第五章 第8話 揺らぐ「美」の座標
第五章 第8話 揺らぐ「美」の座標
違和感は、数字の外側へ滲み出していった。
医療局の報告は、まだ公表されていない。だが噂は、数字よりも早く広がる。理由は単純だった。人々が“肌で感じ始めた”からだ。
王都では、若い女性たちの間に小さな混乱が生まれていた。
これまで通り、化粧は濃く、装いは華美に。食事は控えめで、肌を白く保つために薬草を使い、体型を崩さないように無理をする。それが「正しい努力」だったはずなのに――最近、選ばれない。
男たちの視線が、以前ほど集まらなくなっている。
「……どうして?」
鏡の前で呟く声が、増えていた。
理由は説明されない。
誰も「美しくない」とは言わない。
ただ、反応が薄い。
一方で、奇妙な話が囁かれ始める。
「公爵領では、化粧をしない女が評価されているらしい」
「太っても痩せても、誰も気にしないとか」
「それなのに……男の子が生まれてるって」
噂話は、笑い話として消えない。
むしろ、不安を煽る。
王都の社交場では、変化が顕著だった。
これまで注目を浴びていた女性たちが、居心地の悪さを覚え始める。理由は分からない。ただ、空気が違う。
「……あの人、前はもっと人気だったのに」
そんな囁きが、本人の耳にも届く。
美しさは、座標を失い始めていた。
公爵領では、同じ時期、別の変化が起きていた。
化粧品の売り上げが落ち、代わりに医療用品と日用品が増えている。服の流行も変わった。動きやすさと耐久性が重視され、装飾は控えめだ。
それでも、街の表情は明るい。
ミリアは市場を歩きながら、その変化を数字ではなく空気として感じ取っていた。
(“美”が消えているんじゃない……
基準が、動いている)
学舎では、少女たちの話題も変わっていた。
「将来、何になる?」
「何ができるようになりたい?」
かつては「誰に選ばれるか」が中心だった問いが、いつの間にか姿を消している。
その日の午後、視察中の他国の女性官僚が、ミリアに率直な疑問を投げかけた。
「こちらでは……美しい人が、不利になることはありませんか?」
「不利にはなりません」
ミリアははっきり答えた。
「ただ、“それだけ”では評価されないだけです」
官僚は言葉を失い、しばらく考え込んだ。
「……それは、恐ろしいですね」
「そうですか?」
「ええ。
美しさに賭けてきた人生が、突然、保証されなくなる」
ミリアは頷いた。
「だから、揺れているのです」
公爵領では、誰も“美”を否定していない。
ただ、それを通貨にしないだけだ。
同じ頃、レオンは丘の上で街を見下ろしていた。
彼の耳にも、王都の噂は届いている。
(美が、価値でなくなり始めている)
それは革命ではない。
誰かが奪ったわけでも、壊したわけでもない。
価値の交換レートが、静かに変わっただけだ。
男たちも、戸惑っている。
選ぶ側であり続けた彼らは、基準を失いかけている。
「どの女を選べばいい?」
その問い自体が、もう古い。
選ばれる理由が、顔立ちから、生き方へ移行しているのだから。
夕暮れ、公爵領の路地で、数人の女性が笑い合っていた。
肌は荒れている者もいる。体型も様々だ。
だが、誰も自分を隠そうとしない。
その姿を見て、レオンは確信する。
(戻らないな)
美は消えない。
ただ、座標が変わった。
選ばれるための美から、
生きるための美へ。
世界は今、その位置を見失い、揺れている。
だが、その揺れは破壊ではない。
次の基準を探すための、必然だった。




