第五章 第1話 選び続ける日常
第五章 第1話 選び続ける日常
公爵領の朝は、相変わらず早い。
鐘が鳴る前から、街はすでに動き始めている。工房の扉が軋む音、荷車の車輪が石畳を転がる音、学舎へ向かう足音が重なり合い、静かだが確かな生命の気配が満ちていた。
かつて“革命”と呼ばれた変化は、もうここにはない。
それは特別な出来事ではなく、日常の一部になっていた。
ミリアは支援局の窓から通りを見下ろし、小さく息を吐いた。
帳簿の数字は安定している。移住者の流入は続いているが、混乱はない。仕事の割り振りも、住居の調整も、もはや「非常対応」ではなく通常業務だ。
(……落ち着いた、わね)
ふと、そんな感想が浮かぶ。
かつて王都で働いていた頃、落ち着くという言葉は「停滞」と同義だった。変わらないことは、腐ることだった。
だが、今は違う。
変わり続けるために、落ち着いている。
廊下を歩くと、若い女性職員たちが忙しそうに書類を運んでいる。
誰もが真剣だが、顔には怯えがない。
「ミリア様、今朝の登録者です」
差し出された名簿には、見慣れない名前が並んでいた。
出身地はばらばら。王国の外から来た者もいれば、遠い農村から流れてきた者もいる。
ミリアは名簿の一角で、ふと目を止めた。
(……また、男性)
数は少ない。
だが、確実に増えている。
彼らは仕事を求めて来たわけではない。
この領では、男が働くことは義務ではないし、評価の基準でもない。
それでも彼らは来る。
尊大でいることが価値にならない場所を、自分で選んで。
同じ頃、公爵邸の執務室では、レオンが窓辺に立っていた。
書類は机に整然と積まれているが、今は目を通していない。
眼下に広がる街は、すでに「彼の手を離れつつある」ように見えた。
人々は指示を待たない。
判断を仰がない。
必要なことを、自分たちで決めて動いている。
(……それでいい)
レオンは静かに思う。
王になるつもりは、最初からなかった。
統治者になりたいわけでもない。
ただ、「基準」を示しただけだ。
そこに、リリアナが入ってくる。
「行政区からの報告です。
今月も、王国側への訴えはゼロでした」
「当然だな」
「ええ。
ここでは、判断を外に委ねる必要がありませんから」
彼女の声は穏やかだった。
かつて“骸骨のよう”と蔑まれた王女は、いまや誰よりも落ち着いた視線で街を見ている。
「……王都を懐かしむ声も、ほとんど聞かなくなりました」
「戻る理由がないからだ」
レオンの答えは短い。
そこへマリアが帳簿を抱えて現れる。
「経済は安定。
他国との取引も増えていますが、依存はしていません」
「十分だ」
「ええ。
“選ばれる国”ではなく、“選ばなくていい国”になりつつあります」
その表現に、リリアナがわずかに微笑んだ。
ソフィアは工房から戻ったばかりで、指先に油をつけたまま顔を出す。
「新しい織機、子どもたちにも使えるようにしたよ。
難しいことはしないで、仕組みだけ理解できるように」
「未来の話か」
「うん。
もう、私たちだけの街じゃないから」
最後にカトリーナが短く報告する。
「治安問題なし。
女たちは自分で守れるようになってきている」
それを聞いて、レオンは少しだけ目を細めた。
(……もう、完成に近いな)
だが、完成とは終わりではない。
ここは「選び終える場所」ではなく、「選び続ける場所」だ。
夕方、レオンは街を歩いた。
護衛はいない。必要ない。
市場では、女性たちが値を交渉し、笑い合っている。
学舎の前では、年齢も出身も違う者たちが同じ机を囲んでいた。
その中に、男も混じっている。
だが、中心ではない。
誰かの上でもない。
ただ、そこにいる。
ひとりの少女が、レオンに気づいて声をかけた。
「ねえ、公爵さま」
「どうした」
「ここってさ、正解なの?」
唐突な問いだった。
だが、レオンは笑わない。
「……正解かどうかは、誰にもわからない」
「じゃあ、なんで続けてるの?」
レオンは少し考えてから答えた。
「続けたいと、皆が思っているからだ」
少女は一瞬きょとんとし、それから頷いた。
「そっか。じゃあ、いいや」
それだけで走り去っていく。
レオンはその背中を見送りながら、胸の奥で確信する。
(ああ……これでいい)
この世界は、完成しない。
だが、もう戻らない。
選ばれる時代は終わった。
選び続ける日常が、ここにある。
それが第五章の始まりだった。




