夏の押入れ
母が死んだ部屋の押し入れの中を、私は彼女の死後、あまり片付けずに日々を過ごしてしまっていた。
ある日、私の幼い娘・すみれが、祖母の押入れに入りたいと駄々をこねはじめた。
暑い七月の、日曜日の昼下がりである。
曇り硝子から差し込む白い陽光は触れるだけで焼けるようで、私たちはそのひかりを避けながら家の中で活動する。
そのひかりをちいさな背に受けながら、すっくと立ってすみれは泣いている。
「ママ~……」
「だから駄目だって言ってるでしょ。押入れの中は熱がこもってて、あっついんだよ?」
ほら、と言って私は押し入れの引き戸を開ける。
軋む音と共に、むわりとこもった熱が、クーラーで冷やされた和室へとこぼれる。
すみれは濡れた頬を丸めたこぶしで拭うと、子猫のように腰をかがめて中をそっと覗き込む。
「まっくらだね。まっくらでなんにも見えないや」
「そうでしょ。だから入ってもたのしくないよー」
潜むようなすみれの声色が、なぜか私の背筋をつめたく伸ばす。
短い息をついて引き戸を締めようとすると、すみれが強い声で「待って」と言った。
「ねぇ、でも気になる。気になったままだと、ずっと気になっちゃうから、おべんきょうに集中するためにも、今ちょっとだけ入りたい」
手をついたまま顔だけあげて私をみつめる。
懇願するようなその黒く大きな瞳のきらめきに、私はとうとう根負けしてしまった。
「じゃあ、一瞬だけだよ?」
私は閉じかけた引き戸を、そっと開けた。
先ほどはあれほど軋んだのに、今度はなぜか、吸い込まれるように無音だった。違和感を覚えたが、特に気に留めることでもない。
「わー!」
すみれは中のくらやみを伺うように見渡すと、手足を進めてそっと中へ消えていった。
「ママ、ちょっと扉、閉めてみてー。お願い」
「えぇ、まっくらになっちゃうよ」
「いいのー。おひるなのに夜みたいでおもしろい」
娘のうれしそうな声に、少し困りながら私も嬉しくなり、引戸をぴたりと閉めてしまった。
「どう、すみれ! たのしい?」
すみれから返答がない。
五分ほど待ってみる。すみれも、中を色々探検して夢中になっているんだろう。
「すみれー」
十分が経った。すみれからの返答はない。
よからぬ事故を想像して、額に嫌な汗がにじむ。
何かの弾みに、中にあった物が落下して押しつぶされたのではないか——
「すみれ! いたずらしないの!」
私は爪を引手に引っ掛けて、勢いよく引き戸を開けた。
汗ばんだ顔で中を見る。
先ほどまでくらやみ一色だったそこには、日本人形や色とりどりの小箱等、生前母が好んでいた物が乱雑に隙無く置かれていた。
小箱の上に、日本人形の黒髪が糸のように広がっている。
天井は腐り、木がたわんでいて、ところどころ染みが出来ていた。
その景色に圧倒されて、しばらくぽかんとしていたが、肝心の人物がいないことに気付く。
「すみれ?」
すみずみまで押入れの中を見渡したが、すみれはどこにもいなかった。
一瞬、虚空をみつめる白い肌に朱の着物を着た日本人形が、すみれの変わり果てた姿なのではないかと錯覚し、心臓が跳ねた。
震える指先で触れたそれは、陶器のようにつめたく固く、こつんと虚ろに響くのみである。
「すみれ……、すみれ――!!」
徐々に不安が押し寄せる。
叫んだ私の声は、ふるびた木で出来た押入れに反響するだけである。
「ママ―!」
額に幼い女の子の声が当たり、はっと目を瞠る。
「すみれ」
「ママ―!」
「すみれ……? どこなの、どこにいるの。すみれ!」
聞き慣れた澄んだ声は、紛れもなくすみれの声だ。
だが、彼女の姿はどこにもない。まさかと思い、押入れの中へ身を乗り出し、天井を叩いたが、ただたわんでいるだけで、ここにひとの気配は無い。
「ママ―! ママ―……」
やがてか細く、すすり泣くような響きも混じって、すみれの声はちいさくなってゆく。
先ほどまでむわりと熱い息を吐き出していた押入れは、今や冷蔵庫の奥底のように、芯まで冷え切っていた。
私のこめかみを、いくつもつめたい汗が伝う。
私の娘は、夏の押入れの中で消えてしまった。




