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『雨の土曜日』

作者: 小川敦人

『雨の土曜日』


雨音が窓を叩く音で目が覚めた。時計を見ると午前九時を回っている。土曜日の朝にしては早い方だが、隆介の体は平日のリズムから抜け出せずにいる。


カーテンを開けると、灰色の雲が空を覆い尽くしている。予報通りの雨模様だった。今日予定していた散歩も、書店巡りも、すべて取りやめになりそうだ。


「こんな日は家にいるに限る」


隆介はそう自分に言い聞かせながら、キッチンでコーヒーを淹れた。いつものマグカップに注がれた琥珀色の液体から立ち上る湯気が、雨の日の静寂を演出している。


リビングに戻ると、テレビは消えたまま黒い画面を向けている。いつもなら朝のニュースをつけるところだが、今日はなんとなくその気になれない。雨音だけが部屋を満たす自然な音楽として響いている。


隆介はソファに腰を下ろし、コーヒーカップを両手で包み込んだ。温かさが手のひらから伝わってくる。そして、ゆっくりと壁を見上げた。


いつもの絵画たちが、雨の日の薄暗い光の中で静かに佇んでいる。左上の馬の墨絵は、躍動感あふれる筆致で描かれているが、今日はどこか物憂げに見える。その下の狸の墨絵は「他を抜く」という縁起を担いで飾られているものの、雨の日には狸も少し寂しそうだ。


松井妙子の染色画三点は、それぞれが森の生き物たちの温かさを表現している。フクロウの賢そうな眼差し、カワセミの美しい羽根の色合い。布地に込められた作家の森への愛情が、雨の日の部屋に優しさを運んでくれる。


そして、右端に飾られた奈緒子の肖像画。


隆介の視線は、自然とその絵に向けられた。鉛筆で丁寧に描かれた女性の顔は、正面を向いて微笑んでいる。清楚な表情の中に、どこか遠くを見つめるような眼差しが宿っている。


「奈緒子さん…」


隆介は小さくつぶやいた。雨音にかき消されそうな声だった。


コーヒーをすすりながら、隆介はぼんやりと絵を眺め続けた。時間が止まったような静寂の中で、記憶が蘇ってくる。


雨の日は、なぜか感傷的になりやすい。外の世界から隔てられた室内で、人は自分の内面と向き合うことになる。隆介にとって、この絵画のある部屋は心の避難所だった。特に雨の土曜日のような、何もすることがない時間には。


隆介は、一人でソファに座り、壁の絵を見つめている。彼の心をなんとなく切なくさせた。


コーヒーカップを膝の上に置き、隆介は深くため息をついた。雨は相変わらず窓を叩き続けている。外の世界は水に濡れて、すべてがぼやけて見える。まるで隆介の心の中の想いのように。


「こんな日は、何も考えずにいよう」


隆介はそう決めた。一人でいることの寂しさも、すべて雨音に流してしまおう。絵画たちが見守る中で、ただぼんやりと時間を過ごそう。


松井妙子のフクロウが、まるで隆介の心境を理解するかのように優しく見つめている。森の知恵者として知られるフクロウの眼差しには、人生の機微を受け入れる包容力が宿っているように見えた。


隆介は再びコーヒーに口をつけた。少し冷めた液体が、雨の日の静寂に似た味わいを口の中に広げる。時計の針は、ゆっくりとした歩みで進んでいく。


この雨の土曜日は、きっと夕方まで続くだろう。隆介は絵画たちと、そして自分の心と向き合いながら、静かに時を過ごすことにした。奈緒子さんの肖像画が、そっと微笑みかけているような気がした。

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