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夏の押入れ

作者: 木谷日向子
掲載日:2026/07/26

 母が死んだ部屋の押し入れの中を、私は彼女の死後、あまり片付けずに日々を過ごしてしまっていた。


 ある日、私の幼い娘・すみれが、祖母の押入れに入りたいと駄々をこねはじめた。


 暑い七月の、日曜日の昼下がりである。


 曇り硝子から差し込む白い陽光は触れるだけで焼けるようで、私たちはそのひかりを避けながら家の中で活動する。

 そのひかりをちいさな背に受けながら、すっくと立ってすみれは泣いている。



「ママ~……」


「だから駄目だって言ってるでしょ。押入れの中は熱がこもってて、あっついんだよ?」



 ほら、と言って私は押し入れの引き戸を開ける。


 軋む音と共に、むわりとこもった熱が、クーラーで冷やされた和室へとこぼれる。


 すみれは濡れた頬を丸めたこぶしで拭うと、子猫のように腰をかがめて中をそっと覗き込む。



「まっくらだね。まっくらでなんにも見えないや」


「そうでしょ。だから入ってもたのしくないよー」



 潜むようなすみれの声色が、なぜか私の背筋をつめたく伸ばす。


 短い息をついて引き戸を締めようとすると、すみれが強い声で「待って」と言った。



「ねぇ、でも気になる。気になったままだと、ずっと気になっちゃうから、おべんきょうに集中するためにも、今ちょっとだけ入りたい」



 手をついたまま顔だけあげて私をみつめる。


 懇願するようなその黒く大きな瞳のきらめきに、私はとうとう根負けしてしまった。



「じゃあ、一瞬だけだよ?」



 私は閉じかけた引き戸を、そっと開けた。

 先ほどはあれほど軋んだのに、今度はなぜか、吸い込まれるように無音だった。違和感を覚えたが、特に気に留めることでもない。



「わー!」



 すみれは中のくらやみを伺うように見渡すと、手足を進めてそっと中へ消えていった。




「ママ、ちょっと扉、閉めてみてー。お願い」


「えぇ、まっくらになっちゃうよ」


「いいのー。おひるなのに夜みたいでおもしろい」



 娘のうれしそうな声に、少し困りながら私も嬉しくなり、引戸をぴたりと閉めてしまった。



「どう、すみれ! たのしい?」



 すみれから返答がない。


 五分ほど待ってみる。すみれも、中を色々探検して夢中になっているんだろう。



「すみれー」



 十分が経った。すみれからの返答はない。


 よからぬ事故を想像して、額に嫌な汗がにじむ。


 何かの弾みに、中にあった物が落下して押しつぶされたのではないか——



「すみれ! いたずらしないの!」



 私は爪を引手に引っ掛けて、勢いよく引き戸を開けた。


 汗ばんだ顔で中を見る。


 先ほどまでくらやみ一色だったそこには、日本人形や色とりどりの小箱等、生前母が好んでいた物が乱雑に隙無く置かれていた。


 小箱の上に、日本人形の黒髪が糸のように広がっている。


 天井は腐り、木がたわんでいて、ところどころ染みが出来ていた。


 その景色に圧倒されて、しばらくぽかんとしていたが、肝心の人物がいないことに気付く。



「すみれ?」



 すみずみまで押入れの中を見渡したが、すみれはどこにもいなかった。


 一瞬、虚空をみつめる白い肌に朱の着物を着た日本人形が、すみれの変わり果てた姿なのではないかと錯覚し、心臓が跳ねた。


 震える指先で触れたそれは、陶器のようにつめたく固く、こつんと虚ろに響くのみである。



「すみれ……、すみれ――!!」



 徐々に不安が押し寄せる。


 叫んだ私の声は、ふるびた木で出来た押入れに反響するだけである。



「ママ―!」



 額に幼い女の子の声が当たり、はっと目を瞠る。



「すみれ」


「ママ―!」


「すみれ……? どこなの、どこにいるの。すみれ!」



 聞き慣れた澄んだ声は、紛れもなくすみれの声だ。


 だが、彼女の姿はどこにもない。まさかと思い、押入れの中へ身を乗り出し、天井を叩いたが、ただたわんでいるだけで、ここにひとの気配は無い。



「ママ―! ママ―……」



 やがてか細く、すすり泣くような響きも混じって、すみれの声はちいさくなってゆく。


 先ほどまでむわりと熱い息を吐き出していた押入れは、今や冷蔵庫の奥底のように、芯まで冷え切っていた。

 私のこめかみを、いくつもつめたい汗が伝う。



 私の娘は、夏の押入れの中で消えてしまった。

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