#52 新月(1)
目が覚めた尚也は一週間ほどで一般病棟に移った。
六人所帯の病室には尚也と同じく何らかの怪我で入院いている人達がいた。
尚也のもとには引切り無しに見舞客が訪れる。
同じクラスの友人、水泳部の仲間と奈津美。
良介はほとんど暇つぶしに来ているようで、病室に入るや否や勝手に冷蔵庫を開けて中の物を食べたり飲んだりした後知らないうちに居なくなる。
里美は一日に一回は尚也の顔を見に来た。尚也の母親と同じ学校の出身だった事が分かると急に親しくなり昔話に花を咲かせていた。
同じく小春も毎日やって来た。
尚也の世話をかいがいしく行うその姿に同じ病室の患者達は冷やかしの声を上げた。
「羨ましいなぁ、可愛い彼女がいてさ」
その言葉に気を良くしたのか隣や向かいの患者達の世話を焼き始め、今では尚也と話をしている時間より同じ病室の患者達と話をしている方が長い。
「一体何しに来てんだよ」
とぼやいてはみたものの、小春が居ることで随分気が晴れた。
ある日の事、何時もは午後二時には現れる小春が何時まで経っても姿を見せなかった。
「今日どうしたのかな、小春ちゃん来ないね」
隣の患者の四十過ぎのオジサンが尚也に言いうと、
「そうだね、一日一回、小春ちゃんの顔を見ないと落ち着かないよ」
と、冗談なのか本気なのか分からないが他の患者も心待ちにしていたときやっと小春が現れた。
「珍しいな、何時もは手ぶらなのに。どうしたんだよそれ」
小春は山ほどのお菓子を抱えていた。
「これ?私のよ。貰ったの」
「貰った?」
「そう。隣の佐藤さんに」
どうやら隣の病室にまで勢力を伸ばしたらしい。
そんな小春も帰りに必ず寄る優妃子の病室では神妙な顔になった。
優妃子の傍で今日あった事や尚也の事などを語りかける。
優妃子の身体には生命を維持させる為の機械が繋がっており、辛うじて心臓が動いていた。
「いつもありがとうね」
里美が小春に話しかけた。
「いえ、いいんです。私、暇ですから」
直接優妃子とは話をした事はない。しかしあの水晶のように澄んだ瞳を見たとき小春は絶対分友達になれると信じていた。
出来ればもう一度目を覚まして欲しい。心からそう思った。
「ごめんね、寺嶋さん。優妃子、もう休ませてあげようと思うの」
里見は優妃子の身体から機械を外す事を小春に告げた。
その夜期日。里美と夫。車椅子の尚也と小春の見守る中、鼓動の山を描いていた緑色のラインは平坦な揺らぎのない機械音と共に水平になった。
自分の病室に戻った尚也は虚ろな眼差しで天井を見上げた。
小春は目を赤くして尚也に話しかけた。
「あれで良かったのかな。もしかしたら何年か先にさ、医療技術が進んで・・・目を覚めさせることが出来るかも知れないのに」
「そうだね。でも、無理に生かされても、ユキ、喜ぶかどうか・・・」
「あんまり悲しそうじゃないのね」
「そうか?」
尚也は夢の中で優妃子に別れを告げる事が出来たから今は悲しいとか辛いとかより本当にお疲れ様と言いたい心境であった。
それより尚也の胸の中ではいつまでもわだかまっていた懸案事項があった。
「亜季、どうしてる?」
「なんだかあんまり元気がないんだけど・・・。もしかしてまだお見舞に来てないの?」
事故に遭ったあの日から一ヶ月はとうに過ぎているのに亜季は一度も尚也のもとに来ていない。
「そうなんだ。私、ちゃんと誘ってるんだよ。お見舞に行こうって。だけど、いつもまた今度って・・・」
小春は尚也の顔を見た。それは装置を外される優妃子に向けられた目より更に悲しげで、ただ一点を深く見詰めていた。
「亜季に・・・、会いたい?」
小春は恐る恐るそう問うと、尚也はいままで見せたことの無い真剣な眼差しで
「ああ、会いたい」と答えた。
小春の胸に何かが突き刺さった。
いつもであれば「そんな事ねぇよ」などとおどけるはずなのに淀みのない真っ直ぐな尚也の言葉に只管狼狽えた。
小春は堪らなくなって椅子から立ち上がった。
「何処か行くのか?」
「うん。ちょっと」
「ちょっとって、何処にさ」
「なによ。トイレ行くのにいちいち断らなきゃいけないの?」
「ああ、そうか。あのさ、小春」
「だから何よ」
「ありがとな・・・」
突然の言葉に小春は戸惑う。
「え?」
「ああ、ユキがさ、ああ、なんと言うか、その・・・」
小春は尚也の理由に背を向けて足早に病室から出てトイレの個室に入った。
大きな溜息をついて壁にも垂れかかりつい先程の尚也の表情を思い浮かべた。
(ああ、会いたい)
ずっと前から気づいていた。
夜の公園で尚也に抱きついたあのとき、肩に回わされた尚也の腕は確かに迷っていた。
そして、時折見せる亜季にだけ向けられる優しい瞳。
小春は自分で自分を抱きしめ、さめざめと泣いた。