#25 深淵(1)
午後の授業が始まった。良介は後ろで鼾をかいて寝ている。
尚也は朝から妙なうずめきを胸に感じていた。
夢だったのかもしれない、そう思っても柔らかな唇の感触と吐息の熱さは生々しく記憶に残っていた。
亜季の方を見た。今日の授業中何回目をやったのだろう。
休み時間に亜季と会話をしていても昼飯を一緒に食べていてもなんだか気まずくて落ちつかなかった。
全ての授業が終わり、亜季が尚也に話しかけてきた。
「ねぇ、練習、見に行ってもいい?」
尚也は素っ気無く答える。
「駄目だって言ってもどうせ来るんだろ」
亜季の笑顔は何時もにも増して明るかった。
何時ものメニューをこなしているだけの練習に尚也は倦怠感を感じ、途中でプールから上がった。
「おい、どうした」
「いえ、ちょっと・・・」
コーチの心配をよそに椅子に腰をかけ大きくため息をついた。
「どうしたんだろうね、彼」
奈津美の言葉に優妃子は怪訝な面持ちで尚也を見詰めた。
「寺島さんの事はもう済んだって言ってたけど、何かあったのかしらね」
優妃子は尚也の元に行き、タオルを差し出した。
「真面目に練習して下さい。大会が近いし、みんな頑張っているときに不謹慎です、その態度」
「ああ、悪かったな」
尚也は一瞥し、タオルを床に投げ捨てた。その光景を亜季は観覧席から見詰めていた。
練習を終えた尚也は更衣室で着替えをしていると誰かがドアをノックする。
「入っていいよ、着替えすんだから」
ドアを開けたのは優妃子だった。
尚也は厳しい顔で迎えた。
「なんか用?」
か細い手を胸の前で組み、俯きながら漸く言葉を出した。
「嫌なら辞めて下さい。部活、辞めて下さい」
尚也は黙って優妃子を見詰めた。
「今水泳部に残っている人たちは、本当に競泳が好きな人たちばかりなんです。いくら仮入部だからって、みんなの邪魔、しないで欲しいんです」
「邪魔?俺が?」
「はい。あんなやる気のない態度・・・やっぱり、いけないと思う。昨日だって、その前だって、練習さぼって・・・」
「お前、何様なんだよ」
尚也は音を立ててパイプ椅子に腰を下ろした。
「俺の事気に入らないのなら仕方ないよな。ああ、いいよ。お前の言う通り辞めてもさ」
優妃子はその言葉に戸惑い、唇を噛んだ。
そして尚也は独り言を言うように喋り始めた。
「俺がまだガキだったとき、大事な友達がいたんだ。何時も一緒に遊んでさ。凄い、楽しかった。だけどある日突然居なくなってさ。その子どうしてるかなって、何時も考えていたんだ」
尚也は優妃子の様子を伺いながら更に続けた。
「その子、女の子でさ。ユキって言うんだ」
優妃子は頭をあげ、尚也を見た。
「同じユキでも全然違うよな。やっぱり、違うのかな・・・」
亜季は何時ものように正面玄関で待っていた。
「なおやくん、なおやくん・・・」
どのタイミングで苗字ではなく名前で呼ぼうかと思うが「なおやくん」と言う度に何だかくすぐったい気持ちになる。
亜季はどんどん暗くなって行く景色に淋しさを覚え、尚也を迎えに行こうと思い立った。
廊下には窓から斜めにオレンジ色の光が差し込んでいる。
暫く行くと暗くなった廊下の壁に誰かがもたれ掛かっていた。
「安住、さん・・・?」
優妃子は両手で顔を覆って肩を震わせていた。
「どうしたの?」
亜季に気づいた優妃子はさっと背中を向け急いで去ろうとしたが体中の力が抜けたように崩れ落ち両手を床についた。
「大丈夫?」
亜季が優妃子の肩に触れたそのとき、体内に何かが流れ込んできた。
少年、少女、海、青空、流れる雲。
高鳴る思い、切ない思い、大事な約束、伝えたいもの、叫びたいほどの思い。
そして、知られたくは無い、絶望と哀しみ。
「やっぱり、安住さん、そうだったのね」
優妃子の涙は床に零れ落ち、必死で声を殺していた。
「ねぇ、何故伝えないの?病気のせい?」
優妃子は壁に手を着きながら立ち上がり背を向けたまま歩き出した。
「ナオ君には、黙ってて・・・お願い」
「そんな、待って、安住さん」
亜季は引きとめも聞かず優妃子は廊下の角を曲がって姿を消した。
「亜季、何してるんだ?こんなところで」
尚也が後ろから声を掛けた。
「え?ええっと・・・」
亜季の中でもう一人の自分が怪しげに笑う。
「何でもない。迎えにきてあげたのよ」
「そう。じゃぁ、帰るか」
「うん」
尚也と亜季は校門を出て夕闇の中を並んで歩いて行った。