第五章 第15話 選び続ける世界
第五章 第15話 選び続ける世界
朝は、特別な音もなく始まった。
鐘は鳴らず、号令もない。公爵領の街は、いつも通りの速度で目を覚ます。市場に向かう足音、学舎の扉が開く音、工房で火が入る気配。それらは祝祭のための準備ではなく、生活そのものだった。
レオンは高台の回廊に立ち、街を見下ろしていた。
この場所に立つのも、いつの間にか習慣になっている。何かを監督するためではない。確認するためでもない。ただ、同じ時間に、同じ景色を見るためだ。
(……ここまで来たな)
胸に浮かぶのは達成感ではなかった。
終わった、という感覚でもない。
続いている――それだけだ。
背後から足音が近づく。振り返るまでもなく、誰だか分かる。
リリアナが、少し離れた位置で立ち止まった。
王女の装いはもうない。だが、姿勢には揺るぎがない。王家の血ではなく、日々の選択が作った立ち姿だった。
「王都から、最後の報せが来ました」
「内容は?」
「関与しない、とのことです。
干渉もしないし、承認もしない。
……黙る、という選択ですね」
レオンは頷いた。
「それで十分だ」
続いてマリアが現れる。帳簿は持っていない。今日は、数字を持ち歩く必要がなかった。
「周辺国との取引、安定しています。
模倣も増えていますが、形だけのものがほとんどです」
「問題は?」
「ありません。
続かないものは、自然に消えます」
ソフィアは工房から直接来たのだろう、指先に油の跡を残したままだ。
「新しい設計、私が知らない改良が入ってた」
「それはいいことか?」
「うん。
もう、“私のもの”じゃないから」
カトリーナは最後に現れ、周囲を一瞥してから短く報告する。
「治安、安定。
特別な警戒は不要です」
五人が並ぶ。
誰も前に出ない。
誰も後ろに下がらない。
その距離が、今の関係をよく表していた。
しばらく、誰も話さなかった。
沈黙は重くない。確認する必要のあることは、もう共有されている。
遠く、街の方から子どもたちの笑い声が聞こえる。
その中に、男の声も女の声も混じっているが、区別する意味はない。
「……結婚式は?」
ソフィアが、ふと思い出したように言った。
マリアが一瞬だけ眉を上げる。
「必要?」
リリアナは、静かに首を振った。
「選ばれた証明は、もう要りません」
カトリーナも頷く。
「誓いは、毎日している」
レオンは、そのやり取りを聞きながら、微かに笑った。
「なら、これまで通りでいい」
誰かが上に立つための儀式は要らない。
誰かに認められるための形も要らない。
この場所にあるのは、関係の完成ではなく、更新だ。
午後、レオンは街を歩いた。護衛はいない。必要がない。
市場では女性たちが値を決め、工房では若い者たちが議論している。男は少ないが、尊大な態度は見当たらない。並んでいるだけだ。
ふと、見覚えのある顔が頭を下げた。
「ここに来て、楽になりました」
男だった。
かつては、選ぶ側であることにしがみついていた者だ。
「何が?」
「選ばなくていいことが」
レオンは、それ以上聞かなかった。
答えは、もう出ている。
夕暮れ、公爵領に灯りがともる。
その光は、王都のように誇示するためのものではない。帰る場所を示すための、穏やかな灯りだ。
高台に戻ると、四人がすでにそこにいた。
並んで、同じ方向を見ている。
「……世界は、どうなると思う?」
誰かが聞いたわけではない。
それでも、レオンは答えた。
「分かれ続ける」
「争いは?」
「起きる場所もあるだろう」
「それでも?」
「それでも、ここは続く」
リリアナが、小さく息を吸う。
「選ばれる世界には、戻らない」
「戻らない」
マリアが確認するように言い、ソフィアが笑う。
「じゃあ、次を作ろう」
カトリーナは、静かに頷いた。
レオンは、その背中を見ながら思う。
(王にならなかった。
英雄にもならなかった)
ただ、基準を置いた。
選べるようにした。
それだけで、世界は変わり始めた。
夜風が、回廊を抜ける。
遠くで、誰かが今日の仕事を終え、明日の準備をしている。
選ばれる時代は、終わった。
だが、答えが出たわけではない。
選び続ける世界が、始まっただけだ。
そして――
この世界は、もう元には戻らない。
それでいい、と
誰もが静かに知っていた。
後書き
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この物語は、誰かに選ばれるために生きる世界から、
自分で選び続ける世界へと静かに移っていく、その過程を描いてきました。
大きな戦争も、派手な革命もありません。
けれど、価値観が一度ひっくり返ると、元には戻らない――
そんな「取り返しのつかない変化」を、登場人物たちの日常と選択の積み重ねで表現したかったのです。
レオンは英雄ではありません。
誰かを救い上げる救世主でもない。
ただ、自分の感覚を曲げず、基準を示し、押しつけなかっただけです。
それでも世界は変わりました。
変えたのは彼一人ではなく、彼の隣に立つことを選び続けた人たちでした。
リリアナは血や役割から降り、
マリアは有能さの鎧を脱ぎ、
ソフィアは「自分の成果」を手放し、
カトリーナは剣を掲げる位置を変えました。
彼女たちは“選ばれた”のではなく、
“自分で選び続ける側”になったのだと思います。
そして、選ばれる側でいることをやめられなかった人たちも、
否定も断罪もされませんでした。
ただ、世界が先に進んだだけです。
この物語が描いたのは、正しさの勝利ではなく、
「立ち位置を選び直す自由」です。
もしこの物語を読み終えたあと、
自分は今どこに立っているのか、
何を基準に選んでいるのか、
少しだけ考えるきっかけになったなら――
それ以上の喜びはありません。
最後まで、本当にありがとうございました。




