第四章 第2話 静かなる“逃走の朝”
第四章 第2話 静かなる“逃走の朝”
王都の朝は、昔から騒がしくて落ち着かない。だがこの日は違った。いつもより早く、日の光が地面に触れた瞬間から、人々の気配が奇妙に少ない。鳥の声ばかりがよく響き、街路に響く足音はまばらだった。
(静かすぎる……?)
織物工房の裏手で、若い女性がそっと顔を出した。名前はラナ。丸顔でそばかすがあり、頬はややこけている。この国では典型的な“醜女”として扱われ、嘲笑される日々に慣れてしまっていた。
しかし今日は違う。
胸の奥が、かすかな震えで満ちている。
(本当に……行くの? わたしが……この王都を?)
数日前に聞いた噂が、ラナの人生を変えた。
――公爵領には、醜女でも働けて、評価される場所がある。
――公爵レオンは“美醜で人を選ばない”。
――働きに応じて給金も増え、自立した生活ができる。
――希望がある。
そして王都の女性たちの間で、ある合図がひっそりと共有された。
「夜明け前に城門へ。静かに集まれ」
ラナは震える手を胸に当てる。
まだ誰もいない工房裏を抜けて、そっと通りへ走り出した。
曲がり角の先には、すでに何十人もの影が並んでいた。
(こんなに……!?)
全員が下を向き、荷物を背負い、小さく震えていた。
そこにいるのは、皆“醜女”だと呼ばれた女性たちだった。
頬がこけた者。
肌に荒れのある者。
骨が浮き上がるような細身の者。
丸く膨れた者。
この国では見向きもされなかった彼女たちが、今は必死に自分の未来を掴もうとしている。
「ねえ、本当に……行けるの?」
「捕まったりしない?」
「でも……ここにいても、何も変わらないよ……」
震える声が、闇に溶ける。
その瞬間、ラナは気づいた。
自分は“逃げる”のではない。
“生まれ直し”のために歩き出しているのだ。
やがて、鳥の鳴き声が止んだ。
夜明けが近い。
城門に向かう列は静かに伸び、影は次第に大きな流れになった。
(まるで……川みたい)
誰かが呟くと、すぐ隣の女性が涙を拭った。
「川が海へ流れるように……わたしたちも、あの公爵領へ行くんだね」
その言葉に、列の空気がわずかに震えた。
やがて城門前に到着すると、まだ衛兵は少ない。
彼らは夜勤明けで半ば眠っており、列に気づくのが遅れた。
「……ん? なんだ、この人数は……?」
衛兵の一人が気づき、眉をひそめる。
「おい、お前たち、何の集まりだ?」
列は沈黙していた。
だが一歩、ラナが前に出た。
「……公爵領に、行きます」
か細い声だったが、震えていなかった。
「働きたいんです。生きたいんです。
ここでは……私たちには何もないから」
その言葉に、衛兵の瞳が揺れた。
だがすぐに顔をしかめる。
「許可証はあるのか?」
「……ありません」
「では――」
衛兵が手を伸ばした瞬間、後ろから別の声がした。
「よい。通せ」
張り詰めた空気が弾ける。
そこに立っていたのは、夜勤明けの副隊長。
彼女もまた、“醜女”と呼ばれてきた顔立ちをしていた。
副隊長は城門の鍵を持つ兵に向き直った。
「……わたしは知っている。この列が何かを。
そして、この国では絶対に生まれない“希望”を求めていることも」
「副隊長……?」
「門を開けろ」
「ですが、これは命令違反で――」
「かまわない」
副隊長は静かに言った。
「この国はもう……変わらなければならないのだろう。
せめて、彼女たちだけでも……」
衛兵たちは顔を見合わせ、そして――
ゆっくりと、重い城門の鍵が回り始めた。
その音は、まるで“古い秩序が軋む音”のようだった。
門が開くと、薄い朝の光が射し込んだ。
列に並ぶ女性たちは、一斉に息を吸う。
(これが……わたしたちの、新しい朝……)
誰かが涙を流し、誰かが笑い、誰かが震えながら歩き出した。
ラナもまた、深く息を吸って前へ進んだ。
足下の土はまだ冷たい。
だが、その先にある公爵領は――
彼女たちが人生で初めて、自分の力を信じて歩ける場所だ。
王国の背後から、一筋の陽光が差した瞬間、
ラナは振り返らずに前へ進んだ。
(ああ……わたしたちはもう、元の世界には戻らない)
その日の王都は異様な静けさに包まれ、人々は気づいた。
――王都の“影”と呼ばれた女性たちが、一斉に消えたのだ。
そしてその流れは、もう誰にも止められなかった。
新しい時代は、公爵領から始まる。




