が先ほどから二人の話を聞いていた。
両手の指を絡ませ、そして両手で顔を覆うと静かにため息をついた。
普段小説を書くときはプロットを先に考えるのですがこの作品だけはキャラ設定だけをして後は思いつきで書いていました。
でも尚也の母親の「ロマンチックな話」を挿入した後テーマが決まり、私の脳内でキャラクター達が自由に動きまわってしまったのでこの後から本腰を入れて書き進めました。