#51 邂逅
尚也は深い霧の中を歩いていた。
この道の行く先に何があるのか分からないが兎に角行かなければならないという気持ちが湧いてくる。
時々尚也を追い抜いて行く人がいる。
声を掛けようとするが切欠が掴めず、その人は俯いて黙々と過ぎ去って行った。
一体何時から歩いているのか。一時間、一日、一ヶ月、それとももう何年も。
ここが何処なのか、それより自分が誰なのかも分からない。
早く行かなければならない、けれどそんな気持ちとは裏腹に戻りたいという衝動も込み上げてくる。戻る?何処へ?それすらも分からない。
はっきりとしない意識のまま只管歩いた。
どれほど時間が経ったことだろう。
懐かしい香りが漂っていることに気がついた。
立ち止まって辺りを見回して香りのする方向に道を外れた。
するとたちどころに霧が晴れ、目の前に砂浜が現れた。その先には真青な海が広がり、波が静かに打ち寄せている。
尚也が波打ち際を何の感慨も無く歩いていると屈んで砂を掘っている少女に気付いた。
辺りを見回しても少女の他は誰も居ない。
「一人?お父さんとお母さんは?」
尚也が声を掛けると少女は振り仰ぎ、頬を膨らませた。
「もう、ナオ君おそいよ!」
「あ、ごめん・・・」
尚也は心の中で呟く。
(ナオ君・・・?俺が?)
「今日は何してあそぶ?」
少女は直ぐに機嫌が直り満面の笑みを浮かべた。
(あ、俺は・・・)
一瞬で心を奪われてしまうその笑顔を見たとき尚也は我に帰った。
「ユキ・・・」
「思い出した?」
高校生の優妃子がそこにいた。後ろに手を組み、はにかみながら尚也の正面に立った。
「ユキも向こうに行くのか」
今まで歩いていた道が海岸沿いに伸びている。
「うん、そうよ・・・」
「だったら一緒に行こう。ユキがいたら何も怖くも無いし、淋しくもない」
優妃子は俯いて悲しげに呟く。
「だめよ。向こうに行くのは私だけ。ナオ君はあっちに戻らなきゃ」
「何故だよ。折角会えたのに。また離れ離れになるのは嫌だ」
海から吹く風に優妃子の髪が舞った。組んでいた両手を前に置き、肩を窄めた。
「私だって、ナオ君の傍にいたいよ」
「じゃぁ、いいだろ?向こうに行けないのならあっちへ戻ろう」
「あっちにも行けない」
「なんで」
「だって、私が存在できる身体はもう自由にならないもの」
尚也は思わず叫びそうになった。やせ細り哀れな優妃子の姿を思い出したのだ。
「だったら向こうに行こう。ユキを一人にはさせない」
尚也が手を取って歩き出そうとしたが優妃子は動こうとしない。
「どうしたんだよ。ユキ」
「ナオ君はあっちに戻るの」
「嫌だ」
「戻らなきゃだめなの!」
優妃子は尚也の手を振り切って声を張り上げた。
「ナオ君が居なくなったら悲しむ人がいるでしょ?」
「俺が、居なくなる?どこから居なくなるって言うんだよ。俺はここに居るじゃないか」
優妃子はもう一度尚也の手を両手で握り、哀願するように言った。
「思い出してナオ君。あなたの大切な人を」
「何だよ、大切な人って、俺には・・・」
そのとき尚也の脳裏には累々と人の顔が映し出された。
両親の顔、美緒、水泳部の皆、奈津美、良介、小春。
そして、もう一人。
いつも後ろにいて、たまに振り向くと無垢な笑顔をくれる人。
その瞳を見ると嘘がつけずなんでも正直に話したくなる人。
話をしなくても傍にいてくれるだけで心が安らぐ人。
あの時、事故に遭ったとき、尚也は俯瞰でその光景を眺めていた。
自分の脚に縋り付いて泣き叫ぶ彼女の姿を。
救急車の中で尚也の手を握って必死に語りかけるその姿。
(死んじゃだめ、死んじゃだめ、尚也君、私の傍から居なくならないで・・・)
尚也の胸は波を打ち、苦しくなった。
「亜季・・・」
「私の大切なお友達。ナオ君、助けてあげて。彼女、とても苦しんでるの」
「苦しんでる?」
「うん。なんて言うんだろう。アキちゃんて潔癖症なのかな。真っ白い紙に少しでも染みがあると許せない性質なのよ。いつも真っ白なままでいたいって思ってる。特にナオ君の前ではね」
亜季の事を思い出した尚也の胸の中は、帰りたい、会いたいという想いで一杯になった。
その気持ちを察した優妃子は握っていた手の力を緩めた。
尚也がその場から動きだそうとしたとき、優妃子はもう一度握る手に力を込めた。
「ナオ君、小春さんにもお礼言ってちょうだい。彼女が私を引き止めてくれたから今こうしてお話が出来るんだもの。それから・・・」
優妃子は一瞬言葉を失い、心を落ち着かせたあと尚也の目をしっかりと見て口を開いた。
「あの時、黙っていなくなってごめんなさい」
「もういいよ、謝らなくて」
「あれから私、辛いことばかりで、苦しくて悲しくて。でもナオ君に会えたから生きてこれたの」
優妃子の瞳は潤み、声が震えた。
「私、ナオ君に出会えて幸せでした」
そして透き通った頬を涙が伝い、万感の思いを最後の言葉に込めて言った。
「さようなら、ナオ君」
尚也もその言葉の意味を深く心に刻み込んで別れを告げた。
「さようなら、ユキ」
その瞬間、何かに吸い込まれるような感覚に襲われて目の前が暗くなった。
ふと目が覚めた。暗い天井が揺らめいている。
「ユキ・・・」
そう呟いて身体を動かそうとしたとき激痛が脳天を突き抜いた。
「ああ、俺、生きているのか・・・」
尚也はベッドの上で身動きが取れないまま亜季の事を思った。