第二章 第27話 男という存在の揺らぎ
第二章 第27話 男という存在の揺らぎ
いつもなら、何も考えずに座っていればよかった。
香を焚いた長椅子に身を預け、女たちが淹れた茶を飲み、甘菓子を口に運ばせ、気に入らなければ顔をしかめる。それだけで「男としての務め」は果たされているとされる世界だった。
働く必要はない。
考える必要もない。
命令されることなど、あるはずもない。
だが最近、王都の男たちはどこか落ち着かなかった。
「……なあ、アルディス公爵領の話、本当なのか?」
「女が勝手に人を選んでるって噂だろ?」
「そうだ。しかも、仕事も土地も全部女が決めているらしい」
男たちの声には、嘲りと戸惑いが入り混じっていた。
「馬鹿な話だ。女など、選ばれるために存在しているものだろう?」
「そうだそうだ。働くのは女の役目だが、決めるのは男であるべきだ」
だが、その言葉に以前のような自信はなかった。
***
王都から少し離れた邸宅の中で、若い男が窓の外を見つめていた。
名はロベルト。
貴族の家に生まれ、幼い頃から「選ばれる男」として待遇されてきた存在だ。
だが、心の奥に常に引っかかっているものがあった。
(公爵領……)
噂はあまりに奇妙だった。
顔で選ばれない女たちが集まり、誇りを持ち、働き、暮らし、笑っている場所。
そしてその中心にいるのは、男でありながら女に命じないアルディス公爵。
「なぜだ……?」
ロベルトは小さく呟く。
「男のくせに、なぜあの公爵は偉ぶらない」
それは疑問というより、不安に近かった。
(もし、あの在り方が“正しい”とされたら……俺たちは何になる?)
与えられてきた特権。
崇められること。
座っているだけで価値があると教え込まれてきた人生。
それが、崩れかけている。
***
一方、公爵領では。
男たちは相変わらず働かない。
木陰に座り、石畳の縁に腰を下ろし、屋敷の縁側で風に吹かれている。
だが、その視線は以前と違っていた。
女たちが走り、指示を出し、確認し合い、成果を積み上げていく姿を、黙って見つめている。
「……すごいな」
ある男がぽつりと呟いた。
「何がだ」
「いや……あいつら、誰にも命令されなくても動いてる」
「女なんて、男のために動くものだろ」
「だったら……あれは、誰のためなんだ?」
その問いに、誰も答えられなかった。
女たちは誰の視線も気にせず働いている。
誰かに選ばれるためでも、褒められるためでもない。
ただ、自分の役割を果たすために。
(俺たちは……ただ座っているだけだ)
その事実が、男たちの胸を静かに締めつけていた。
***
夕方、公爵邸の中庭で、レオンの姿を見かけた若い男がいた。
名はエドガー。
貴族の家の次男であり、これまで通りの生活に疑問を感じ始めていた。
「……公爵」
おずおずと声をかける。
「どうした」
「失礼を承知でお聞きしますが……
男が働かないこの国で、なぜ女たちにすべてを任せているのですか」
レオンは少しだけ目を細めた。
「任せているのではない」
「では……?」
「彼女たちが、その力を持っているからだ」
それだけだった。
だが、エドガーには十分すぎる言葉だった。
「……男は、必要ないのですか」
「そんなことはない」
レオンは静かに言う。
「だが、“偉ぶるだけの存在”でいるなら、必要ではない」
その言葉は、柔らかだが鋭かった。
エドガーは唇を噛んだ。
(俺たちは……ただ守られているだけだった)
初めて、自分が空っぽであることを知った気がした。
***
夜、王都の酒場。
男たちは盃を傾けながら、不満をぶつけ合っていた。
「あの公爵、女に甘すぎる」
「女どもを調子に乗らせてどうするつもりだ」
「そのうち、男の存在そのものを否定するぞ」
だがその中に、ひとりだけ黙っている男がいた。
「……なあ」
「なんだ」
「もし、俺たちが選ばれる存在じゃなくなったら……
それでも、男でいられるのか?」
その言葉に、空気が一瞬止まった。
誰も笑えなかった。
***
公爵領の夜。
働き終えた女たちが静かに帰っていく。
泥を払う手も、汗に濡れた髪も、どこか誇らしげだった。
その様子を見つめながら、エドガーは思う。
(彼女たちは、“存在”として立っている)
自分はどうだろう。
ただ与えられ、ただ甘やかされ、ただ偉そうにしてきただけではなかったか。
アルディス公爵の視線が、遠くで女たちを見つめていた。
優しくもなく、冷たくもない。
ただ、真剣に。
その背中を見ながら、エドガーは小さく息を吐いた。
(男であることは、誇りだった……でも今、それは形を失い始めている)
その揺らぎは、恐怖であり、同時に始まりでもあった。
偉そうにしているだけだった男たちの価値が、
静かに試され始めていた。
そして誰も気づかぬうちに、世界は確実に動き始めていた。




