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#53 新月(2)

尚也は松葉杖を突きながら誰も居ない病室にいた。

シーツが剥ぎ取られたベッドには数日前まで優妃子が横たわっていた。

病室の中は何の音も無く、弱った陽の光が窓から差し込んでいる。

「こんなところに居たの。早くしなさい」

漸く探して見つかった尚也を母親が車椅子に座らせ、美緒がそれを押した。

「何だよ、美緒。学校は?」

「今日は祭日よ」

「そうだったっけ・・・」

三人を乗せた車は尚也の故郷へと向かった。


実家で着替えた尚也は久しぶりに着る制服に身を包み母親と二人でまた車に乗って優妃子の葬儀に向かった。会場は代々里中家が檀家としている寺院だった。

敷地内の木々は葉を全て切り落としていて、黄色や朱色の落ち葉が地面に散乱していた。

尚也は不自由な身体を車内からやっと外へ追いやると潮の匂いが混じる冷たく湿った風が

頬を撫ぜた。

母親がトランクから車椅子を取り出して差出したが尚也はそれを断った。

松葉杖のまま暫く待っていると数台のタクシーがやって来た。

最初に声を掛けたのは奈津美。

「大丈夫?柴田君」

「この通り。明日からでもプールに入れるよ」

「本当?じゃぁ、春の高校総体、期待していいのかな?」

尚也は迷う間もなく「もちろん」と答えた。

水泳部員の一人一人と挨拶を交わしあと、小春がタクシーから降りてきた。

「ちゃんと連れて来たからね。ちょっとてこずったけど」

小春は眼を伏せながらそう告げると自分が乗っていたタクシーに顔を向けた。

良介が助手席から出てきて尚也に声を掛け、後ろの席から亜季が降りて来た。

亜季は視線が定まらないままその場に降り立った。

「ごめんね。お見舞に・・行けなくて」

尚也は亜季の存在を認めただけで心が一杯になり言うべき言葉が出てこなかった。

尚也は「この通り・・・」と両腕を広げ「不死身なんだよ。心配するな」と言った。

しかし、亜季の瞳は曇り、その後何も言わないまま落葉を踏みながら寺に歩んだ。


優妃子の遺影は清明学園に入学した直後のものだと里美から告げられた。

病気が急激に進行する前のものであり、その顔は「ユキちゃん」そのものだった。

滞りなく終わった葬儀のあと、本当の両親の墓に優妃子の骨は収められた。

里美とその夫は尚也に深々と頭を下げて改めて御礼を言った。

「ナオ君、本当にありがとう。短い人生だったけれど、優妃子、幸せだったと思います」

「俺は何も・・・」

尚也は墓石に手を合わせ、その場を後にした。

母親の付き添いで境内に行くと小春が苛々した様子で携帯電話を閉まった。

「何かあったのか」

「亜季、居なくなっちゃったのよ」

「居なくなったって、どこに」

「それが分らないから探してるの」

水泳部の面々と良介は寺の敷地から出て亜季を探していた。

「私の隣に居たんだけど、式の途中で席をはずして・・・てっきりお手洗いに行ったのかなって思ったんだけど、それから帰ってこなくて」

奈津美がそう弁解し、自らも寺の近所を探しに出た。

「まったく、電話も出ないし、名に考えてるのよ。私も探して来る」

小春もその場を離れた。

「一体どうしたのかしらね、藤島さん」

尚也の母親がそういうと尚也も探しに行こうとしたが引き止められ、半ば強引に車に乗せられた。

「その身体でうろうろされても返って迷惑でしょ。母さんもあとで探しに行くから、あんたは帰るのよ」

尚也は何度も車の中で亜季に電話を掛けたが直ぐに留守電になり、不安だけが募っていった。


車は路地を抜けて海岸沿いの国道を走った。

太陽は既に傾いていて光が波に乱反射している。

漁船が金色の波を引いて水面を滑り、テトラポットには数羽の鴎が羽を休めていた。

尚也は車の窓ガラスに亜季の面影を映しながら優妃子の言葉を思い出していた。

(アキちゃんを助けてあげて・・・)

「助ける?俺が、どうやって」

亜季の心の中で一体何が起こっているのかはっきりとした事は分らない。

しかし、今日久しぶりに見た亜季の姿は何かに怯えているようであったし、曇った瞳には

暗い影が潜んでいた。

交通事故の事で責任を感じているのだろうか。

(真っ白い紙に少しでも染みがあると許せない性質なのよ。いつも真っ白なままでいたいって思ってる。特にナオ君の前ではね)

その染みは少しずつ広がり、心の全てを黒く染めてしまったのか。


尚也を乗せた車は番屋が立ち並ぶ道を抜けてT字路の信号で止まった。

ウインカーの矢印が左に点滅する。右側には雑木林が立ち並んでいた。

そう言えば、夏休みのあの日から全て始まったような気がする。

尚也は何かを思い立ち、松葉杖を抱えて車のドアを開けた。

「ちょっと、尚也、どこ行くの」

「母さん、ここで待ってて、直ぐ戻るから」

尚也は不自由な足で雑木林を抜けて砂浜に出た。

海から吹いてくる風は緩やかだが刺さるような冷たさを帯びている。

波は白く泡立ち、砂を引っかくように寄せては返した。

紅に染まる水平線には白く切り抜いたように太陽が浮かんでいた。

湿った砂浜に亜季が膝を抱えて座っていた。

尚也はわざと大きな声を出してその隣に座った。

「よいしょっと」

亜季は微動だにせず波打ち際で翻弄されている木の枝を見詰めている。

尚也は手についた砂を払い、松葉杖を傍らに揃えた。

「どうしたんだよ、こんな所で。風邪ひくぜ」

亜季は何も言わず身体を固くした。

「そう言えば、この間さこの浜にまた水死体が上がったんだってさ。あれ、多分

お前を溺れさせた奴だと思うんだよね。小春に言ったらまたあいつびびるんだろうなぁ」

波の音が言葉を掻き消し、尚也はやり場もなく口を閉ざした。

「私のせいで、ごめんね」

漸く亜季が口を開いた。

「別にお前のせいじゃないよ」

亜季は大きく首を振りながら膝の間に顔を埋めた。

「私、知ってたの。ユキちゃんのこと。柴田君が探している人だってことも、病気でもう直ぐ・・・死んでしまうんだってことも・・・柴田君が気づくずっと前から、知ってた」

太陽は目に見える速度で何かに引っ張られるように沈んで行く。

少し強まった風が亜季の髪を緩やかに揺らした。

「私、言えなかった。柴田君とユキちゃんがどれだけ強くお互いを思っていたのか、分ってたのに、言えなかった・・・」

「そんなの、もういいよ」

「よくない!」

「でも、亜季のお蔭でユキと話が出来た」

「あれは、ただ、私が、柴田君にいいところを見せたかっただけよ」

二人は暫く無言のまま打ち寄せた木の枝を見ていた。

「言えなかった、言うのが怖かった。もし、私がユキちゃんのことを柴田君に伝えたら、柴田君の心がユキちゃんでいっぱいになって、私のことなんかどうでもよくなって・・・

そうなるのが怖かった」

尚也は亜季の横顔を見詰めていた。わずかに差し込む陽の光が頬を照らす。

瞳は曇り、無機質な表情のまま喋り続けた。

「中学校の時の私は、いつも誰かに合わせて自分をごまかしてばかりいたの。そうしないと友達ができないって思ってたから。でもそれが嫌でしかなかった。だから清明に入って新しい自分に生まれ変わるんだって誓った・・けど、それも小春のおかげ。小春がいなかったら柴田君に近づけなかったもの。なのに、私、小春が学校に来られなくなって、心のどこかでそれを喜んでたんだ・・・私って、嫌な女でしょ?」

僅かに顔を傾けて尚也を見た亜季は更に続けた。

「自分だけ良かったらいいの。私以外の人達全員が不幸でも私が幸せだったらそれでいいのよ。私の中でそういい続けるもう一人の私が本当の私なの。でも・・・みんなを元気にしてくれる小春も、一途で純粋で優しいユキちゃんも大好き。そんな人に成りたいのに私は自分勝手で、自分のことしか考えられなくて、どんどん汚れて、黒くなってしまう。そんなの嫌なんだよ。だって・・・柴田君に嫌われたくないんだもの。こんな汚れた私を見られたくなかったんだもの」

亜季はもう一度膝の間に顔を埋めて苦しそうにそう言った。

尚也も胸が苦しくなって手を伸ばし、亜季の肩に触れた。その途端、亜季はおののいて飛び跳ねるように尚也から離れた。

「お葬式でユキちゃんの写真を見たら、私、苦しくなって逃げたの。私がユキちゃんみたいな人間だったら、もっと柴田君とお話できて、後悔しないで逝けたんだ。ユキちゃん、柴田君とちゃんとお別れしたかったのに・・・」

尚也は松葉杖を置いたまま立ち上がって亜季に近づこうとしたが脚に激痛が走り、膝を突いてその場に蹲った。

「柴田君!」

走り寄って来た亜季の腕を尚也が掴んだ。

亜季はそれを振り払おうとするが尚也は離さず、腕を手繰り寄せて迷わず亜季を抱きしめた。亜季は小刻みに震え、動けなくなった。

「ユキ、ちゃんと言ってくれたよ。さよならって」

尚也は亜季の耳元で優しく呟いた。

「病院で、俺、夢を見たんだ。ユキに会ったよ。ユキとまた話ができたんだ」

尚也はそのときの事を話した。

「俺はユキと向こう側に行きたかったけど、ユキがだめだって。ユキが言うんだ。俺の大切な人を思い出せって」

亜季は光の中に消えて行った優妃子を思い出してた。

「亜季のことを思い出したら、俺、帰りたくなった。亜紀に会いたくなってどうしようもなくなった。目が覚めてからもずっと・・・」

亜季の胸の鼓動が高鳴った。

「誰の心の中にももう一人の自分が居ると思う。だけどさ、みんなもう一人の自分と上手く折り合いをつけて生きているんだよ。お前だって知ってるだろ?あんなに陽気な小春だって辛くて苦しい自分を抱えているんだ。お前が純粋だって思っているユキだって」

両親が不幸な死に方をせず、病気もしなかったらもしかすると尚也の事など忘れて違う学校に行っていたかも知れない。

「夢の中でユキが俺に言ったんだ。亜季が苦しんでいるから助けてくれって。大切な友達だからって。だけどどうしたらお前を助けることが出来るのか、俺、分らないよ」

尚也から温かな体温を亜季は感じていた。胸の中で固まっていたものが溶け始め、揺らめいているのが分った。

「俺は、亜季が今、生きていてくれるだけで嬉しいんだ。お前が新しい自分になろうが、自分が嫌いな自分になろうが、俺にはどうでもいいことさ。こうして、亜季がそばにいてくれたら、俺、それでいいんだ」

波の音が断続的に浜辺に押し寄せる。亜季の中で溶けた澱が清流で洗われ、それが大粒の涙となってこぼれてきた。胸が痛い。暴れだそうとする感情を必死で押さえつけようとして尚也の背中を強く握りしめた。

「さあ、帰ろう。小春も、良介も、みんな亜季を心配していから・・・」

亜季は尚也の胸に顔を埋めて嗚咽した。子供のように声を上げて泣いた。

今は優妃子の顔も小春の顔も思い浮かぶ隙間は無い。

ただ、安心して泣くことが出来るその場所にずっと浸っていたいと思った。

尚也は冷えた亜季の身体を抱きしめ、流れる涙の意味を全て受け入れようとしていた。

水平線には紅い太陽の残骸が帯地状に広がっていた。

天空は闇に侵食され、景色は薄墨に沈み、波は黒く打ち返す。

しかしその闇の中には、美しく輝く数え切れない星が瞬いていた。


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