#27 深淵(3)
翌日、亜季は学校を休んだ。
担任の田口は風邪だと言っていたが尚也は戸惑いと妙な責任を感じていた。
休み時間、尚也は携帯電話をじっと見詰め迷っていた。
「おい、尚也!」
良介が突然携帯電話を取り上げて着信をチェックし始めた。
「なにすんだ!返せ!」
「なになに・・・おふくろ、おふくろ、おふくろ・・・お!美緒ちゃん!おふくろ・・なんだこりゃ、つまんねぇ」
良介は携帯を放り投げた。
「つまらなくて悪かったな」
「ほんと、なんか面白いことないかよ」
「知るか」
小春が来なくなってからこのクラスも随分静かになった。
良介の道化も小春の突込みがないと面白くないということが発覚し、クラスの誰もが小春の帰りを待っている。
尚也は教室を出て廊下の隅で亜季に電話を掛けた。
「亜季、風邪だって?」
何か重いものを抱えているような低く小さな声で亜季は答えた。
「うん、でも大丈夫・・・」
「そうか、あのさ、昨日・・・」
「柴田君、心配かけてごめんね。明日は出れると思うから・・・それじゃ」
尚也の言葉を遮るように亜季は一方的に電話を切った。
放課後、更衣室で着替えが終わった尚也は重い足取りでプールに向かった。
その途中、窓から優妃子の姿が見えた。
室内プールに向かう渡り廊下の出入り口から尚也は声を掛けた。
優妃子は洗濯機の横に座って本を読んでいる。
「石田さんと約束したからさ、大会までは辞めないよ」
優妃子は本から目を離さず何も言わない。
「それまで俺の事気に入らなくても我慢してくれ」
「・・・・・」
何かを言ったようだが声が小さく聞き取ることができなかった。
それから尚也は何時も通りの練習メニューをこなしていた。
十分の休憩に入ろうとプールから上がったとき、騒然と部員全員が廊廊下へ走って行った。
尚也も後を追いかける。
「安住さん!大丈夫!?」
洗濯したタオルが芝生の上に散乱していた。
「早く救急車呼んで!早く!」
奈津美が叫ぶ。他の部員はただおろおろするばかりでなす術がない。
風が吹いてタオルが宙を舞った。
尚也は横たわっている優妃子に視線を戻した。
優妃子の身体はタオルと一緒に飛んで行ってしまうのではないかと思う程痩せ衰えていた。
やがてけたたましい音を残して救急車が優妃子を運んで行った。
奈津美が尚也に言う。
「柴田君、安住さんの所に行ってあげて」
尚也は奈津美の言う通り病院の前までやって来た。
玄関の前で昨日の優妃子とのやり取りを思い出して躊躇していたとき一台の救急車が滑りこんで来た。医者と看護師が走りよる。
尚也は漸く探しあてた言い訳を胸に収めて寮へと戻って行った。
その日の夜。亜季は自室で電気も付けずに服を着たままベッドに仰向けになっていた。
暗い天井を見詰めながら優妃子と尚也から受け取ったイメージが蘇る。
「どうして、もう・・・」
軽い嘔吐を覚え、身を捩って両手で顔を覆う。
優妃子の尚也に対する純粋な思い。けれども尚也の大切な時間を奪いたくないという一身で自分の本当の思いを伝えず只管我慢してきた。命が消えかかろうとしているのに。
「それに比べて、私はなんて嫌な女なんだろう」
そして、尚也に抱きつく小春のイメージ。
(ぬけがけはなしよ)
あの時の小春の言葉。亜季は顔を枕に押し付け腹の底から湧き出る呻きを吐き出した。
けれど、亜季には小春を責める資格はない。
小春が学校に来なくなり尚也と二人だけの時間を過ごしたときどんなに楽しく彼女の思いなど微塵も考え無かった。寧ろ彼女が居ない事に感謝さえしていた。
「ほんと、嫌な女・・・」
もう尚也に対して自然に振舞えない。尚也に近づきたくても近づけない。
真っ黒な自分を見せたくない。そう思うと涙が溢れどうしようも無く、深い谷間に沈んで行った。
亜季はふと目が覚めた。時計を見ると夜中の一時を過ぎていた。
思い頭を抱えるように起き上がり、翌日の教材を机から取り出して鞄に入れたが学校に行くかどうか迷いながら椅子に座って深いため息をついた。
そのとき、背後に何かの気配を感じた。
亜季はさほど驚きもせず後ろを振り向く。
「安住、さん・・?」
優妃子は淡い瑠璃色の色彩を放ち、静かに佇んでいた。
「どうしたの?」
優妃子の頬を雫がつたう。
「柴田君に会いたいの?」
(ごめんなさい・・・)
「謝るのは私。私こそ・・・」
優妃子は頭を振って亜季の言葉を制した。
(藤村さんの気持ちは分かってる。でも、あなたしか頼めないし・・・、ほんとうにごめんなさい)
そういい残して優妃子は静かに霧のように消えた。
亜季の胸は痛みを感じるほど絞めつけられ、涙は顎先から零れた。