#16 亜季(3)
小春と初めて話しをしたのは入学式から数えて三日過ぎたとき。
私は新しい自分になるって決めていたのに休み時間もずっと席に座って回のクラスメイトの話に相槌を打っているだけだった。
もっと皆と仲良くしたい。そう思っているのに怖くて私から誰かに話しかけることができないでいた。そんな私を強引に引き上げてくれたのが小春だった。
突然私の前の席に座って矢継ぎ早にと話しかけてくる。
話し方は少し乱暴だったけど不思議と丸い言葉が私の中へ入ってくる。
全然嫌じゃない。クラスに溶け込めない私を心配してくれているんだって分かる。
私は涙が出そうになるくらい嬉しかった。とても可愛くて、とても優しい人。
小春といると私は新しい自分でいられた。そして小春のおかげで私がだんだんクラスに溶け込んいくのが分かった。
そして一ヶ月くらい経ったころ、小春が私にこう言った。
「あのさ、あいつ、どう思う?」
窓際の席に座っている彼、柴田尚也。
それまで私は正直男子のことなんて目に入らなかった。
興味が無いと言うことじゃなくて女子と仲良くするのが精一杯で男子を見る余裕がなかったんだ。
彼はずっと席に座っていて休み時間はだいたい寝ていた。
それでも誰かが話しかけると普通に話をしていたし、後ろ席の保村君が小学生みたいな悪戯をしても少し怒るだけで仲良くしているみたい。
私みたいに怖がりで消極的じゃなくてあえて仲良くなりすぎないようにしているみたい。
ある時窓の外をじっと見ている彼を見たとき、なんだか不思議な思いに駆られた。
うつろな目、覇気がない表情。
何かを探してそれがどうしても見つからないときの苛立ちと、それを過ぎたときの脱力感。
一体何を探しているんだろう。そのとき私はそれが彼女であることが分からなかった。
それから数週間経ったある日、とても大きな事件が起きた。
保村君と彼が取っ組み合いの喧嘩をした。
椅子や机が大きな音を立てて倒れて、二人の狂気に誰も止めに入れなかった。
本気でお互いの顔を殴り、蹴り合い、私は怖くて小春の陰に隠れて彼ことを見ていた。
漸く田口先生が二人の間に割って入って、保村君と彼は職員室に連れて行かれた。
あまりに子供じみた保村君の悪戯に彼が怒ったらしいのだけれど、何故彼がそこまで苛立っていたのか今は少し分かるような気がする。
騒然となったクラスはその後の雰囲気を心配していた。
保村君はムードメーカーだし、その直ぐ目の前に喧嘩した相手がいるのだから当然険悪な空気になるに違いない。
でもその心配は杞憂だった。
一時間して廊下から大きな笑い声が聞こえてきた。
保村君がお腹を抱えて苦しそうに笑っている。
彼も連られて笑っている。あんなに素敵な彼の顔を見たのはそのときが始めて。
後で聞いたのだけど、無言で廊下を歩いていたときに彼が突然「ごめんなさい」って謝ったんだって。
それが悪戯を咎められた小学生みたいだったから保村君は笑うのを我慢できなかったみたい。
それから二人以前にも増して打ち解け合って、彼の笑顔も増えた。
私はそんな保村君と彼が羨ましかった。
もう何年も前からの親友のように遠慮なく何でも言い合うことが出来るということを。
多分この先、何年か後、何十年後でも町端で偶然出会ったとしても保村君と彼は一瞬のうちに高校生に戻って今と同じように笑っているに違いない。
親友ってそうだよね。私みたいに路地に隠れるような事はしない。
私と小春はどうなんだろう。
将来、保村君と彼みたいに薄い膜を通さないで何でも話すことができるのだろうか。
終礼のチャイムが鳴って鞄に教科書とノートを仕舞っていると小春がやってきて
「ごめん、ちょっと遅れるけど待っててくれる?」と言った。
私は小春と彼の練習を覗きに行く約束をしていたから図書室で少し時間を潰した後玄関で小春が来るのを待っていた。
桜の木の影が長く伸びた頃に小春は現れてさっきより大きな声で私に謝った。
「ほんっとうに、ごめん!」
なんだかお母さんに大事な話があるから直ぐ帰ってくるようにとメールがあったそう。
「何の話か良く分かんないけどさ、本当にごめんなさい」
そう言って急いで駆けていった。
校門を出ていったと思ったら急にユーターンして凄いスピードで戻ってきた。
小春は息を切らし大きく深呼吸した後私の両腕をしっかり掴んで今まで見たこともない真剣な眼をしてこう言った。
「ぬけがけはだめよ」
私は何の事だか分からなくて驚いた。
多分誰かが私の顔を見たら目が本当にまん丸だったろう。
「とぼけないでよ。あんたの気持ち分かってるし、亜季も私の気持ち分かってるでしょ?」
彼の、事・・・?
私は急に顔が熱くなった。
「なんていうかなぁ、亜季じゃないと多分こんな気持ちにはならなかったと思うよ」
小春は私の腕を放してはにかみながら更に続けた。
「どっちかが勝って、どっちかが負ける。当たり前よね、二人同時に付き合えないんだからさ。だけどね、私、もしね、私が負けたとしても、亜季だったら許せる。ううん、亜季だった応援できる。だから約束して、どっちが勝っても負けてもずっと友達。ね、いいでしょ?」
私の胸から暖かい泉が湧いて、その泉は直ぐ涙になって零れてきた。
「な、なによ、どうしたのよ亜季。もしかしてまた幽霊かなんか見えてる?」
私は思わず小春を抱きしめてしまった。
伝わって来る、真っ白なイメージ。そして優しい旋律が聞こえる。
本当・・・。本当の気持ち。
「もう嫌ねぇ。でもね、亜季。もしかしたらどっちも負ける可能性もあるんだからね。そのときはさどこかでやけ食いでもしよう」
私は息を飲んだ。どっちも負ける。
直ぐ浮かんだのはあのイメージ。彼女の顔。
小春はもう一度「ぬけがけはなしよ」と言い放って走って行った。
私は呆然としながら歩いた。
空は茜色。薄い雲が張り付いている。
そのとき私の中で誰かが囁いた。
(あのときの願いは嘘だったの?)
校門で私は立ち止まった。
(そんなんじゃまた、昔の自分)
昔の、自分?
(遠慮して、他人を立ててるつもりで、何も手に入らない。昔の自分)
違う、今は違う。
(じゃぁいいの?取られても)
私は何も考えれない。
(取られるとしたら誰がいいの?小春?それとも、安住優妃子?)
夜中、縁側で二人きり。私に見せたことの無い艶っぽい笑顔ではにかむ小春。
少女のユキちゃん。そして、わざと彼を避ける安住優妃子。
あの時、溺れた時、私の身体をきつく抱いてくれた彼。
お腹の辺りの感触が今でも残っている。
取られる?彼を?誰に?
嫌、二人とも・・・嫌。
私は振り返った。
心の中で小春に謝りながら彼が居るプールに行った。