第二章 第23話 ミリアの居場所
第二章 第23話 ミリアの居場所
婚約の報せが王都に届いてから、もう三ヶ月が過ぎた――と、ミリアは朝の光の下でふと気づいた。
アルディス公爵領の朝は、王宮のそれとはまるで違う。
金の装飾も、宝石のきらめきもない。けれど、窓の外には早くから動き出した人々の声があった。荷車の軋む音、鍛冶場から響く金属音、遠くで子どもの笑う声。
そのすべてが、ミリアには心地よかった。
(ここで、私は“働く”のね)
与えられた客室の小さな鏡に自分の姿を映しながら、ミリアは深く息を吸い込んだ。
王宮にいた頃と同じ、控えめな化粧。丸みのある顔立ち、艶を保つための油。
この国の基準で言うなら「美しい側」の女――そのはずなのに、今はそのことが以前ほど重要に思えない。
今日は、公爵邸での正式な職務について説明を受ける日だ。
レオンからの返書には、短くこう書かれていた。
『女性たちのための仕組みを整える。
その補佐として働いてほしい』
(女性の、ために……)
王宮では、女性は常に「男性のため」に動いていた。
服も、化粧も、所作も、すべては男を喜ばせるため。
美しく、従順であることが女の価値だと、疑いもしなかった。
けれどあの男は、はっきりと言ったのだ。
――公爵領は逃げ場じゃない。
だが、自分の力で生きたい者には門を開いている。
(なら、試さないと)
ミリアは衣の襟を整え、部屋を出た。
***
公爵邸の一室――執務棟の一階にある会議室には、すでに数人の女性が集まっていた。
年齢も、雰囲気もばらばらだ。だが共通しているのは、その顔立ちだった。
細く整った輪郭。
白く、傷の少ない肌。
控えめな化粧か、あるいは化粧などしていない者もいる。
王都であれば、「醜女」と真っ先に指さされる顔ぶれだ。
(これほどの数が……一つの部屋に)
ミリアは思わず、胸の奥で小さく感嘆した。
「ミリアさんですね。ようこそいらっしゃいました」
声をかけてきたのは、柔らかい雰囲気の女性だった。
髪を後ろでまとめ、質素な上衣を着ているが、その身のこなしには妙な落ち着きがある。
「私はクララ。女性支援局のまとめ役をしています。局、といってもまだ名ばかりですが」
「女性支援……局」
ミリアは聞き慣れない言葉を反芻した。
クララはくすりと笑う。
「“女性が自分の足で立つための、窓口と仕組みを作る場所”――くらいに思ってください。
今日からあなたには、そこを一緒に整える補佐役をお願いしたいのです」
まさしく、レオンが書いてよこした言葉の中身そのものだ。
「……はい。よろしくお願いいたします」
ミリアが頭を下げると、部屋の中にいた女性たちが一斉に視線を向けてきた。
敵意はない。だが、好奇と警戒がないまぜになった目だ。
「王宮の女官様なんでしょう?」
「本当に、こっち側に来ちゃったんだ……」
「すごい度胸だよね」
ひそひそとした囁きがミリアの耳に届く。
その内容は刺々しいものではなく、驚きと戸惑いが混じったものだった。
クララが手を叩いた。
「はい、静かに。
あらためて紹介します。彼女はミリア。元王宮の高位女官です。
でも、ここでは“王宮”は関係ありません。ここでは――」
クララはミリアの方を見て、微笑んだ。
「ここでは、あなたが“何をしてくれるか”だけで判断します」
その言葉に、ミリアの胸がかすかに震えた。
顔でも、出自でもなく、すること――。
(本当に、そんな世界が……)
信じたい。だが、長年染みついた感覚は簡単には消えない。
ミリアは僅かに息を整え、椅子に腰を下ろした。
***
午前中は、書類の確認が中心だった。
女性支援局が扱う案件は多岐にわたる。
職の斡旋、住居の紹介、技能教育の案内、子どもの預かり、暴力被害からの避難――。
ミリアは目を通すたびに、驚かされることが多かった。
「これは……“夫から殴られた女性の保護申請”?」
「ええ。レオン様の方針で、一定の条件を満たせば保護対象になります」
クララは淡々と説明する。
「男は……罰せられるのですか?」
「状況によりますが、少なくとも“好き勝手してもいい存在”ではなくなりました」
王宮にいた頃、「男が手を上げた」という話は何度も耳にした。
だが、そのたびに口を揃えて言われたのは――
『妻にも非があったのだろう』
『男の機嫌を損ねるなど、女として失格だ』
それが、この国の“常識”だった。
「ここでは、女にも正当な訴えが許されます」
クララの言葉に、ミリアは思わず首を傾げた。
「どうして、そこまで……?」
「簡単なことです」
クララは机に視線を落としながら、穏やかに言った。
「レオン様が、“それが当たり前だ”とおっしゃったから」
(当たり前……?)
ミリアにとって、その言葉は衝撃だった。
長年、王宮で「常識」とされていたものが、ここでは“間違い”として扱われる。
その違いが、体の中にじわじわと染み込んでくる。
午前が終わる頃には、頭がじんじんしていた。
「少し、外の空気を吸いましょうか」
クララが気を利かせ、ミリアを庁舎の外へ連れ出してくれた。
***
外に出ると、日差しはすっかり初夏のものになっていた。
公爵領の中央通りは、昼の前だというのに活気で満ちている。
大きな荷車を押す女性。
市場で客とやりとりする商人の女。
子どもを抱きながら文書を届け走る若い女。
その中には、王都なら「顔が整いすぎて気味が悪い」と嘲笑される女性たちも多くいた。
尖った顎、細い首筋、無駄のない身体つき。
ミリアから見れば“自然でバランスのとれた美しさ”だが、
この国の基準から外れた“醜女”。
だが、誰ひとりとして俯いていない。
堂々と顔を上げ、誰かの役に立つ仕事をしている。
そんな光景が、ミリアにはひどく眩しく見えた。
「……あの、あそこで?」
ミリアが思わず指差したのは、工房前で大きな部品を担いでいる少女だった。
年若いが、動きに迷いがない。
額に汗をにじませ、仲間と笑い合いながら材木を運んでいる。
「ああ、あれはソフィアさんの工房の子ですね。弟子の一人ですよ」
クララが頷く。
「ソフィア……“あの”?」
「ええ。噂の発明娘です。
詳しくは、いずれ直接お会いになる機会もあると思いますよ」
ミリアはじっと、その少女を見つめ続けた。
彼女は、王宮にいた頃なら間違いなく「醜女」として石を投げられていた容姿だ。
だが今、彼女は――尊敬の眼差しを向けられている。
工房の前を通る女性たちが、自然と頭を下げていく。
誰かが声をかけた。
「この前の灯り、助かったよ。夜の作業がすごく楽になった」
「本当にありがたいわ。ソフィア様にくれぐれもよろしく」
(様……)
その言葉に、ミリアは思わず胸の奥で呟いた。
王都では決して結びつかなかった呼び名。
“醜女”と“様”が並ぶなど、ありえないはずの光景。
しかしここでは、それが自然なのだ。
「ねぇ、クララさん」
「はい?」
「ここでは、本当に……顔で人を判断しないのですね」
クララは少しだけ目を丸くした後、ふっと笑った。
「そうなりつつある、というところでしょうか。
まだまだ反発もありますよ。特に男たちなんて、ね」
クララはいたずらっぽく肩をすくめる。
「でも、少なくとも“公爵様の目”は誤魔化せません。
顔で得していた人には、窮屈な時代でしょうね」
「……あの方の、目」
ミリアは、王宮で初めてレオンに会った日のことを思い出した。
あの時、彼の視線には欲望も所有欲もなく、ただ「どう生きるか」を見定めるような静けさがあった。
(あの目の前に、私は今――)
寒気にも似た感覚と、妙な安心が同時に湧き上がる。
クララが空を見上げた。
「ミリアさんは、ここで何をしたいですか?」
唐突な問いだった。
「……私は」
答えに詰まりそうになり、ミリアは一度息をついた。
「王宮にいた頃は、“与えられた役目をこなすこと”しか考えていませんでした。
誰かの気分を損ねないように、怒りに触れないように、それだけを」
言いながら、自分でその情けなさに胸がちくりとした。
「でも、ここでは……
“自分の足で立とうとする女性たち”を支えたいと、思いました」
ミリアの口からこぼれた言葉に、自分自身が少し驚いた。
(そう。私は――支えたいんだ)
王宮で見てきた無数の女たちの顔が、心の中で一瞬よぎる。
笑わない笑顔、諦めた瞳、男に媚びるためだけに整えられた姿。
ああはなりたくない。
そう口に出せなかった自分から、ようやく一歩離れた気がした。
クララは満足そうに頷いた。
「いい答えですね。
なら、あなたにぴったりの仕事があります」
「ぴったりの……?」
「女性たちからの相談窓口です。
職を探す人、住む場所を失った人、夫から逃げたい人……
彼女たちの話を聞き、必要な部署へ繋ぐ係」
ミリアは思わず目を見開いた。
「私に、務まるでしょうか」
「王宮で散々、人の顔色を読み、言葉を選んできたのでしょう?
それは立派な経験です。
あとは、“相手を男ではなく女として見ること”に慣れれば完璧です」
クララの軽口に、ミリアは小さく笑った。
「……それなら、やってみたいです」
「決まりですね」
クララは手を差し出した。
「これからよろしくお願いします、ミリア。
――ここが、あなたの新しい居場所です」
その手を握った瞬間、ミリアの胸に温かいものが広がった。
(ここが……私の居場所)
王宮で感じたことのない感覚だった。
飾りではなく、役割としての自分。
顔ではなく、果たすことに意味がある自分。
その実感に、ミリアは静かに目を閉じた。
初夏の風が、公爵領を吹き抜けていく。
それは、新しい時代の始まりを告げる風のようにも感じられた。
***
その日の終わり、ミリアは小さな机に向かい、日誌を開いた。
『本日、正式に女性支援局の一員となる。
相談窓口を任されることになった。
私は、人の話を聞くことしかできないかもしれない。
だが、それでもいいと思えた』
ペン先を止める。
窓の外には、まだ工房の灯りが揺れていた。
ソフィアの工房だろう。遅くまで働くので有名だと聞いた。
(いつか、あの人とも話してみたい)
そんなことを考えて、ミリアはふっと笑った。
『この場所で私は、“誰かの役に立ちたい”と初めて願った。
それを叶えるために、私はここに来たのだと思う』
書き終え、そっと日誌を閉じる。
公爵領での一日目が終わる。
だが、ミリアの人生はようやく“始まった”ばかりだった。
胸の奥には確かな実感がある。
(私は――ここで生きていける)
そう思えたことが、何よりも嬉しかった。
その夜、ミリアは久しぶりに、夢も見ずに深く眠った。
彼女の知らないところで、公爵領という新しい世界は、確かに動き始めている。
“美”ではなく“生き方”で人が選ばれる社会へと、静かに、しかし着実に。
ミリアが「王宮の女官」から、「公爵領の一員」へと完全に足を踏み入れる回でした。
役割を与えられるのではなく、自分で選び、そのうえで「そこにいていい」と言われる――
彼女にとって、それがどれだけ大きな意味を持つかを中心に描きました。
次回は、彼女が実際に「相談窓口」として女性たちの声を聞き始め、
醜女たちの具体的な才能や“働く誇り”に触れる一日を描いていきます。




