第6幕
"ドンドンドンッ!!"
と激しく扉を叩く音で目が覚めた。
眠い目をこすりながらまだ寝ている体を無理やり起こす。
部屋の中は、まだ真っ暗だった。
テラス窓の外は、宇宙の果てを映したような底知れぬ暗闇が広がっている。
小さな唸り声が聞こえて隣を見ると、ロザリィも先ほどの音で起きたようで、不機嫌そうにクマのついたつり目で扉の方を睨んでいた。
「どうぞ」
ノック音に応じて返事をすると、それを待ってましたと言わんばかりに勢いよくドアが開いて、息を切らしたフェレスが部屋に飛び込んできた。
「ハァハァ……今すぐ……イクシア王女殿下の……お部屋まで……」
震える指で右宮を指す真っ青な顔のフェレス。
嫌な予感がした。
おれとフェレスは同時に顔を見合わせると、すぐにベッドから飛び降り、そのままの足で駆けた。
海の底のように暗く冷たい廊下に3人の足音だけが響いた。
宮を繋ぐ渡り廊下を抜けて、右宮殿の最上階まで駆け上った先、その一角に大勢の警備兵が群れを成していた。
彼らは、チラリとこちらを見て一瞬身構えたが、おれたちの顔をみるなりすぐに神妙な面持ちで整列し、道をつくった。
敬礼する彼らの間を進んでゆくと、奥に扉があった。
ロザリィが近づいてドアノブに手を伸ばす。
ガチャリと音が鳴り、扉が開いた瞬間、むっとする錆び臭い匂いが鼻をついた。
部屋の中央には人の輪ができており、何かを取り囲んでいるようだった。
匂いの元はそこにあるらしく、一歩、二歩とそこへ近づくたび、錆びついた匂いが濃くなってゆく。
「大臣、ロザリア王女殿下とエルピス王子殿下をお連れしました」
フェレスの声とともに、ゆっくりと円が左右に割れた。
ロザリィは床に跪いて、被せられた黒い布を持ち上げた。
イクシア王女だった。
変色した赤黒い血の上、真っ二つになった体。
血の気が失せた真っ白な顔。
胃が逆流するような感覚。
慌てて口を押さえて、その場にうずくまった。
激しい心音が耳の奥から聞こえてきた。
目を瞑り深く息を吸い込んでゆっくりと吐く、何度かそうして深呼吸を繰り返すうちに、だんだんと波が引くように吐き気はおさまった。
「これは今、どういう状況なの?」
前方にいたロザリィがすっと立ち上がって、誰にともなく問いかけると、先ほど大臣と呼ばれていた老年の男が一歩前に進み出た。
「現在、都市を完全封鎖し、罪人の捜索にあたっている状況でございます」
「人物像は把握できてるの?」
「いえ、今のところ把握できておりませんので、不審人物の聞き込みを手がかりに行方を追っている状況でございます」
大臣はそこまで答えた後、目を泳がせつつ言葉を探すように少しまごついて、
「……ただ、人物像については一つだけ仮説があるのですが、それがなんというか、かなり非現実的と言いますか、あまりに信憑性に欠ける憶測で……」
「それでもいいわ。とりあえず話して」
ロザリィがそう返すと、大臣は渋々といった様子で斜め後ろにいた白いローブの男に目線を送った。
「両殿下、お初にお目にかかります。私のような一介の研究者に発言の機会を与えていただきーー」
「前置きはいいから」
「ああ、失礼いたしました」
背を押されるような形で、その研究者の男は話し始めた。
「確認したところ、この部屋には二つの血溜まりがありました。
一つ目は、ご存知の通り、イクシア王女殿下のもの。そして、もうひとつは、ガラス窓の向こう側にある屋外テラスに残っていました。
これらの二つの血溜まりには、そこから派生した血痕が無く、またそれらを足し合わせた血液量は、一人の人間が物理的に流出できる出血量の限界を超えています。
ですので、もうひとつの血溜まりは別の人間の血であると断定できましたが、この現場にはイクシア王女殿下以外の姿がありません。
よって、私たちはこう考えました。
以前から行動を共にしていたボディガードのダークエルフが謀反を起こし、イクシア王女殿下を暗殺した後、行方をくらませたのだ、と。
外の血溜まりはその暗殺の際に反撃されて受けた傷の出血なのだろう、と。
しかしながら、『二つの血溜まりにはそこから派生した血痕が無い』という状況を考えると、すぐにその推測はおかしいと気がつきました。
想像していただきたいのですが、血溜まりから血痕が派生していないということは、王女殿下は即死だったということです。
これは裏を返せば、王女殿下が先に外のテラスでダークエルフへ深傷を負わせたことになります。
そして、ダークエルフは、ガラス戸を通って室内に逃げ込む王女殿下の後を追って部屋の中に侵入し、彼女を殺害した。
であるならば、テラスの血溜まりから部屋へ続く血痕が見られないというのは不自然ではありませんか。
テラスと室内はガラスの壁で仕切られていますので、テラスの血溜まりから直接、室内へ攻撃することはできません。
王女殿下のご遺体が室内にある以上、ダークエルフもまた室内に入らなければならなかったはずです。
このときに、テラスの血溜まりから派生した血痕が残るはずではないでしょうか。
逃亡する際、その足跡を消すために血液が落ちないよう気を配るというのなら理解できます。しかし、そうでないときにも血痕が残らないよう隠滅するというのは全く理解できません。
そんなことをする理由がないのです。
また、他の可能性として、回復薬で傷を塞いでから追いかけた、というのも考えられますが、それもまた現実的ではないでしょう。
あの血溜まりの量からして、かなり深い切傷だったはずです。
完全に傷が塞がるまで待っていたのなら、王女殿下はとっくに逃げ仰せられていたはずですからね。
以上のことから、ダークエルフによる王女殿下暗殺説にはかなり疑問が残りました。
そこで私たちは、もう一度念入りに現場検証を行なうことにしました。
室内とテラスを隅々まで。
すると、室外テラスの床に驚くべき痕跡を発見したのです。
それは、親指の爪ほどの小さな血痕なのですが、これが普通の血ではありませんでした。
異害の血だったのです」
時が止まったように部屋が沈黙した。
数秒間の静寂の後、怪訝な顔つきで眉を寄せたロザリィが口を開いた。
「その『イガイ』って、昔に絶滅した人型生物兵器の『異害』のことを言っているの?」
「左様でございます」
研究者の男が答えると、彼の後ろに控えていた少女が我慢ならないといった様子で手を挙げた。
彼女も男と同じような研究者風の白いローブに身を包んでいたが、それがかなりオーバーサイズのようで挙げた手が服の中に埋もれ、余った袖がキョンシーのように途中でへにゃりと折れて腕の前へ垂れ下がっていた。
ロザリィが「どうぞ」と手を差し伸べるなり、彼女は素早く一礼して男の方へ向き直った。
「上位種族然り、能力が高い生物というのは、繁殖力と寿命が低くなるようデザインされる傾向があります。異害はその典型で、寿命は人族の半分ほどであり、その上、繁殖力に関しては、生殖機能そのものを有していません。
それらを踏まえた上で、あなたは、もう500年以上も前に絶滅したとされている存在が今も生きていると主張なさるのですか?」
「元々、発生原因が不明な存在なのだから、新しく生まれる可能性だって否定できないじゃないか。彼らの性質は、生物というよりも災害に近いんだから。
それにね、君は知らないかもしれないが、当時の調書では『紫色の血痕』と『斬断による死体の損壊』は、異害被害において最もよく見られる特徴として挙げられているんだよ!」
「その二つの要素を満たすからといって、それが必ずしも異害であるという証明にはならないでしょう。あとそもそも人語を話せない異害がどうやって検問をくぐり抜けてーー」
「もういい、やめたまえ、ふたりとも」
大臣はため息混じりに彼らの口論を中断させると、
「両殿下、お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「別に気にしていないわ。それより、これからの段取りはどうなるの?」
「今からご遺体を安置所へお運びいたします。そちらにて洗体・防腐処理・整容を行ったのち納棺。その後、葬儀および埋葬の儀を執り行うのが通例にございます。
葬儀は、おそらく午後2時頃からとなる見込みです。
その葬儀につきましてですが、イクシア王女殿下の母君はすでに逝去されておりますゆえ、ロザリア王女殿下に弔辞を賜りたく存じますが、お引き受けいただけますでしょうか?」
「謹んでお引き受けいたします」
「ありがとうございます。葬儀開始時刻の15分前にお呼び立ていたしますので、それまではエルピス王子殿下のご自室でお待ちいただけますようお願い申し上げます」
夢の中を歩いているような気分だった。
操り人形みたいに見えない張力で動かされているのかと思うほど、体が自分自身のものではないような感じがした。
言われた通りに左宮殿の自室に戻った後も、ただただ無気力で何をする気も起こらなかった。
何も思考せず、ただ植物のように時間を過ごした。
そうして、ぼんやりとした頭でずっとベッドの上で臥せっていたら、
「エルピス王子殿下、こちらを」
「え?」
突然声が聞こえて、神父らしい男から手渡されるスコップ。
気づくと、墓地に立っていた。
後ろには、喪服を着た人々が神妙な顔つきで中実方陣を組んでいる。
放心しているうちに、いつの間にか、葬儀も出棺も終わってしまったようだった。
目の前には、穴に納められた棺。
「では、埋葬の儀を執り行います」
神父が号令を発すると、穴に納まった石棺に次々と黒い土がかけられる。
棺が地面に埋もれて、どんどんとみえなくなってゆくのをただ茫然と眺めていた。
あっという間に、穴は土の中に埋もれ、ついに何事もなかったように地が平坦に戻った。
埋め立てられたその上には、美しく研磨された巨大な石碑が、中央に『イクシア・フローガ』の名を刻み、厳かに据え付けられた。
列になった参列者が足元に献花や供え物をしていく。
あっという間に桃白色の花々や宝石があしらわれた装飾品の数々が墓のまわりを埋め尽くした。
そうして、最後におれとロザリィが花を手向け、埋葬の儀を締め括る最後の墓前礼拝を始めようとしたそのときだった。
「あぁ、よかった。間に合ったみたいだね」
厳粛な雰囲気には不釣り合いな浮ついた声色。
その声を聞いた瞬間、パッと頭の霧が晴れるような感覚がして我に返った。
今まで夢の中にいたのではないかと思うほど、視覚も聴覚も何もかもが明るく透き通って鮮明になってゆく感覚だった。
しだいに近づく足音は、整列する参列者の脇を通り過ぎ、神父の一団を通り過ぎ、さらに最前列にいたおれとロザリィも通り越して墓石の前で止まった。
「……まさかあんな形で君と別れることになるなんて思わなかったよ」
囁くような一言で、彼の雰囲気がガラリと変わった。
先ほどの浮ついた声色が、だんだんと真剣味を帯びた感傷的な声へと変化してゆく。
「あのとき、無礼を働いた僕のことを許してほしい。
つい我を忘れて思ってもいないようなことを口走ってしまったんだ。
生来、君とはあまり親しい仲ではなかったと思うけど、兄弟の中で一番歳が近かった僕は、同じ境遇にいた君の苦労や辛さを他の誰よりも分かってあげられる人間だったと思う。
心の底では君のことを尊敬していたし、親しみも持っていたはずなのに、下らない自尊心のために君を傷つけてしまった。
今さら謝るなんてただの自己満足になってしまうだろうが、いま一度だけ、謝らせてほしい。
ほんとうに申し訳なかった」
彼は静かに謝罪の弁を述べ終えると、コートの内ポケットに手を突っ込んだ。
「あのときのお詫びの印として、これをーー」
懐から出てきたのは葡萄酒の瓶。
彼は手に掴んだそのボトルを天高く掲げ持ち、黙祷するように目を閉じた。
「博愛主義者、イクシア・フローガよ。どうか安らかに眠りたまえ」
雲の切れ目から差し込んだ陽の光がスポットライトとなり、彼と墓石を白く照らした。
光を受けてきらきらと輝くワインボトル。
その瞬間、雷に打たれたような強烈な既視感に襲われた。
物の輪郭が二重にみえた。
その重なっている既視感の残像が現実を通り越してひとりでに動き始めたとき、それがただのデジャヴではないことに気がついた。
隣にいるロザリィの腕を反射的に掴んだのは、次の映像が、次の展開が、はっきりと視えたからだった。
"パリン"
と乾いた音が鳴る。
瞬く間に頭から赤黒く染まってゆく墓石。
そして、残像通りの軌道を描いた彼の顔がこちらへ向く。
「すまない、手が滑ってしまったよ」
邪悪、醜悪、凶悪。
そこにあったのは、人間の悪意などではなかった。
悪意、そのものだった。
悪意がこちらを観て笑っていた。
おれは、怒りで打ち震えている彼女の腕を一層強く握りしめながら、
「罠だ、絶対乗っちゃだめだ」
祈るような気持ちで必死に囁いた。
明らかに、こちらが先に手を出すよう仕向ける狙いがあった。
周りに護衛がいないところを見るに、おそらく影の中に魔族を潜ませているのではないだろうか。
すると、その意図がロザリィの方にも通じたようで、腕を伝う振動が徐々に収まり、最終的に震えはぴたりと止んだ。
「賢いんだね、君たちは」
侮蔑が入り混じった、退屈そうな声がした。
遠ざかってゆく足音。
踏み散らされた花束。
赤く染まった墓石。
安心している自分。
つまり、何も変わっていなかった。
コスパとか、損得勘定とか、そんなものを度外視したハイリスク・ローリターンな人生を来世で全うする。
前世の最期に、そう誓ったのではなかったのか?
安寧よりも冒険の人生を、誓ったはずではなかったのか?
前世で死を経験したことで、肉体だけでなく精神も誓い通りに新しく生まれ変わっていると、そう思い込んでいた。
前世とは真逆の、新しい自分に生まれ変わったのだと。
結局、それはただの自惚れに過ぎなかった。
いざ蓋を開けてみれば、お世話になった恩人の葬儀を台無しにされ、その上、侮辱行為をされたのにも関わらず、それを止めるどころか、されるがままに傍観し、その元凶が去れば争いにならなかったことを安堵する始末。
大事なことすら、損得勘定で決断してしまう、前世と何も変わっていない自分自身に心底呆れ果て、絶望した。
本当に手を握って止めるべきだったのは、ロザリィの腕ではなく、葡萄酒を持ったあの男の腕の方だった。
未来が視えていたおれならできたはずだ。
たとえ、影に潜む魔族に切り殺されようとも、おれは信念に従ってそうすべきだった。
そうすれば、短くとも悔いなく人生を終えることができた。
長くて悔いの残る人生を送るくらいなら、短くて悔いのない人生の方が良い。
その後、つつがなく埋葬の儀は終えられた。
そこから先の行動は人それぞれだった。
すぐに仕事に戻る者、その場で祈り続ける者、こうべを垂れたまま動かない者、人目を憚らず啜り泣く者、その様相はさまざまだったが、時間が経つにつれてだんだんと人は少なくなり、しばらくすると、墓地にはおれとロザリィとフェレスの三人だけが残った。
無言のままどれくらいのその場に立ち尽くしていただろうか、不意に、隣にいたロザリィが声を発した。
「もうここに留まる理由ないから」
彼女はぐっと唇を引き結び、空を仰いだ。
「予定通り、今夜発つ」
左宮殿の自室に戻ると、すぐに三人で早めの夕食を取りながら、計画についての最終確認を行なった。
ロザリィが昨日の地下ルートで要した時間をもとに詳細なタイムスケジュールを組んでくれていたので、それを下地にしながら打ち合わせを進めた。
ひと通り段取りを確認し終えたところで、
「あの、マグノリア王女殿下はどのタイミングで合流されるのでしょうか?」
フェレスがちょこんと控えめに手を挙げながら質問した。
尋ねられたロザリィは、顎の下に手を添えつつ眉間に皺を寄せて、
「一応、『避難用の地下通路入口に集合』って言っておいたけれど、右宮殿か左宮殿かを伝え忘れてたのよね」
「どっちの避難経路の方に来るか分からないってこと?」
「いつも私たちが使っていた方に来ると思うから、右宮殿の方だと思う。本当は、昨日予行演習済みで、この部屋からも近い左宮殿の避難経路を使いたかったのだけれどね」
「おれたちが荷物をまとめて右宮殿の方の部屋へ移るのはダメなの?それが一番手っ取り早いと思うけど」
「荷物を担いで大移動してたら不審じゃない。あまり目立つようなことはしたくないの。
不幸があった右宮殿から何も起こってない左宮殿の方へ移るのならまだしも、その逆はあまりにも不自然でしょう」
「確かに、目立つ行動は避けた方がいいな」
おれの相槌に相槌してフェレスがうなづいた。
続けてロザリィは、ちらりと扉の方へ目を遣ってからこちらに顔を合わせた。
「この後は、各自荷造りの最終確認をしておくこと。それが終わったら、決行時刻まで体を休めておきなさい。おそらく、明日はかなりの距離を歩くことになるでしょうから」
打ち合わせが終わると、フェレスは業務報告と定例会議があるとのことだったので、そこから決行時刻までは別行動をすることになった。
おれとロザリィは、各々荷造りの最終確認を終えると、ベッドに横になった。
ーー突然、ぐわんと肩を揺さぶられる感覚で目を覚ました。
「起きなさい、時間よ」
そのひと声で、スイッチが入ったように重たい目蓋がぱっと開いた。
ベッドの脇にはロザリィとフェレスが立っていた。
暖炉に吊るされた掛け時計に目を遣る。
3時30分、避難経路入口での合流時刻30分前。
テラス窓の方へ目を走らせると、外はまだ一筋の光も見えないほどの完全な暗闇だった。
「少し早いけれど、遅れるよりいいでしょう」
彼女はそう言いながら、こちらにマフラーと手袋を投げてよこした。
ギリギリまで寝ていられるよう服はもうすでに着衣済みだったので、防寒具を身につけて靴を履くとすぐに出発準備は完了した。
ベッド脇に置いていた腰袋を斜め掛けにしつつ、最後にゆっくりと部屋を見回す。
この部屋を見るのは、おそらくこれで最後になるだろう。
異世界転生の出発地点であり、ある種、揺籠に似た安らぎを与えてくれたこの場所を絶対に忘れないよう目に焼き付けておきたかった。
「行くわよ」
扉の向こうでロザリィが待っていた。
暗がりで顔はみえなかったが、なんだか安心させられるような声色だった。
彼女の声に導かれるように部屋を出た。
廊下は、夜を浸したような暗闇の世界だった。
視界が不明瞭でも火を付けるわけにはいかないので、窓から差し込むわずかな月明かりを頼りにゆっくりと歩を進めた。
ランプの明かりも警備兵の姿もない。
暗く沈んだ回廊を1分ほど歩き、左宮殿と中央宮殿を繋ぐ渡し廊下を抜けて、右宮殿へと続く渡し廊下に差し掛かろうとしたところで、
「最後に少しだけ景色観ていかない?」
ふと足を止めたロザリィは、こちらに振り返りながら展望デッキの方を指差した。
「しかし、ロザリア様……時間が…」
「大丈夫よ、まだ少し余裕あるから」
フェレスはまだ何かを言おうとしていたが、それを聞く前にロザリィはもうデッキの方へと歩き出していた。
かなり不服そうな顔をしていたものの、おれが後続につくと、フェレスも渋々といった様子で後ろから付いてきた。
半月形に張り出した展望デッキは、月に照らされて青白く光っていた。
デッキの奥には、真っ暗な夜の底が際限なくどこまでも広がっている。
ロザリィは、背を向けたまま、それらの境界である欄干に寄りかかって、深い夜闇を見下ろした後、少しだけ顔をこちらへ傾けた。
「もし私が王位継承権を持っていたとしても、おそらく結末は変わらなかったでしょうね」
彼女の声は、おれたちに語りかけているようにも聞こえたし、自分自身に語りかけているようにも聞こえた。
ロザリィはそのまま話を続けた。
「私、昔から人の虚構が分かるのよ。
モノの真贋が直感的に分かってしまう。
だからこそ、王位継承戦のような相手を裏切ることが前提で成り立っている人間関係が気持ち悪くて仕方がないの。
これは、生理的な嫌悪だわ。
利害関係の結びつきも人望の一つだと割り切れる器の広さがあればよかったのだけれど、私は私が思っている以上に小さい人間なのかもしれないわね。
どうしても、人を裏切る人間が許せない」
こちらを振り返った彼女の瞳は、真っ直ぐにフェレスの顔を捉えていた。
「それはつまり、私がお二人を裏切っていると、そう仰りたいのですか?」
ロザリィは何も答えず、闇の中で燃える赤い瞳は、ただじっと彼女を見つめていた。
一方のフェレスも視線を逸らさずにロザリィを見つめ返して、
「今日に至るまで精一杯お力添えしてきたつもりだったのですが、私の不徳の致すところにより、何か誤解を生じさせてしまったようです。恐れ入りますが、どのような根拠があってそのようなことを仰るのか、お聞かせ願いますでしょうか?」
「勘よ。根拠なんてないわ」
「……はい?」
フェレスは一瞬面食らってたじろいだようだったが、すぐに怪訝そうな顔つきになり、眉をひそめた。
「お言葉ですが、これほど重要な決断を直感で下すというのは、あまりにも不合理ではないでしょうか」
「ええ、そうよ。重要な決断に合理性なんて必要ないもの」
さも当然のことであるかのように、ロザリィは、あっけらかんとそう言い切った。
それを聞いたフェレスは、ため息をこぼすように白い息を吐いた後、首を小さく左右に振りながら、
「……そう言えるのは、あなたの生まれが恵まれているからですよ」
彼女は、ゆっくりと目を伏せながら呟いた。
そして、少しの沈黙の後、
「ご名答です、ロザリア王女。私は、お二人の動向を密告することで、他陣営へ身を寄せる算段をつけています」
「……この計画も話してるってこと?」
「ええ、当然です」
彼女は、じりじりとロザリィの方へ後退りするおれを横目で見た。
あのときドア越しに聞き耳を立てていたのは、ただの偶然の好奇心からだと思っていたが、あの瞬間から今に至るまでの全てが計算のうちだったのだろうか。
10日足らずの短い期間だったとはいえ、異世界に来てから最も長く時間を共にしてきたのがロザリィとフェレスだった。
異世界に転生して初めて出会ったのがこのふたりで、自分の身の内を気にせず話せるのもこのふたりで、これから先、3人で共に背中を預け合って戦うことができると信じていた。
それがまさかこんなところで、こんな形で決別することになるなんて夢にも思わなかった。
「一応これからのことを申し上げておきますと」
放心状態になっているおれを尻目に、フェレスは淡々と話しを続けた。
「お二人は今夜、勅令違反の罪により地下牢へ投獄されることになっております。
このまま部屋へお戻りになられても、計画通り地下通路へ向かわれても、結果は変わりません。いずれにせよ投獄されます。
なお、この決定は4人の王位継承者全員の総意によるものですので、冤罪だと訴えられても、罪が覆ることは決してありません。
もし一か八かで逃亡を図るのであれば、お止めはいたしませんが、今夜の王宮にはかなりの数の魔族が配置されておりますので、強行突破するのは安全上あまりおすすめはいたしません」
魔族、その言葉に思わず身震いした。
ここまでの道中で、巡回や見張りをしている警備兵に出遭わなかったのを不思議に思っていたが、監視役は影の中に潜んでいたのだ。
そして今もどこかでおれたちを見張っている。
周りの影に警戒しながら視線を巡らせていると、突然、隣のロザリィに強く手首を掴まれた。
彼女の目は、影ではなく、やはり真っ直ぐにフェレスを見据えている。
「継承戦が終わったら、新国王を支援していた貴族やら王族やらのもとへ嫁がせる。
そういう芸のない退屈な筋書きなのでしょう?」
「そう思うのは、王女が外の世界を知らないからです。時が経てばきっと分かりますよ。
いつの日か必ず、危険な自由よりも退屈な安寧の方がずっと尊いものだったと気づく日がきます」
力強い口調とは裏腹に、生気のない虚ろな目のフェレス。
合わない視線の焦点は、目の前にいるおれやロザリィではなく、その背後に広がる暗闇に向けられているような気がした。
ロザリィも同じことを感じたのか、一瞬だけ背後の夜闇に目を遣ったが、すぐに正面に顔を戻すと、いたずらっ子のごとく不敵な笑みを浮かべた。
「じゃあ、確かめることにするわ」
手首を握りしめるロザリィの手に力が込もった。
「いつの日かじゃなく、今ここで」
すると、その瞬間を待っていたかのように、
"ボーン、ボーン、ボーン……"
彼女の声に続いて響く鐘の音。
数秒後、突然展望デッキが暗転し、空から叩きつけるような突風が吹き荒れた。
欄干に背を預けながら吹き飛ばされないよう身を縮こまらせる。
強風に煽られて開かない目をなんとかこじ開けて細目のまま空を仰いだ。
巨影が空に浮かんでいた。
激しい下降気流を伴いながら、どんどんとこちらへ近づいてくる。
あまりの暴風に耐えられず目を閉じると、吹きつける風がぴたりと止み、代わりに、ずしんと地響きのような衝撃が体を伝った。
「ロエル、何してるの?」
目を開けると視界いっぱいに広がる巨体、その上からひょっこりと眠たげな顔を覗かせる少女の姿があった。
「リア!?なんでここにーー」
「もともと、ここが集合場所だからよ」
ロザリィの声とともに、ふわりと体が宙を舞い、そして、弧を描いて巨体の上に接地した。
そのときのベチャッという粘り気のある音と迷彩柄のテカリのある外皮で、ようやくそこがロパの背中であることに気づいた。
ロザリィは、おれを両腕から下ろすと、そのまま目にも止まらぬ早さでおれとロパを綱で縛って固定した。
そこから先、何をすればよいかは言われなくても分かっていた。
滑り落ちないよう足を大きく開き、上体を倒しながら繋がれた綱を両手で力いっぱい握りしめる。
そのとき、ふと周辺視野に黒い何かが蠢いているのがみえて咄嗟に顔を上げた。
柱の影からぬるりと分離した七つほどの黒装束、それらがものすごい速さでこちらに迫っていた。
手には月型に湾曲した短刀が握られており、それをこちらへ投擲しようという構えだった。
が、しかし同時にブォンというエンジンが始動する時のような飛翔音が鳴り響き、一瞬にして彼らは四方へ散り散りに吹き飛んでいった。
翼がはためくごとに、だんだんと展望デッキが小さくなってゆく。
眼下では、黒装束たちが雨乞いするように手を突き上げてこちらへ火球を放っていたが、どれも途中で勢いを失くして力なく霧散した。
火の玉が打ち上がるその光景には見覚えがあった。
間合いの平均は、二十メートル。
頭の中で彼女の声が響いた。
高度が時計塔の鐘を越えて尖塔まで達すると、ロパは翼を止めて緩やかに夜闇へと滑り込んだ。
まぶたに溢れた涙は、頬を伝う前に風で後方へと流れてゆく。
ふたりにそれを見せないようにとうつむいたそのときだった。
瞬きの一瞬で、眼下に広がる世界が輪郭を取り戻し、町家の屋根から路肩の雑草に至るまでありとあらゆるものすべてが色鮮やかに華やいだ。
目に映るものすべてに、活力が宿っていた。
天を仰ぐと、東の空が一面、神々しくも温かい黄金色の光で満たされていた。
朝風になびくブロンドと流れてゆく光の粒。
冷たく暗い夜は、もう明けていた。




