#5 夏(5)
港の近くにある漁師の一家があった。
父は木村晃平。妻は芳江。一人息子の純一と晃平の母の4人暮らしであった。
ある日、中学生だった純一は父の後を継いで漁師になると言い出した。
両親は収入が不安定な漁師ではなく大学を出て普通に会社勤めをして欲しいと願っていた。
しかし純一はその願いを聞き入れようとはせず、中学を卒業したら船に乗せて欲しいと父に頼み込んだ。家計の苦しさを気遣っているのだと分かってはいたがせめて高校だけは行ってくれないかと母は説得した。しかし純一の決心は固たかった。父親としては息子の気持ちはこの上なく嬉しかったが船の借金と燃料代を差し引けば上がりは僅かであるし、息子に同じ苦悩を抱えて欲しくは無いと思う気持ちも一方ではあった。
先に折れたのは父親。母は泣く泣く夫の言葉に従った。
まだ桜が咲いている頃、卒業の余韻を楽しむ間もなく純一の初出航の日が来た。
波は少し高かったが天気は穏やかであった。
意気揚々と船に乗り込む息子の姿はまだ幼さが滲み出てはいたが父の役に立ちたいというその気持ちは痛いほど伝わってきた。
黒い煙を吐いて船は港を離れてゆく。
芳江は波を掻き分けてゆくその姿を祈るような気持ちで見送った。
「どうか無事に終えますように」
二人の乗った船の他に数隻漁に出て行った。
春の天気は変わりやすい。
穏やかだった空は見る見る雲に覆われ風が出てきた。
市場の仕事を手伝っている芳江は何か胸騒ぎがして落ち着かなかった。
一陣の風が甲高い音を鳴らして番屋の間を吹き抜けていった。緊急のサイレンが鳴る。
見る見る人が集まり怒号が港を駆け巡った。
残りの船が一斉に港を離れてゆく。
芳江の胸は苦しくなり、目の前の景色が歪んで見えた。
「あなた・・・、純一・・・」
三角波に襲われた数隻の船が転覆した。
漁に出た船の殆どの人が救助されたがその中に夫と息子だけがいなかった。
海上保安庁の船も駆けつけ捜索にあたったが夜になっても見つからない。
芳江は一旦家に帰ろうと誘う義母の言葉も振り切り只管港で愛する二人の帰りを待った。
遭難から一週間が立ち捜索は打ち切られた。
芳江はそれから何も手につかず家と神社と港の往復だけで一日を過ごした。
朝五時に家を出て神社に向かい願をかけて港に行った。日が暮れるまで海を見詰めた。義母迎えに来るまでずっと芳恵は岸壁に立った。
何日も、何日も・・・・
やがて髪には白髪が混じり潮風で傷んだ。肌も艶がなくなり、頬はこけ目は落ち込み別人の様相を呈した。
何日も、何日も・・・・
誰かに声を掛けられても反応は薄く、ブツブツと何かを言っている。
「あなた・・・純一・・・帰ってくる、帰って・・・」
とうとう気がおかしくなったかと噂になったが誰も彼女を遠ざける者はなくむしろ同情の眼差しを贈られていた。
「す、すみません、あのぅ・・・」
思い余って小春が話を遮った。
「あら、どうしたの?」
「どうしたのというか、これ、ロマンチックな話ですよね」
「そうよ」
「なんだか段々鬱になっていくんですけど・・・」
「話はこれからだから・・・・」