第五章 第5話 並ぶという距離
第五章 第5話 並ぶという距離
公爵邸の朝は静かだった。
廊下に響く足音は少なく、執務室の扉もまだ閉じられたまま。庭では女庭師が低木を整え、露を払う仕草に無駄がない。ここでは、急ぐ必要のある者だけが急ぐ。そうでない者は、自分の速度で動く。
レオンは書斎の窓辺に立ち、庭を眺めていた。
街は落ち着いている。秩序は保たれ、誰も彼の判断を待っていない。胸に浮かぶのは安堵ではなく、確信だった。
(……並べている)
それは支配が解けたという意味ではない。
依存が薄れたという意味だ。
扉を叩く音がして、リリアナが入ってくる。手には簡素な報告書。王女としての装いはなく、執務に適した服だ。
「行政区の調整、完了しました。
今後は私が直接確認しなくても回ります」
「任せすぎじゃないか」
「いえ。
“見ない”ことも、責任だと学びました」
リリアナの言葉は、静かだった。
かつて、誰かの評価を恐れて背筋を固めていた面影はない。今は、判断を委ねることができる。
「王族としての役割は?」
レオンの問いに、リリアナは少し考えた。
「……もう、要りません。
必要なら、ここに立ちます。でも、立たなくていいなら、降ります」
それは放棄ではなく、選択だった。
続いてマリアが入る。帳簿を机に置き、短く要点だけを述べる。
「財政は安定。
ただし、私がいなくても回る体制に移行します」
「不満は?」
「あります」
即答だった。
「“私がいる方が効率がいい”。でも、それは依存を生む」
レオンは頷いた。
「並ぶための距離、か」
「ええ。
近すぎても、遠すぎてもいけない」
マリアは珍しく、言葉を選んでいた。
感情ではなく、関係の話をしている。
昼前、工房区画から戻ったソフィアが、油のついた指先を見せて笑う。
「子どもたちがね、“次は何を作るの?”って聞いてきた」
「答えたのか」
「“一緒に考えよう”って」
それで十分だ、とソフィアは言う。
未来を独占しない。更新し続ける余白を残す。
「私が全部決めたら、楽なんだけどね」
「楽な方を選ばないのは、なぜだ」
「……私が楽になると、止まるから」
言い切りに迷いはない。
彼女はすでに“伴走”を選んでいた。
午後、カトリーナが巡回から戻る。報告は短い。
「治安は良好。
自警の連携が機能している。私の出番は減った」
「不満か?」
「いいえ」
カトリーナは首を振った。
「守る者が減るのは、守られなくなったからじゃない。
守れる者が増えたからだ」
力を誇示しない強さ。
それが、この領での彼女の役割だった。
夕方、五人は執務室に揃った。
議題はない。ただ、確認があるだけだ。
「……もう、私がいなくても進む」
レオンが言うと、誰も否定しなかった。
「それでも、いる」
リリアナが言う。
「並んで、ね」
ソフィアが続ける。
「必要なときだけ、前に出る」
マリアが補足する。
「背中は預ける。
上には立たない」
カトリーナが締めた。
短い沈黙の後、レオンは微かに笑った。
「それでいい」
夜、街に灯りがともる。
市場の喧騒は落ち着き、学舎の窓にだけ光が残る。誰かが遅くまで学び、誰かが試作を続け、誰かが帳簿を閉じる。
選ばれるために集まった人々は、もういない。
代わりに、選び続ける人々が、並んで立っている。
レオンは窓辺で、その光景を胸に刻んだ。
(上に立たない。
近づきすぎない。
離れすぎない)
並ぶという距離は、難しい。
だが、この距離なら、続けられる。
それが、この領の答えだった。




