第五章 第12話 マリアの沈黙
第五章 第12話 マリアの沈黙
マリア・グレイスは、書類に向かっている時間が一番落ち着いた。
数字は嘘をつかない。
条件を揃え、因果を切り分け、結果を積み上げれば、必ず答えに辿り着く。感情の介在しない世界は、彼女にとって安全だった。
今日も執務机の上には、各区画から集まった報告書が整然と並んでいる。財政、人口、教育、医療。どれも安定し、特筆すべき異常はない。
――だからこそ、彼女は手を止めていた。
(私が、やらなくても回る)
その事実を、ここ最近、何度も突きつけられている。
かつての自分なら、それは誇りだった。
「代わりがいない」という状況は、有能さの証明だったからだ。
だが今は違う。
代わりがいない状態は、危うい。
依存が生まれ、停滞が生まれる。
彼女自身が、それを誰よりも理解していた。
扉を叩く音がして、若い女性職員が顔を出した。
「マリア様、先日の分散案ですが……
第三案で進めても、問題ないでしょうか」
「……ええ。
むしろ、私の確認を外して」
職員は一瞬、戸惑った。
「ですが、それは……」
「責任が曖昧になりますか?」
マリアは視線を上げる。
「なら、責任の線を太くしましょう。
判断権は現場、結果の説明は私。
それで十分です」
職員は深く頷き、去っていった。
机の上に残された静けさの中で、マリアは小さく息を吐く。
(……私は、必要とされたいわけじゃない)
必要とされることに慣れすぎていただけだ。
午後、執務を終えたマリアは、珍しく一人で街を歩いた。
市場では女性たちが値を決め、工房では新しい工程が試されている。そこに、彼女の指示はない。
それでも、秩序は保たれている。
通りの一角で、二人の女性が言い争っていた。
だが声は荒れていない。
「その配置だと、私の工程が詰まる」
「じゃあ、午後は私が引き受ける」
簡単なやり取りで、解決する。
(……私が教えたやり方ね)
胸の奥に、かすかな温かさが広がる。
同時に、居場所が薄れていく感覚もあった。
それを自覚した瞬間、マリアは足を止めた。
(私は……)
有能であることでしか、価値を示してこなかった。
無愛想だと噂され、男受けしないと嘲笑されても、気にしなかった。
仕事ができる。それで十分だったからだ。
――それで、本当に十分だったのだろうか。
夕刻、公爵邸の回廊で、レオンとすれ違った。
「……少し、話せますか」
自分から声をかけることは、珍しい。
「もちろん」
二人は中庭に面したベンチに腰を下ろした。
しばらく、沈黙が続く。
「私は……」
言葉が、思った以上に重かった。
「ここでは、もう“必要不可欠”ではありません」
「そうだな」
レオンは否定しない。
その即答に、胸が少しだけ痛んだ。
「不満ですか?」
「……いいえ」
マリアは首を振る。
「合理的です。
私がいなくても回る組織は、強い」
「それでも、何か引っかかっている」
レオンの言葉は、静かだった。
マリアは視線を落とし、しばらく考える。
「私は……
“一緒にいる理由”を、仕事で説明しようとしていました」
「それは?」
「必要だから。
役に立つから。
代わりがいないから」
どれも、事実だった。
だが、それだけでは足りない。
「それは、私が選ばれる理由であって……
私が選ぶ理由ではありません」
言葉にした瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
レオンは、何も言わずに待っている。
「私は、有能でありたい。
でもそれ以上に――」
マリアは、ゆっくりと顔を上げた。
「ここに、いたい」
それは、感情だった。
合理性では説明できない、初めての動機。
「役に立たなくなっても?」
「その時は、別の形で立ちます。
……それでも隣にいられるなら」
沈黙が落ちる。
だが、拒絶の気配はない。
「並ぶ、ということだな」
レオンが言う。
「ええ」
マリアは、初めてはっきりと頷いた。
「上でも下でもなく。
必要だからでもなく。
選び続けるから、並ぶ」
それは、彼女にとって大きな一歩だった。
夜、公爵邸に灯りがともる。
マリアは書斎に戻り、机の上の帳簿を一度閉じた。
(私は、沈黙で価値を示してきた)
だが、これからは違う。
言葉にしなくてもいい。
けれど、逃げない。
選ばれるために働くのではない。
選び続けるために、ここに立つ。
その決意は、静かだが確かだった。




