#41 奇跡(1)
秋季大会を明後日に控え、身体を休めるために練習は軽く終えた。
その後申し合わせていた通りに尚也と奈津美は病院に向かった。
「あら今日は早いのね」
顔見知りになった看護師の言葉に尚也は照れ笑いを浮かべた。
辿り着いた病室に奈津美は少ばかり戸惑った。
点滴を受けてベッドに寝ている優妃子の姿は見間違う程に衰えている。
僅かに動く口元と瞼でしか意思を表すことができず表情が全くない。
「あずみさん。気分はどう?」
漸く発した言葉に優妃子の瞼は僅かに動いた。
「安住さんのお陰でなんとか秋季大会で良い結果が残せそう。期待の新人もいるしね」
優妃子は微かに目を細める。
「柴田君、また自己ベスト更新したのよ」
優妃子の表情は変わらない。奈津美は振り向いて尚也に聞いた。
「教えてあげた?」
「いやぁ、自慢できるほどじゃないし」
奈津美は向き直して優しく優妃子の手を握った。
「200で2分、100で1分20秒切ったのよ。飛び込めない事を差し引けば、凄いでしょ?」
もう一度振り向き「もしかしたら表彰台、狙えるかも」と言いうと尚也はそっぽを向いた。
その後暫くして尚也と奈津美は廊下に出た。
奈津美はそっと目尻をハンカチで拭い静かに言い始めた。
「春の総体が終わって、私が部を任されたとき、正直どうして良いか分からなかった。三年生が抜けて三人だけになってしまって・・・」
そのとき優妃子がやって来た。マネージャーと言えば聞こえは良いが殆ど雑用ばかりで自分から進んで志願するものなど普通は居ない。
「野球部とかサッカー部とかならまだ分かるけどね、女だけしか居ない水泳部にまさかと思ったわ。でも断る理由も無いし」
そこで奈津美はくすりと笑った。
「今思えばあなたに逢いたかったから入部したのね。でも、ほんと一生懸命水泳部の為に尽くしてくれたわ」
特別用事が無いときは誰よりも早くプールにやって来て、誰よりも遅く帰って行った。
そして部員の勧誘も懸命に行い一年生の二人も優妃子が探してきたものだった。
そんな優妃子の姿に部員誰もが励まされ、奈津美自身ももう一度栄光を取り戻そうと誓った。
「せめて今度の大会だけは見せてあげたかったけど、やっぱり無理かしら」
尚也も同じ気持ちであったが現実的に難しい事は分かっていた。
「安住さんの分まで頑張らないと。ね、柴田君」
「そうですね」
「私そろそろ帰るけど、柴田君は?」
「俺、もう少し居ます」
「そう。じゃぁ明日またね」
奈津美はそういい残して病室を後にした。
尚也は病室に戻ったが何も話す事がなく優妃子の傍にいると里美が入って来た。
「あら、部長さんも今日来るって言ってなかった?」
「ついさっき帰りました」
「そう」
里美はジュースを尚也に渡し、もう一つを冷蔵庫にしまった。
「ナオ君、まだ居れる?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「着替え取って来たいのだけど。いい?一時間くらいで戻るから」
また二人きりになった部屋で尚也は時間を持て余した。
ふと傍らに置いてある遠泳大会の優勝トロフィーに目をやった。
それは美緒に頼んで送って貰ったものだった。
あの時、どこかでユキが見ているかもしれないという気持ちで必死に泳いだ。
心のなかで居るはずがないという気持ちを必死で掻き消し、ゴールにはユキが居ると信じた。美緒と数人の友人が祝福する中で貰ったトロフィー。
(これプラスティックでできてるんだ)
と思った途端そのトロフィーがとても軽く感じた。
尚也は立ち上がって半分閉まっていていたカーテンを全部開けた。
外は茜色に染まり物悲しげな日差しが病室に忍び寄った。
そのときドアをノックする音がした。
里美がもう帰ってきたのかと不信に思いドアを開けるとそこには亜季が俯いて立っていた。
「どうしたんだよ、亜季・・・」
「うん。優妃子さんとお話がしたくて」
尚也は訝りながら亜季を招き入れた。