第三章 第8話 風が連れてきた者たち
第三章 第8話 風が連れてきた者たち
視察官が去った翌朝、公爵領は驚くほど静かだった。
昨日の騒ぎが嘘のように空気は澄み、朝日が石畳に優しく反射している。
ミリアは支援局の扉を開けながら、胸の奥がふっと軽くなるのを感じていた。
(ここは揺るがない……。
昨日の不安が、まるで風に流れたみたい)
そんな穏やかな朝を――
しかし次の瞬間、破るように声が響いた。
「ミリア様ぁぁぁぁあ!! 大変ですっ!!」
受付の若い職員が、紙束を抱えて走ってくる。
「どうしたの?」
「移住希望者が……い、一気に増えました!
昨日の倍どころじゃありません!!」
「昨日の……?」
ミリアは瞬きをした。
「今日だけで、すでに三十名以上。
そのほとんどが“北方連合”と“西海商国”から来た者とのことです!」
「なっ……三十?」
数日前まで、一日に三〜五名増えるだけで十分な変化だった。
それが突然三十名――まさに“第二波”。
ミリアは書類を受け取る手が小さく震えた。
(レオン様……これは、うれしい悲鳴ですね)
***
広場は、すでに人であふれていた。
荷車、包み、子どもを抱えた女性……
その顔には疲れと不安、そして小さな期待が滲んでいる。
ミリアが姿を現すと、ざわめきが少し静まり、前列の女性が深く頭を下げた。
「支援局の皆さま、突然押しかけて申し訳ありません!
でも……どうか、私たちを受け入れてください……!」
その声に、周囲の女性たちも次々と頭を下げる。
「働かせてください!」
「王都では吐き捨てられただけの私たちにも……ここなら未来があるって……」
「北方の村で、公爵領の噂が広がって……本当に来れるなんて……!」
ミリアは胸が熱くなるのを感じた。
「皆さま、ようこそ公爵領へ。
ここでは、誰もあなたを否定しません。
働きたい、学びたい、その意思があるなら――
私たちは全力で支えます」
広場に、震えるような歓声が広がった。
そのとき――
「ミリア!」
カトリーナが駆け寄る。
騎士隊の制服姿はいつもより少し乱れており、忙しさを物語っていた。
「門前がもう限界だ!
護衛を増やすので、支援局の面接班も急いでくれ!」
「了解です! カトリーナ、助かります!」
「任せとけ! うちの隊はもう慣れてる!」
カトリーナは凛とした笑顔を残し、次の指揮へ走った。
(頼もしい……本当に)
そこへ今度は、書類の束を抱えたマリアが姿を見せた。
「ミリア、認証手続きの一部を簡略化したわ。
これで一人あたりの登録時間を三分の一にできる」
「早い……!
マリア、本当に優秀ね……!」
「当然よ。レオン様の領地で混乱を許すわけにはいかないわ」
マリアは淡々としながらも、どこか誇らしげで頼もしい。
さらに、後方から何かが爆発するような音が響いた。
「わあああっ!? だ、大丈夫、失敗じゃない――成功だよ!!」
「ソフィア!?」
煤をかぶったソフィアが飛び出してくる。
腕には奇妙な形の木製装置。
「移住者さん用の“荷物簡易運搬器”を開発してみたの!
重い荷物を台に乗せるだけで、倍以上軽く感じるはず!」
「そんなものまで……!」
「工房で量産できるよっ! これで、荷運びの人手が少しでも減れば……!」
ミリアは思わず笑ってしまった。
(この子は、本当に優しい子だわ……)
働く女性の苦労を思い、自分にできる方法で支えようとする。
ソフィアの発明はいつも、誰かの背中を押す力になる。
そして――
広場を見渡したミリアは、気づいた。
視察官が落としていった“影”は、この光景の前ではあまりにも小さい。
新しい風。
新しい希望。
新しい人々。
それらすべてが、公爵領をさらに強く、大きくしていく。
「ミリア様!」
若い獣車係の少女が駆け寄る。
「視察官様が……」
「視察官が、どうかした?」
「……移住者の行列を見て、顔が真っ青で……
“こんなの間違ってる、こんなのありえない”って、何度も……」
ミリアは静かに目を伏せた。
(そう……あれは“王都の価値観”が崩れ始めた音)
視察官には理解できない。
“顔で分けられる世界”しか知らない者には。
しかし――
「ここでは、それが普通なのです」
ミリアは小さく呟き、女性たちに向き直った。
「皆さま、順番にご案内します。
今日からが、新しい人生の始まりです」
広場のあちこちから、嗚咽のような声と笑い声が同時に上がった。
ミリアは胸の奥でそっと誓う。
(大丈夫。
あなたたちはもう、誰にも奪わせない)
支援局の職員たちが列を整え、マリアが手続きを高速化し、ソフィアが荷物運搬機を配り、カトリーナが治安を守る。
そして、その中心には――
この領を導くレオンの意思が確かに息づいていた。
(ここから……さらに大きな波が来る。
でも、恐れる必要はない)
ミリアは笑った。
新たな風が、公爵領を一段と高く押し上げようとしている。
それはもう、誰にも止められない。




