#55 春隣(2) -終-
プールへの入り口のドアは開けられていた。
水の音や笛の音、コーチの怒鳴り声が聞こえてこない。いつもとは様子が違う。
小春が首だけ出して中を覗くと部員達はジャージ姿で歓談しており練習している雰囲気ではなかった。
プールサイドに場違いな男が奈津美と何やら話をしている。
「ちょっとあんたねぇ、何でもべらべら喋ればいいってもんじゃないでしょ!」
いきなり背後から怒鳴られた良介は驚き、飛び跳ねながら振り返った。
「こ、小春。何してんだよ」
「何してようと私の勝手でしょ!あんたのおかげで私の計画が目茶目茶なのよ!」
「計画?なんだそりゃ」
「うるさい!」
思わず手を上げた小春に奈津美が話しかけた。
「やっぱり寺嶋さんがいるとにぎやかでいいよね」
振り上げた手のやり場に戸惑った小春はその手で自分の頭を掻いた。
「ところで、新人マネージャーの働き振りはどうですか?」
「ええ、安住さんに負けないくらい頑張ってるわ」
そのときプール中に響く大きな声で小春を呼ぶ声がした。
振り向くと亜季がストップウォッチを首に掛け、ノートを振り回しながら駆け寄って来た。
「小春、久しぶり!」
「久しぶりって、昨日会ったばっかりじゃん」
「学校で会うのが久しぶりってことよ」
「そりゃそうね」
二人は手を握って笑い合った。
「それはそうと、今日は何なの?練習休み?」
「うん、急遽、またそこの人がね・・・」
と亜季がじとっとした目で良介を見た。
「またあんた、何かたくらんでるの?」
小春も良介を睨む。
「ばか言えよ、まぁ、切欠は俺かも知れないけどさ、そもそも尚也がはっきりしないから悪いんだよ」
「はぁ?それで何すんのよ」
「賭けだよ」
「賭け?」
小春は怪訝な顔でその訳を聞いた。
つい昨日の話であった。
昼休みに尚也と亜季、良介の三人で昼食取っていたときのこと。
「お前、総体に出るんだってな」
良介が焼そばパンを頬張りながら尚也に言った。
「ああ、出るよ」
「聞いた話だと部費も払ってるそうじゃないか」
「ああ、払ってるよ」
尚也は亜季と同じおかずの弁当を机に置きながらそう答えた。
「だったらお前、普通の水泳部員じゃん」
尚也は少し間を置いて素っ気なく言った。
「いや、まだ仮の部員だ。部費も半額だし」
「あのな、半額だどかどうでもいいんだよ。練習して大会に出たら普通にちゃんとした部員だろ。違うか?」
「まぁ、なんと言うか、俺は別にいいんだけどさ、部長が・・・」
そのとき亜季が尚也の横腹に肘鉄を入れた。
「なんだよ」
亜季は無言で尚也を諌めた。
良介は二人のやり合いに半分ふてくされながらパンの袋をゴミ箱に投げ入れた。
「まぁいいや、どうやったって勝てないんだから正式な部員になったってさ、お荷物もいいとこだな。石田さんもいい迷惑だろさ」
「お、お荷物・・?」
どうやらその言葉に尚也のスイッチが入ったようだ。
「だってそうだろ。いくら泳ぐのが速くてもさ飛び込めない水泳選手なんてどこの世界にいるんだよ。それとも何か?背泳に転向するのか?」
その馬鹿にしたような言いように尚也の闘争心に火が灯った。そもそも尚也はクロールと平泳ぎでしか泳いだ事は無かった。
「今度の総体で俺が勝ったらどうする」
「そんなことありえねぇけど。まぁそうだなもしそうなったら何でも言うこと聞いてやるよ」
「本当だな」
「ああ、貸した金もエロコレもいらねぇよ。なんだったら土下座してやろうか?」
「二言は無いな」
「もちろん」
「じゃあ、明日、白黒つけようぜ」
「明日?」
亜季と良介は突拍子もない尚也の言葉に驚いた。
尚也が練習を再開してからまだ一週間も経っていないのだから。
秋季大会、自由形200mの優勝タイムは1分49秒01。それ以下だったら尚也の勝ち。
それ以上であれば尚也は正式な部員となり晴れて良介は奈津美とデートをするという約束を果たす事になった。
「柴田君、何考えているのかしら」
小春がぼそりと呟く。
「でもそのエロコレってなによ」
「それは、あれだ、男と男の友情の証というか・・・」
「あかし?」
良介は赤面しながら咳払いをして誤魔化そうとする。
「石田さん、いいんですかこんな奴と」
奈津美は途方に暮れた様子で仕方なさそうに言う。
「一応、約束だから、ねぇ・・・」
そのとき漸く尚也がジャージ姿で現れた。
「小春、もういいのか?風邪」
小春は大きなくしゃみをして後鼻水を垂らすと空かさず亜季がティッシュを差し出した。
「柴田君、あんた何考えてんのよそんな身体で・・・」
くしゃみを我慢して鼻の穴が広がっている小春の横を通りすぎて尚也は良介の前に立った。
「良介、賭けの内容を変えて欲しいんだけどさ」
「なんだよ今更。勝つ自信が無くなったか?ハンデつけろとかはダメだぜ」
「そんなんじゃねぇよ。お前の言うとおり俺が仮の部員だってのは不自然だからな」
「ふーん。正式な部員だと認める分けだな」
「だから、俺が勝ったら部長との約束は無かったことにする、という事でいいだろ」
良介は少し考えて承諾した。
「まぁ、俺にとっては同じことだからな」
準備体操を始めた尚也に奈津美が話しかけた。
「柴田君、大丈夫なの?私、信じていいの?」
「そんなにあいつの事が嫌いなんですか」
「嫌いじゃないんだけどね、ただ・・・」
「ただ?」
「ヘンな噂を広められそうな気がして・・・」
「それはありえるわね」
小春が奈津美の肩越しに言う。
「あのバカなら一回デートしただけで彼女呼ばわりするわよ。絶対」
良介は奈津美との色々なことを想像しながら一人でにやけていた。
小春の刺すような視線に気付いた良介が
「そろそろ始めようぜ。ところでさ、誰がタイム計るんだ?」
と言うと亜季がストップウォッチを掲げて返事をした。
「はーい。私でーす」
「お前かよ」
「何?私はマネージャーなんですから当然でしょ。文句ある?」
「いや、ねぇけど・・・ずるすんなよな」
「するわけないでしょ!バーカ。バカ良介!」
そう言い捨てて尚也の元に駆け寄る亜季の背中を見ながら良介は小雪に呟いた。
「なんだかあいつ、最近変わったよな」
「そお?」
「だんだんお前に似てきてるような気がするんだけど、気のせいか?」
「私と居るときはいつもあんな調子だけど」
「本当か?ネコかぶってたのかよ。まったく、女ってやつは・・・分んねぇ」
小春は尚也に寄り添う亜季を眩しそうな眼で見詰めた。
ジャージを脱いだ尚也の身体には生々しい手術の痕がまだ残っていた。
「身体大丈夫?痛いとこない?」
亜季が労わるように声を掛けた。
「もうどこにも痛みは無いし、大丈夫」
尚也はプールに入り水の感触を確かめるようにゆっくり25m泳いだあとプールから上がってスタート台に上った。
それを見ていた良介が鼻で笑いながら尚也に向かって大声をだした。
「なんのマネだよ。本当はやる気ねぇんだろ」
「あら、知らなかったの?」
奈津美が言う。
「この三日間、ずっと飛び込みの練習ばかりよ」
良介の顔には少しばかり焦りの色が浮かんだ。
プール内がしんと静まり、他の部員達も固唾を飲みながら尚也に注目していた。
「準備はいい?」
奈津美が問いかけると尚也は前傾姿勢のまま頷いた。
「よーい・・・」
一瞬の静寂あと笛の音が轟いた。
尚也は溜め込んでいた力を解放するように折り曲げていた身体を跳ねるように伸ばし、奇麗な弓型になって宙に飛んだ。
空中に水飛沫が舞う。暫くして水面に浮かび上がると周りからは感嘆の声が上がった。
25m、50m・・・
ブランクを感じさせない尚也の泳ぎに誰もが目を見張った。
先の大会よりもフォームが安定していて水に乗れているのが小春にも分った。
75m・・・
亜季は100mのタイムを見た。自己ベストより少し遅れていたが不安な気持ちは無かった。
125mのターン。
「ここからよ!」
奈津美が声を上げた。
尚也は今までセーブしていた体力を爆発させるかようにスピードを上げた。
150m、175m・・・
「すごい、速い」
小春が目を丸くして思わず声援を送った。
「柴田君!がんばれ!」
部員達の期待も高まる。最後の25m。
尚也は更にスピードを増し、そしてゴールした。
室内プールに居る全員が亜季の後ろに回り込み、手元のストップウォッチを覗き込んだ。
全員が息を飲み直ぐ様歓声が沸き起こる。
部員達は互いに手を取りあい、小春と奈津美も思わず抱き合って喜んだ。
その中で良介だけはあんぐりと口を開けてうな垂れた。
「そんな、ばかな・・・」
プールから上がって来た尚也の元に亜季は、取り戻した笑顔と共に駆け寄る。
尚也はストップウォッチの数字を見て満足げに呟いた。
「まぁ、こんなもんだろ」
「次の大会は当然優勝よね。だって勝利の女神が二人もついているんだから」
亜季から渡されたタオルで顔を拭い、それを首に掛けた。
柔軟材の微かな香りが気持ちを落ち着かせた。
そのタオルの端には尚也のイニシアルの他に二人分の名前が同じ色の糸で刺繍されていた。
朔 - ついたち -(了)
筆者 道人
最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
本当はもっと軽いタッチで書きたかったのですが、その軽いタッチってぇのがどうしても書けません(涙)
私のこの不恰好な文体を気に入ってくれた方がもし少数でもいらしやったら別の小説もUPしようかなぁと・・・
いや、居なくても上げるか?まぁ、気分次第ということで。
それではまだ何れ・・・