#12 初秋(5)
小雪と亜季はプールの観覧席にいた。
数名の部員がコーチの指示に従って練習をしている。
「柴田君、水泳部に入るのかな」
小雪は頬杖を突きながら「まさか」と亜季の言葉を軽く流した。
「でもさ、本当に水泳部に入ったら学校辞めないかもね」
確かに何か熱中するものを見つけたら気が変わるかもしれない。しかし保村良介にそそのかされたのではあまり期待できない、小雪はそう思った。
「あ、来た。本当に来たよ、小雪」
亜季の指し示す方を見ると試合に望むセコンドとボクサーのようにタオルを頭から被った尚也を良介が先導していた。
先に訳を話していたのか、奈津美がコーチに話しかけるとコーチは部員全員をプールから上げた。
「準備はいい?とりあえず往復で50泳いでもらうわ」
奈津美の言葉に尚也は良いとも悪いともいわずとぼとぼとプールの縁まで歩いた。
「ねぇ、加藤さん、一緒に泳いでくれない?」
女子部員の一人を呼ぶと「はい」と大きな返事と共に駆け寄り、スタート台に立った。
尚也もタオルを捨てプールに浸かった後、躊躇いながらスタート台に登った。
「柴田君もいい?笛の合図でスタートよ」
二人は前傾姿勢になり合図を待った。
「いち、にぃ・・・」
突き抜けるような笛の音がこだますると加藤が綺麗な姿勢で水面に飛び込んだ。
スーッと浮き上がり滑るようなクロールで進んで行く。しかし10メートル程泳いだところで異変に気づいた。隣に誰もいない。止まって後ろを振り向くと尚也はまだスタート台で固まっていた。
周りにいる部員たちはきょとんとした表情で尚也を見ている。
「どうしたんだろ、柴田君」
「さぁ」
亜季も小春も何が起きたのか理解できなかった。
「おい、尚也、笛、聞こえたよな」
良介が近づいて話しかけた。
「・・・」
「な、なんだって?」
「だめだ・・・」
「何が、だめなんだ?」
「やっぱり・・・飛び込めねぇ・・・」
「へ?」
一瞬の沈黙の後、漸く事態を飲み込めた良介は勢いよく噴出し、やがてゲラゲラ笑い始めた。
「ひひひっ、こいつ怖くれ飛び込めないんだと!ははははっ」
尚也は顔を真っ赤にして良介を睨んだ。
「こ、この野郎・・・後でぶっ殺す」
小春と亜季は互いに顔を見合わせ遠慮がちに笑った。
「でも、あそこに立つと案外高くて足がすくんじゃうよね。私も飛び込めないよ。小春は?」
「私も。前に一度挑戦して、思いっきりお腹打ってさ、それ以来怖くて」
「そうだよね、しかたないよね」
と言いつつも、普段冷静で何事にも動じない尚也とのそのギャップが可笑しかった。
「柴田君、だったら無理しなくていいから。プールの中からでいいよ」
奈津美の助け舟に従い、まるで温泉に入るようにそっと水に入った。その光景がまたおかしくて良介はまた笑いだした。
「いい加減にしなさい、保村君」
「ひぃぃ、は、はい・・・」
良介は側にあったタオルを口押しこんで込み上げる笑いを必至で堪えた。
「部長、私はどうしたら・・・」
「加藤さんはいつも通りでいいわよ」
尚也は水の中、加藤はスター台に立ち、少しの静寂の後笛が鳴った。
尚也は思い切り壁を蹴ったが飛び込んだ相手にはやり及ばない。
すぐさま5メートル程の差がついた。
尚也の泳ぎは水飛沫が無駄に多くお世辞にも綺麗と言えない。素人目にも加藤との実力の差は明白だった。
しかし上半身の力強さとバタ足の速さには目を見張るものがあった。現に加藤との距離はどんどん縮まって行き、15メートルを過ぎた辺りでほぼ並んだ。
他の部員もコーチも予想外だったのか目を丸くして見ている。
「よ、さすが飛魚の尚也!」
良介が大声を上げた。小春も亜季も思わず前のめりになった。
20メートルを過ぎ頭一つ尚也がリードした。もう少しで折り返し。
加藤は距離を測り、鮮やかに水中で回転をすると壁を力強く蹴り上げる。
一方の尚也は潜る気配がない。壁が迫って来る。
小春と亜季が思わずあっと声を上げた瞬間、ゴンと鈍い音がし、尚也は頭を抱えて水中に沈んだ。
一同唖然とし、すぐさま爆笑が響いた。
良介はあまりの可笑しさに床を転げ周り、奈津美もこらえきれず吹き出した。
小春と亜季も例外なく観覧席で口を手で覆った。
尚也はうな垂れながらプールから上がり、濡れた身体のままとぼとぼと歩いて更衣室に向かった。
少し落ち着いた亜季は尚也の様子を見て直ぐ駆け寄ろうとしたが、尚也にタオルを掛けた見慣れない女性徒を認めると何故か神社での映像が過ぎり、はっと息を呑んだ。
その女性の目は哀しく、そして慈しみに満ちていた。
尚也は女生徒の存在に気づかずに横を通り過ぎる。
亜季は何故か言い知れぬ嫉妬に見舞われ、胸が苦しくなった。