第五章 第11話 リリアナという選択
第五章 第11話 リリアナという選択
朝の光が、公爵邸の回廊を静かに満たしていた。
窓辺に立つリリアナは、外を見下ろしながら、しばらく動かなかった。庭では女官たちが仕事を始め、遠くでは街が目を覚ましつつある。その光景は、もはや彼女にとって特別なものではない。ここでの日々は、王女として過ごした王城の時間よりも、ずっと自然に体に馴染んでいた。
(私は、もう“第三王女”ではない)
そう思っても、胸に痛みはなかった。
かつて“骸骨のよう”と蔑まれ、矯正の対象とされ、情けで誰かに嫁がされる未来を用意されていた自分。その役割は、いつの間にか消えていた。消されたのではない。自分で、降りたのだ。
扉を叩く音がする。
「入ってくれ」
レオンの声だった。
執務室に入ると、彼は机の前ではなく、同じように窓辺に立っていた。向かい合う形になるが、距離は不思議と近すぎない。
「話がある、と聞いた」
「ええ」
リリアナは頷いた。
言葉を用意してきたはずなのに、すぐには出てこない。
沈黙が流れる。だが、気まずさはない。
「……王都から、正式な通達が来ました」
「内容は分かっている」
「はい。
王族としての立場に戻る意思はあるか、という確認です」
それは命令ではない。
だが、戻ることが“正しい選択”だという前提で出された問いだ。
「答えは?」
レオンは、促すように聞いた。
リリアナは、視線を外に向ける。
街の中で、女性たちが荷を運び、学舎に向かう子どもたちが走っている。その中に、誰も彼女を“王女”として見上げている者はいない。
「……戻りません」
声は静かだった。
「王族としての役割は、もう私には必要ありません。
ここでは、血ではなく姿勢で立てる」
「後悔は?」
「ありません」
即答だった。
王女という肩書きは、守りでもあり、枷でもあった。
それを失うことへの恐怖は、すでに越えている。
「私は、ここで生きたい。
誰かに選ばれる存在としてではなく、
選び続ける一人として」
レオンは、しばらく何も言わなかった。
彼女の言葉を測るようでも、試すようでもない。ただ、受け取っている。
「……俺は、君を選んだ」
やがて、彼はそう言った。
リリアナは、わずかに首を振る。
「いいえ。
それだけでは、足りません」
レオンの視線が、彼女に戻る。
「私は、選ばれただけの立場には戻りたくない。
あなたの隣に立つなら――
同じように、選び続けたい」
それは要求ではない。
宣言だった。
「あなたが変わるなら、私も変わる。
あなたが立ち止まるなら、私も立ち止まる。
でも、どちらかが上に立つことは、ありません」
しばらくの沈黙。
レオンは、ふっと息を吐いた。
「……それでいい」
短い言葉だったが、重みがあった。
「俺は、守るつもりはない」
「ええ」
「導くつもりもない」
「承知しています」
「ただ、同じ方向を見る」
リリアナは、ゆっくりと頷いた。
「それで、十分です」
二人は並んで窓の外を見る。
肩が触れ合うほど近いが、寄りかかることはない。
(この距離だ)
リリアナは思う。
守られる距離でも、引き上げられる距離でもない。
歩幅を揃えられる距離。
かつての自分は、選ばれることだけを期待されていた。
だが今は違う。
選ぶ責任を引き受ける。
選び続ける覚悟を持つ。
それが、彼女の選択だった。
その日、王都へ送られた返書は短い。
第三王女リリアナは、王家の庇護を辞退する。
理由は記さず、今後の関与を求めない。
簡潔で、曖昧さはない。
夕暮れ、公爵領に灯りがともる。
街はいつも通りだ。誰も、王女が“選んだ”ことを知らない。
だが、リリアナは確信していた。
(私は、ここに立っている)
選ばれたからではない。
自分で選び続けると決めたから。
それが、
リリアナという一人の女性が、この世界に立った瞬間だった。




