第四章 第8話『選ぶという亡命』
公爵領の朝は、以前よりもずっと早く始まるようになっていた。
街が拡張され、人の数が増え、やるべきことが山のように積み上がった結果だ。にもかかわらず、街には不思議な静けさがあった。王都のような張りつめた緊張ではない。自分の役割を知っている者たちが、それぞれの場所へ向かう、落ち着いた気配だった。
ミリアは中央庁舎の廊下を歩きながら、手にした書類の束を抱え直した。
ここ数日で、新規登録された移住者の数はさらに増えている。しかも、以前とは少し様子が違った。
女性ばかりだった流れの中に、わずかながら“男”が混じり始めている。
数は少ない。ほんの一握りだ。
だが、その存在は確実に公爵領の空気を変えつつあった。
応接室の前で立ち止まると、扉の向こうから低い声が聞こえた。
落ち着いているが、どこかぎこちない。
ミリアは一度深呼吸してから扉を開けた。
部屋の中には、三人の男が座っていた。
年齢は二十代前半から三十代にかけて。身なりは質素だが、王都育ち特有の“甘え”が、まだ完全には抜けていない。
そのうちの一人が立ち上がり、頭を下げた。
「……本日は、お時間をいただきありがとうございます」
「こちらこそ。座ってください」
ミリアは簡潔に促し、向かいの席についた。
男が女に対して敬語を使い、頭を下げる。その光景は、王国の常識ではあり得ない。だがこの部屋では、誰もそれを気に留めなかった。
「移住の理由を、改めて聞かせてください」
ミリアがそう言うと、男は一瞬言葉に詰まった。
視線が揺れ、指先が膝の上で絡む。
「……正直に言っていいのなら、居心地が悪くなったんです。王都が」
「居心地が悪い?」
「はい。何もしなくても尊ばれる。働く女たちが疲れていくのを、横で見ているだけ。それが……正しいと言われ続けてきました。でも……」
言葉が途切れた。
ミリアは急かさない。ただ待つ。
「……ある日、工房が止まりました。人がいなくなって。
そのとき初めて、怖くなったんです。
女たちがいなくなったら、俺たちは何もできないんだって」
その告白は、静かだった。
だが、部屋の空気がわずかに揺れた。
別の男が続ける。
「俺たちは働きたいわけじゃない。
でも……何もしないまま偉そうにしているのが、耐えられなくなった」
ミリアはその言葉を、否定もしなければ称賛もしなかった。
ただ、淡々と受け止める。
「ここでは、男だからといって特別扱いはしません」
「……聞いています」
「働くことも義務ではありません。ただし、尊大な態度や、誰かを見下す振る舞いは許されない。
それでも、この領に残りたいですか」
沈黙が落ちた。
三人の男は互いに視線を交わし、やがて、最初に話した男がはっきりとうなずいた。
「……はい」
その瞬間、ミリアは確信した。
彼らは“変わりたい側”の人間だと。
手続きを終え、男たちが部屋を出たあと、ミリアは一人、椅子にもたれた。
(男が、特権を捨ててここへ来る……)
それは、単なる移住ではない。
価値観の亡命だった。
同じ頃、公爵邸の執務室では、レオンが報告書に目を通していた。
移住者数、産業稼働率、治安状況、食糧備蓄。すべてが想定を上回る速度で動いている。
「……男の移住者が、また増えたか」
リリアナが静かに頷く。
「ええ。数は少ないですが、確実に。
しかも彼らは、王都で特権を持っていた層です」
「反発は?」
「今のところ、ありません。
むしろ……彼ら自身が、一番戸惑っています」
マリアが帳簿を閉じて言った。
「当然よ。ここでは、男であることが価値じゃないもの。
でも同時に、ここは男を排除する場所でもない。
その曖昧さが、彼らを試している」
レオンはしばらく考え込み、やがて静かに口を開いた。
「……この領は、救済の場所じゃない」
三人の視線が集まる。
「過去を許す場所でもないし、罪を洗い流す場所でもない。
ただ、“これからどう生きるか”を問う場所だ」
「だからこそ……来る者がいるのですね」
リリアナの声は穏やかだった。
「ええ。
ここは、選ばれる場所ではなく、選び続ける場所です」
その日の夕方、街の一角で、小さな騒ぎが起きていた。
新しく移住してきた男が、無意識に女性職人へ命令口調で話しかけてしまったのだ。
周囲の空気が、一瞬で凍った。
だが、怒号は飛ばない。
代わりに、職人の女性が静かに言った。
「ここでは、そういう言い方は通じない」
男は顔を赤くし、言葉を失った。
逃げるように俯き、しばらくしてから、小さく頭を下げる。
「……すまない。癖だ」
「わかってる。
でも、直して。ここにいたいなら」
それだけだった。
罰もなく、追放もない。ただ、線引きがある。
その様子を遠くから見ていたユリウスは、胸の奥が締めつけられるのを感じていた。
ここでは、男であることが免罪符にならない。
だが同時に、一度の失敗で切り捨てられることもない。
(……ここは、本当に“選択”の場所だ)
王国では、選ぶのは男だった。
女は選ばれるために、飾り、媚び、削られた。
だが公爵領では違う。
誰もが、自分の姿勢を選ばされる。
夜、公爵領に灯りがともる。
工房の明かり、学舎の窓、簡易住宅のランプ。
その中に、男も女も区別なく混じっている。
レオンは執務室の窓から、その光景を見下ろしていた。
(……始まったな)
これは革命ではない。
宣言でも、武力でもない。
人が、自分で生き方を選び始めた結果としての、変化だ。
そしてそれは、王国にとって最も厄介な種類の変化だった。




