第二章 第24話 働く誇り
第二章 第24話 働く誇り
朝の空気が、やわらかく湿っていた。
公爵領に移ってからまだ数日しか経っていないというのに、ミリアはこの土地の朝に奇妙な安心感を覚え始めていた。
目を覚ませば、外から聞こえてくるのは女たちの声だ。
鍬を土に打ちつける音、車輪を押す足音、笑い声、段取りを確認し合う張りのある声。
そこに男の働く気配は一切ない。
(……そう、ここでは男は働かない)
この国において、男は貴重で、守られる存在だ。
だが、ここ公爵領では「特別扱いされる存在」ではあっても、「支配する存在」ではない。
働くのは女。生み出すのも女。社会を回すのも女。
そしてその中心に、自分も立つのだ。
ミリアは衣服を整え、昨日よりも少しだけ気持ちを引き締めて部屋を出た。
***
女性支援局には、すでに数人が並んでいた。
その顔立ちは王都基準では“醜女”に数えられるものばかりだが、誰一人として下を向いていない。
「おはようございます、ミリアさん」
クララが軽く手を振る。
「今日は“相談窓口”の本番よ。
昨日よりさらに踏み込んだ話になるから、聞く側も覚悟してね」
「はい」
ミリアは椅子に腰かけ、帳簿を開いた。
最初に現れたのは、三十代ほどの女性だった。
頬はこけ、細すぎる顎と大きな目が印象的な顔立ち。王都であれば、街の子どもにさえ笑われていたであろう容姿だ。
「私はユーナと申します。
長年、仕立て屋で働いていましたが……客が来なくなりました」
「理由は聞いても?」
「“顔が気味悪いから、触られたくない”と……」
表情は淡々としていたが、その言葉には諦めが滲んでいた。
「ですが、公爵領では縫製の技術がある女性を優先的に迎えていると聞きまして……」
「技術を見せていただけますか」
ミリアが差し出した布切れに、ユーナは針を通した。
その動きは驚くほど滑らかで、縫い目には一切の乱れがなかった。
「……素晴らしい仕事です」
ミリアは率直にそう告げた。
「本当ですか?」
「ええ。
こちらで働いていただけるよう、私から推薦いたします」
ユーナの目が、信じられないものを見るように揺れた。
「私は……ここでなら、生きていけますか?」
「生きていくだけでなく、“誇りを持って働けます”」
その言葉に、彼女は深く頭を下げた。
次々と相談は続いた。
薬草に詳しい女性。
測量が得意な女性。
文字を教えることを望む女性。
どの顔も、かつての王宮であれば弾かれていたであろう姿だった。
だが、ここでは「問い」はひとつだけだった。
――何ができるか。
その潔さに、ミリアは徐々に息がしやすくなっていくのを感じていた。
***
午後、クララに連れられ、ミリアは実際の作業場を見学した。
まず訪れたのは、縫製工房だ。
広い室内には女たちが並び、布を裁ち、針を走らせ、型紙を確認し合っている。
空間には真剣な空気が満ちており、誰ひとり無駄口を叩いていなかった。
「ここは公爵領の衣料をほぼ一手に担っている場所よ」
「男の服も……ですか?」
「もちろん。でも、縫うのは女。管理するのも女。決定するのも女」
クララはさらりと言った。
そこに立っていた年配の女性が近づいてきた。
尖った輪郭、過度に細い体つき、王都なら“骸骨女”と蔑まれる顔だ。
「あなたが新しい相談係ね」
「はい、ミリアと申します」
「私はエルナ。この工房を預かっています」
その声には、確かな誇りがあった。
「ここではね、顔の形なんて誰も見ない。
見るのは糸の通し方と、布への向き合い方よ」
ミリアは深く頷いた。
「……とても美しい仕事です」
「はは、そう言われると悪い気はしないね」
エルナの笑顔は、不思議なほど柔らかかった。
***
次に案内されたのは農業区だった。
広大な畑に並ぶのは、すべて女性の姿。
土に手を突き、苗を植え、魔導で水の流れを制御し、成長を見守っている。
「男は畑には立ち入りません」
クララが説明する。
「この土地の管理は、完全に女たちのものです。
種の配分も、水の量も、収穫の判断も」
「……王都では考えられませんね」
「ええ。
王都では男の指示なしでは畑も動かない。
けれどここでは違う。女たちが“主体”なの」
畑の中から一人の女性が声をかけてきた。
「ミリアさんですよね? 王宮から来たって」
「はい、まだ勉強中ですが」
「なら、よく見ておいた方がいいですよ。
ここでは“顔”なんて関係ありません。
土が応えてくれるかどうか、それだけです」
その女性の顔は、あまりに整いすぎ、まるで彫刻のようだった。
王都基準では“作り物じみて醜い”とされる相貌。
だがその目は生き生きとしていた。
(この人たちは……)
自分の力で、自分の場を守っている。
誰にも与えられたわけではない。
誰かに媚びるためでもない。
ただ、生きるために。
それがどれほど尊いことかを、ミリアは初めて知った。
***
夕刻、局へ戻る道すがら、彼女は立ち止まった。
遠くの丘に沈みゆく夕日が、公爵領を包み込んでいる。
(私はここで……何を見ているのだろう)
今までの常識が崩れ、価値の基準が塗り替えられていく感覚。
それは恐怖ではなく、解放に近かった。
夜、日誌を開いた。
『今日、私は知った。
ここでは、女が世界を動かしている。
だがそれは、男の代わりではなく、自分自身の意思によってだ』
さらに書き足す。
『顔を理由に蔑まれてきた者ほど、強い。
その強さが、この領を形作っている。
私は今、その輪の中に立たせてもらっている』
ペンを止め、窓の外を見つめた。
もう王宮には戻れない。
戻りたいとも思わない。
(私はここで、生きる)
それは決意ではなく、自覚だった。
***
その日の夜、ミリアはふと、昼に見た畑の女性の言葉を思い出していた。
『土が応えてくれるかどうか、それだけです』
自分に応えてくれる場所がある。
それが、何よりの誇りなのだと今はわかる。
眠りにつく直前、ミリアは静かに呟いた。
「私は……この誇りを、守りたい」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、ただ己の胸に刻まれた。
ここ、公爵領で。
女たちの手によって築かれる、新しい時代の中で。
ミリアの価値観は、今確かに変わりつつあった。
顔ではなく、意志で。
与えられるのではなく、選び取ることで――。
働く誇りは、静かに彼女の中で芽吹いていく。




