第三章 第6話 視察官がもたらした影
第三章 第6話 視察官がもたらした影
その日、公爵領は夜明けから穏やかだった。
朝の風はやわらかく、作業に向かう女性たちの表情はどこか晴れやかだ。
街のあちこちで工房の扉が開き、工場の煙突から薄く煙が立ち上る。
――ここに来てから、毎日が少しずつ変わっている。
ミリアは支援局の窓から外を眺め、静かに息をついた。
移住者の増加、行政の整備、財政の安定。
目に見える形で、公爵領が生まれ変わっていく。
(レオン様の言う“生き直せる場所”って、こういう景色のことなのね)
その瞬間、扉がノックされた。
「ミリア様。王都からの使者が到着しました」
「……使者?」
「はい。“視察官”として派遣されたそうです」
ミリアは眉を寄せた。
本来、公爵領への視察官派遣など年に一度、形式的なものしかない。
しかもこの時期は前例にない。
「案内して。すぐに対応します」
職員が頷き、廊下へと先導する。
***
応接室の扉が開き、ミリアは一歩中へ入った。
そこには、黒衣に身を包んだ女が一人立っていた。
痩せぎすで、冷たい目をしている。
視察官と名乗ったその女は、礼も浅く、ミリアをじっと観察するように見つめた。
「遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございます。
支援局責任者のミリアと申します」
「……ええ。ご苦労さま」
返答は短く、平板で、こちらを値踏みするような声音だった。
視線にも礼節の気配がない。
――まるで“人”ではなく“物”を見るような目。
(王都の……あの価値観そのままの人ね)
ミリアは心の中で静かに呟いた。
「まずは領の状況についてお伺いします。
特に、ここ最近増えているという“移住者”の件について」
「もちろんです。こちらの資料をご覧ください」
ミリアは整えられた帳簿と統計表を差し出す。
視察官はそれを無言で受け取り、目を走らせた。
しかし表情は、満足とも驚愕とも違う。
ただ淡々と――数字だけを見るように。
(数字だけ……いえ、“人の生活”には興味がないのね)
ミリアは直感した。
「ずいぶんと……働く者が多いのですね」
視察官の声は冷え切っていた。
「女が、ですよ。
普通なら男の気を引くために粉をつけ、飾りをつけ……
競い合いながら生きるはずでしょう?」
ミリアは一瞬、言葉を失いかけた。
(……やっぱり、この価値観)
「この領では、“選ばれるために生きる”必要はありません。
働きたい人が働き、学びたい人が学ぶだけです」
「はあ……。奇妙な土地ですね。
女が自主的に働くなんて、聞いたこともない」
その嘲りを含んだ声に、ミリアは静かに息を吸う。
「ここに来た女性たちは、皆――“生き直したい”と願った人たちです。
その意思を支えることが、公爵領の方針です」
「意思、ね。
女にそんなものが必要だとは、王都では聞きませんが?」
視察官は鼻で笑い、帳簿を机に放るように置いた。
「次は現場を見せてください。
書類だけでは信じられませんので」
ミリアは無言で頷き、立ち上がった。
***
街を歩く途中、視察官の態度は終始冷たかった。
工房で働く女性たちを見ても、
市場で荷物を運ぶ女性を見ても、
畑を耕す姿を見ても――
「なぜ醜女がこんな顔で笑うのです?」
「……?」
「女は男に飾られるための存在でしょう?
仕事などして、どうするのです」
あまりの価値観の差に、ミリアは返す言葉が見つからなかった。
彼女の世界には“生きている女性”が存在していないのだ。
ただ、視察官自身も気づいていない異変があった。
――公爵領の女性たちが、彼女を避けている。
笑顔を向ける者はひとりもいない。
その空気はミリアにだけ、はっきりわかった。
(この人……まるで“腐った風”を運んでいるみたい)
と、そのとき。
「ミリア様、お疲れさまです!」
石工のアーニャが元気よく声をかけてきた。
顔に粉をつけ、汗を光らせながらも、生き生きしている。
「こんにちは、アーニャさん。今日も作業ですか?」
「はい! 新しい壁材の加工です!
ミリア様のおかげで、うちの班も仕事が増えてるんですよ!」
視察官はアーニャをじろりと見つめた。
「……その顔で?」
「え?」
「その顔で、誇らしげに働いているのですか。
醜女の分際で」
アーニャは一瞬だけ目を見開いたが、すぐに笑顔に戻った。
「へえ……王都の視察官って、そんなこと言うんですね」
「失礼な――!」
「私たち、もう“顔”で生きてないんですよ。
ここでは“できること”で生きてるんです」
その言葉に、視察官の表情が強張る。
ミリアは胸の奥が熱くなるのを感じていた。
(そう……この領は、もう戻れない)
誰かに選ばれるためではなく、自分のために生きる場所。
それを、ここにいる誰もが理解し始めている。
「視察官様。続きは支援局でお話ししましょう」
ミリアは丁寧に促し、視察官を連れて歩き出した。
その背中に、アーニャの笑い声が軽やかに響く。
対照的に視察官の足取りは重く、影のように沈んでいた。
彼女が持ち込んだ“王都の常識”は、
この領の空気にはすでに馴染まない。
(王家はまだ気づいていない……
この領を“昔の価値観”で縛ることが、もうできないって)
ミリアは心の中で強くそう確信した。
視察官の到来は、公爵領にとって脅威ではない。
むしろ――王国と公爵領の価値観の溝を、
はっきりと読者に示す“影”に過ぎなかった。
そしてその影は、これから訪れる“嵐”のほんの前触れにすぎなかった。




