#54 春隣(1)
昨日から高熱を出して寝込んでいた小春は昼頃にはすっかり良くなり鼻をぐずぐずさせながらパジャマ姿のまま荷物の整理を始めた。
ガムテープで封をしてある段ボール箱を開けて中の荷物を取り出す。
クリーニング店のビニール袋に入っている制服を手に取ったると頭の中で妄想が広がった。
コートの襟を立てて朝の校門に佇む小春。
それに気づいた生徒の一人が大声を上げる。
「あ!寺嶋小春だ!」
それを聞いた他の生徒数名が玄関から走って出てきた。
「小春!もどってきたのね」
「俺信じてたよ!絶対学校に戻ってくるって」
「嬉しいっす。嬉しいっすよ、小春さん!」
いつの間にか大勢の生徒が小春を取り囲み、喜びの声をあげた。
「ごめんね。みんな。心配かけて」
涙ぐむ小春につられて生徒等が一斉に泣き出した。
「小春さん!」
「こはるぅ~」
「また一緒に勉強できるのね。私、嬉しい・・・」
騒ぎに気づいた教師がやって来た。
「おい!もう直ぐ始業時間だぞ!教室に戻れ!」
輪の中心に居るのが小春だと分った教師は急に態度を変えた。
「寺嶋か?お前、戻って来てくれたのか・・・」
「はい、先生。またよろしくお願いします」
教師は涙を手の甲で拭う。
「よく戻って来てくれたな。寺嶋が居なかった間、全校生徒がどれだけ淋しがっていたことか・・・おい!みんな!何してる!寺嶋を胴上げするぞ!」
「おー!」
「わっしょい!わっしょい!」
「みんな!ありがとう!」
小春は宙に舞いながら感謝の言葉を叫んだ。
「うへへ・・」
鼻水を啜って一人でにやけていた小春はパジャマを脱ぎ捨てて制服に着替えた。
部屋を出て行き居間で荷物整理をしていた母親に声を掛けた。
「ちょっと出かけてくる」
「出かけるって、あんた風邪は治ったの?」
「大丈夫よ!」
玄関のドアを開けてアパートの階段を下りて行った。
土曜日の昼下がり。気持ちが引き締まるような寒さが頬を打つ。
久しぶりに晴れた空には白い雲が流れていた。
あれから時が過ぎ、新しい年を迎え、三学期が始まっていた。
本当は冬休みが終わると同時に復学したかったのだが引越しの予定がずれたのと風邪のせいで予定がずれ、始業式から一週間経った月曜日から登校することになっていた。
小春は新しい通学路を新しいブーツで歩いて行く。
やがて学校に着いた小春は校門の陰から中を覗き、誰も生徒が居ないことを確かめると小走りで校舎に入った。
「ここで見つかったらもともこも無いからねぇ」
そして人目を忍ぶように職員室のドアを開けた。
「寺嶋、どうした。月曜からだろ」
担任の田口が声を掛けた。
「先に挨拶だけしようかなって・・・」
「そうか、まぁ座れよ」
「はい」
職員室の隅にある来客用のソファに向かい合わせて二人は座った。
「しかし、ほっとしたよ。肩の荷が降り立って言うか」
「すみません。いろいろ心配かけて」
「俺の女房も喜んでいるよ」
「え?奥さん?奥さんまで心配してたんですか?」
小春は田口の奥さんに会った事は無くどういうことだろうと不思議に思った。
「そりゃそうだろ。例の事件があってからずっと心配してたよ」
「そうなんですか・・・奥さんにもよろしく伝えて下さい」
小春は思わず感動して鼻水をすすった。
「これで俺の息子が病気しても安心できるよ」
「え?息子さん?」
「寺嶋先生が大学病院に勤めることになったって女房に言ったらえらい喜んでな。あんなにいい先生、滅多に居ないからなぁ」
小春は漸く合点が行き肩を落とした。
「ああ、お父さんのことですか」
意気消沈している小春に気づいた田口は慌てて慰めの言葉を投げ掛けた。
「いやいや、お前の事もな、それなりにだな・・・」
「それなり・・・?」
「いやぁ、すまん。いつも寺嶋のことは藤村や保村から聞いていたから安心していたんだよ」
「どんなふうにですか?」
「学校に行きたくてうずうずしてるってな」
冬休みの間は毎日のように亜季と遊んでいたし、退院して実家に戻っていた尚也の所にも三人で遊びに行った。
「クラスのみんなも月曜日は楽しみにしているんじゃないかな」
「そうですか・・・。え?じゃぁ、私が月曜から登校することはみんな知っているんですか?内緒にして下さいって言ったのに・・・」
(わっしょい!わっしょい!)
(みんな!ありがとう!)
小春の妄想が崩れて行く・・・・
「俺は、誰にも言ってないんだが・・・」
「もしかして、あの、バカが」
小春の脳裏に良介の顔が浮かんだ。
「まぁ、そんなに怒るな」
「せっかくみんなを驚かせようと思ったのに・・・私の計画が・・・」
小春は眉間に皺を寄せ、思わず拳を握った。
田口はそんな小春に笑みを浮かべながら優しい口調で言う。
「しかし、お前も良い友達を持ったな。大事にしろよ」
良い友達。その言葉に小春の顔が晴れ、大きく返事をした。
「はい!」
職員室の入り口で一礼した後廊下に出た。胸の中で温かなものが込み上げてくる。
小春はその温かものに幸福感を抱きながら鼻歌交じりに廊下を歩いて行った。
校舎の中は閑散としていて内履きの鳴く音が響いた。
小春は玄関の前を通り過ぎてプールへと続く渡り廊下に抜けた。
窓の外は荒涼としていてガラス越しに寒さが伝わる。
室内プールの壁際にある洗濯機と物干しの支柱に自然と目が行った。
尚也が水泳部に通い出した頃、練習を覗きに来た時には何時も優妃子がそこにいた。
愛用していたパイプ椅子がまだ洗濯機の横にある。
「安住さん・・・」
立ち止まってそう呟いたときその周りが明るくなって椅子に座った優妃子が微笑んで手を振っているのが見えたような気がした。
小春は涙が込み上げてくるのを堪え、鼻水と一緒に飲み込んだ。
目を瞑って優妃子に誓う。
「私、頑張るからね。あなたの分も」
再び目を開け見えたものは寂寥とした冬の風景だった。