第三章 第7話 揺さぶりは静かに、しかし確かに
第三章 第7話 揺さぶりは静かに、しかし確かに
王都から派遣された視察官――その冷たく濁った眼差しは、公爵領の空気に明らかに馴染んでいなかった。
彼女が領内を歩くたび、女性たちは距離を取り、耳に入るのはひそやかなざわめきばかり。
働くことを選び、誇りを取り戻しつつある彼女たちにとって、視察官の放つ“王都の価値観”は、かつて自分を苦しめた過去の影そのものだった。
そして――影は、静かに動き始めた。
***
午後。
ミリアが支援局で書類整理をしていると、事務員が慌てて駆け込んできた。
「ミリア様、大変です!
移住者の宿舎で、揉め事が起きています!」
「原因は?」
「視察官が……“本当は公爵領なんて利用されているだけだ”と吹き込んだそうで……」
ミリアは眉をひそめた。
(来たわね……)
予想していたよりも早いが、避けられない揺さぶりだった。
***
宿舎では、数名の移住女性がざわついていた。
怯えた表情の者、怒って涙を滲ませている者、黙り込む者――そのどれもが“昔の価値観”に心を揺すられていた。
「女が働いて幸せになれると思ってるの?」
「いつか見捨てられるのよ。あの公爵だって男なんだから」
「ここは気まぐれで遊びに来た醜女の収容所よ」
視察官の放った言葉は、弱っていた心に小さな棘として刺さったらしい。
しかし――ミリアが部屋に入ると、空気が変わった。
「みなさん、まず深呼吸しましょう。
……話はそれからです」
落ち着いた声。
視線が彼女に集まる。
「本当に、私たちは利用されているだけなんでしょうか……」
震える声で女性の一人が言った。
「そう言われて、不安になる気持ちはわかります。
でも――利用されているのなら、どうしてあなたたちは“笑って働けて”いるんでしょう?」
ミリアの問いかけに、女性たちは言葉を失う。
「王都の価値観では、醜女は笑うことも、働くことも許されませんでした。
ここでは? あなたたちは毎日、誰に遠慮するでもなく、手と頭を使って働いているでしょう?」
「……はい」
「それにお給料も、ちゃんと支払われているわ」
「そうなの。あの……私、初めて“自分の手で”お金をもらえたんです」
その声に、隣の女性が頷く。
「王都では考えられないこと……。
私、あの視察官の言葉より、ここで過ごした日々の方を信じたい」
空気が徐々に落ち着き始めた――そのとき。
「おい、何を騒いでいる!」
低く通る声と共に、カトリーナが姿を現した。
凛とした佇まいは、まさに女騎士の風格そのもの。
視察官とは正反対の“確かな強さ”がそこにあった。
「ミリア、状況は?」
「視察官が不安を煽っていたようで……。でも、もう落ち着きかけています」
「ならよかった。
公爵閣下からの伝言だ。“騒乱行為は一切許さない”と」
女性たちは緊張したが、カトリーナは柔らかく微笑んだ。
「安心しろ。責められるのは、お前たちじゃない。
王都の価値観を押しつけた者だけだ」
その瞬間、部屋に安堵の息が流れた。
(この子……本当に頼もしくなったわね)
ミリアは胸の内で呟く。
「私たちは、この領で暮らす者を守る。
それが閣下の命だ」
カトリーナの言葉は力強く、それでいて優しかった。
***
その後、視察官はミリアとカトリーナに連れられ、静かに支援局へ戻された。
移住女性たちの不安は完全ではないにしろ落ち着き、作業場へ戻る者も多かった。
「視察官。何故、領民に不安を煽るようなことを?」
ミリアの問いに、視察官は薄く笑った。
「真実を言っただけです。女が働いて幸せになれるものですか。
いずれ失望しますよ。彼女たちは」
「その判断をするのは彼女たち自身です。
あなたではありません」
視察官の表情が僅かに揺れた。
(あら……自信がないの?)
ミリアは気づいた。
視察官は“王都の常識”しか知らず、
“自分の価値”もそこに縛られているのだ。
だから公爵領を理解できない。
そして――恐れている。
「あなたの価値観は、ここでは通用しません。
ですがそれも、責めはしません。王都で生きてきたのですから」
視察官は沈黙した。
その沈黙には、かすかな怯えが混じっていた。
(この領の空気は、この人みたいな“古い常識”を溶かしていく……)
ミリアは静かに歩き出した。
「報告書をまとめていただきます。
あなたが見た“事実”だけを書いてください」
「……事実、ですか?」
「ええ。
公爵領で、女性たちが“笑って働いていた”という、事実を」
視察官は言葉を失ったまま固まっていた。
***
その日の夕刻。
移住女性たちは再び作業場に戻り、いつものように手を動かしていた。
笑顔は完全ではないが、確かな安心の色が戻っている。
(揺らぎがあっても、すぐに戻れる――。
それが、この領の強さなんだわ)
ミリアは胸の奥で、はっきりとそう感じていた。
視察官の影は確かに公爵領に落ちた。
だが影は、すぐに消えた。
揺さぶりはあった。
しかし、この領はもう簡単には折れない。
女性たちの生き方が根を張り始め、
その根は、誰にも引き抜けないほど強くなりつつあった。




