第五章 第3話 降りてくるという選択
第五章 第3話 降りてくるという選択
公爵領に移り住んだ男たちは、最初の数日を静かに過ごす。
目立たないように、余計なことを言わないように、ただ周囲を観察する。王都で身についた“男としての振る舞い”が、ここでは役に立たないことを、彼らは本能的に理解していた。
ユリウスもその一人だった。
朝、宿の窓から街を眺める。
女たちは早くから動き、荷を運び、相談し、決断し、笑う。そこに慌ただしさはあっても、命令の声はない。誰かが上から指示している様子もない。それぞれが、自分の判断で動いている。
(……居場所は、用意されていない)
それが、王都との決定的な違いだった。
王都では、男であるというだけで席があった。何もしなくても、誰かが用意してくれた。ここでは違う。座る椅子は自分で選ぶしかない。
ユリウスは宿を出て、市場へ向かった。
特に用事はない。ただ、歩いてみたかった。
果物を並べる女商人の前で立ち止まると、彼女はちらりと視線を寄こし、すぐに値札を指さした。
「二枚でこの値段よ」
敬語でも媚びでもない。
ただの取引。
「……高くないか」
無意識に出た言葉だった。
王都なら、男の一言で値は下がっただろう。
だが女商人は、少しも動じない。
「そう思うなら、買わなくていい」
それだけだった。
ユリウスは一瞬、言葉に詰まる。怒りでも恥でもない。拍子抜けに近い感覚だ。
「……じゃあ、ひとつだけ」
金を差し出すと、彼女は淡々と品を渡した。
取引はそれで終わる。
(下りてきたんだな、俺は)
頭の中で、そんな言葉が浮かんだ。
落ちたわけではない。奪われたわけでもない。
自分で、降りてきた。
昼前、ユリウスは支援局の掲示板の前に立っていた。
仕事の募集が貼られている。ほとんどが女性向けだ。体力仕事、事務、技術補助、学舎の雑務。男向け、という区分はない。
(働かなくていい、はずなのに)
それでも、胸の奥がざわつく。
何もしないで尊ばれる場所から来た人間が、何かをしたいと思っている。その矛盾に、ユリウス自身が戸惑っていた。
隣で掲示板を見ていた若い男が、ぽつりと言った。
「……俺たち、どうする?」
「さあな」
ユリウスは正直に答えた。
「ここでは、男だからって理由は通じない。
やりたいことがなければ、何もしなくていい」
「それが、一番きついな」
その言葉に、ユリウスは苦笑した。
王都では、何もしなくていいことが“楽”だった。ここでは、それが“空白”になる。
午後、学舎の裏庭で、数人の男が集まっていた。
皆、移住してきたばかりだ。話題は決まっている。
「俺、女に指示されるの、慣れない」
「でも、怒鳴られないぞ」
「命令じゃなくて、相談だな」
誰かが言い、誰かが頷く。
「……上下がないって、こういうことか」
その言葉に、全員が黙った。
上下がない。言葉にすると簡単だが、染みついた感覚はそう簡単に消えない。
その様子を、少し離れた場所からミリアが見ていた。
介入はしない。観察だけだ。
(降りられる人だけが、残る)
ここは救済の場所ではない。
特権を捨てられない者は、自然と居心地が悪くなり、去っていく。追い出す必要もない。
夕方、ユリウスは中央広場でレオンを見かけた。
人に囲まれているわけでも、指示を出しているわけでもない。ただ、通りすがりに声をかけられ、短く答えているだけだ。
思い切って、ユリウスは近づいた。
「……少し、話せますか」
レオンは足を止め、頷いた。
「どうした」
「ここでは……男は、何になればいいんですか」
直球だった。
レオンはすぐに答えない。少し考えてから言った。
「何にも、ならなくていい」
ユリウスは息を呑んだ。
「……それでも、いいんですか」
「いい。
ただし、誰かの上に立とうとしないなら」
ユリウスは、胸の奥がほどけるのを感じた。
「……降りてきても、居場所はある?」
「降りてきたなら、並べる」
短い言葉だったが、十分だった。
夜、宿へ戻る途中、ユリウスは空を見上げた。
王都で見ていた空と同じ色だ。だが、胸の中は違う。
(選ばれなくていい。
選ばせなくてもいい)
それは、男としての敗北ではない。
人としての、始まりだった。
公爵領では、今日も誰かが降りてくる。
そして、そのぶんだけ、世界は静かに平らになっていく。




