第五章 第4話 名を取り戻す日
第五章 第4話 名を取り戻す日
公爵領の学舎の裏庭では、朝露がまだ芝に残っていた。
簡素な机が並べられ、紙と筆が配られる。集まっているのは、年齢も出身もばらばらな女性たちだ。誰も華やかな装いはしていない。だが、目だけは揃って前を向いている。
彼女たちは、かつて“醜女”と呼ばれていた。
言葉は軽い。だが、重ねられてきた時間は重かった。
顔立ちが整っていない、肌が荒れている、体型が理想から外れている――それだけで価値を否定され、学ぶ機会を奪われ、選ばれる場から弾かれてきた。
ここに来るまで、誰も彼女たちの名を覚えようとしなかった。
「では、今日の課題です」
教壇に立つ女性が言う。声は柔らかいが、曖昧ではない。
「自分の得意なことを、一つ。
“役に立つ”かどうかではなく、“続けられる”ことを書いてください」
紙の上で、筆が止まる。
得意なこと。続けられること。
どちらも、これまで考える必要がなかった問いだ。
(……何が、できる?)
指先が震える。
誰かの視線を気にしてきた癖が、まだ抜けない。
やがて、一人の女性が小さく息を吸い、書き始めた。
文字は拙いが、止まらない。
「帳簿を付けるのが好き」
「子どもに字を教えるのが得意」
「布を織るのが、落ち着く」
「薬草の匂いを覚えるのが早い」
内容は些細だ。
だが、誰にも奪えない。
ミリアは少し離れた場所で、その様子を見ていた。
介入はしない。必要ない。ここで大切なのは、彼女たちが“自分の言葉で名乗る”ことだ。
(名を、取り戻している)
王都では、彼女たちは一括りだった。
“選ばれない女”“醜女”“余り物”。
ここでは違う。名簿には、一人ひとりの名前があり、担当があり、役割がある。
昼休み、裏庭の隅で数人が輪になって座っていた。
食事は質素だが、会話は尽きない。
「最初は怖かったよ。ここ」
「私も。笑われると思ってた」
「でも、誰も顔を見ないね」
「見るけど、比べない」
その言葉に、誰かが頷く。
「……比べられないって、楽だね」
笑いが起きる。
自嘲ではない、初めての笑いだった。
午後、工房区画では新しい配置が始まっていた。
布を扱っていた女性が、染色の工程に移る。帳簿が得意だと書いた者は、流通の補助に回る。教えるのが好きだと言った者は、学舎の補助員になる。
適性は試す。
合わなければ、変える。
失敗は評価を下げない。情報として扱う。
それが、この領のやり方だった。
夕方、学舎の前で、ひとりの女性が立ち尽くしていた。
名をサーラという。王都では、露骨に避けられてきた顔立ちだ。肌は荒れ、頬は赤い。ここでも視線は感じる。だが、それは値踏みではない。
「……私、向いてなかったみたい」
ミリアに、サーラは正直に言った。
「何が?」
「帳簿。数字、苦手で」
「それで?」
「……やめても、いい?」
問いは震えていた。
“失格”を告げられる恐怖が、まだ体に残っている。
「いいわ」
ミリアは即答した。
「別のを試しましょう。
“向いてない”が分かったなら、前進よ」
サーラは、目を見開いた。
「……怒られないの?」
「怒る理由がない」
しばらくして、サーラは小さく笑った。
「じゃあ……料理、試してみたい」
「いい選択ね」
その日の帰り道、サーラは市場の灯りを見上げた。
胸の奥に、熱が灯っている。
(私、名前がある)
それは大げさな発見だった。
だが、確かな事実だ。
夜、公爵邸の書斎で、レオンは報告を受けていた。
数字も、配置も、順調だ。
「問題は?」
「ありません」
ミリアが答える。
「……あるとすれば、慣れるのに時間が要ることくらい」
「それは、問題じゃない」
レオンは首を振った。
「時間は、使えばいい」
窓の外、学舎の灯りはまだ消えていない。
誰かが、今日初めて自分の名を書いた夜だ。
選ばれなかった者たちが、
選ばれなくても生きられる場所で、
名を取り戻していく。
その積み重ねが、公爵領の静かな力になっていた。




