沢のほとり(二)
暗くなるにつれ、沢の音が大きくなる。早く腰を上げないと帰途がさらに険しくなるのは目に見えているのに、動けない。
沢から土の上を這ってくる湿り気を帯びた空気に足首を掴まれた気がした。
「一緒に本家の蔵を見たの、ユタカだっけ、リョウちゃんだっけ?」
「俺」
あの時、何故か忘れたがリョウジはそこにいなかった。「遭難ごっこ」の、確か翌週あたり。座敷牢があった土蔵をこの目で見たいと、ハナの親戚の庭に忍び込んだのだ。
しかしそこは何の変哲もない倉庫となっていたから二人とも拍子抜けしたのを覚えている。
「ここに来る途中、自分を山犬と思い込んだ男の子のことを考えてたんだよね。はたから見れば不幸だけど、もしかしたら彼は幸せだったかもしれない。彼にとって座敷牢の中は楽園で、自由に駆け回っていたのかもなって。すぐ死んじゃった三人も、楽しい夢を見ながら天国に旅立ったのかもしれない」
俺は何も言わなかった。相槌は必要ないと思った。
梢によって不規則に切り取られた空には既に星が瞬いている。ここは清流と、星空くらいしか自慢できるものがない山奥なのだ。
「ユタカも知ってると思うけど、今日は何もかもうまくいかなかった。しかも帰りに急に車が変になって、外に出てみて、で、思い出した。ここ、昔三人で下った沢の上あたりじゃないかって。私、賭けをしたんだよね。下りて行って、もしこの実が見つかれば、つまりそれは、何か見えざるものの手によって導かれた結論である。私は死ぬべきだ」
「やめろって!」
ハナの手から手探りで草を奪い取った。草はブチッと音を立てて千切れたので、彼女の手をこじ開けて残りも思い切り放り投げた。
「お前、ホントはもう食ったんだろ、さっきの黒い実!」
俺はハナの髪の毛を掴んだ。
「今すぐ吐き出せ!」
斜面に体を押さえ付け、口の中に無理やり指を突っ込むが、抵抗するハナの膝に脇腹を思い切り蹴られた。俺は落ち葉の上にうずくまった。
どこかでバサバサと鳥か何かが飛び立つ音がした。
ハナは暗闇の中えずいている。やがて荒い息と共に言った。
「……嘘だよ」
「……は?」
どこからどこまでが嘘なのか。あるいはそのセリフ自体も嘘なのか。
「だってユタカ、さっき『黒い実』って言ったでしょ。本物は青かったよ……ごめんね、本物なら良かったのにって、つい嘘ついちゃった。だから、食べてないのはホント」
実の色のことなど記憶の彼方だ。
「……調べる」
コイツはもう信用できない。俺は脇腹を押さえつつポケットの中のスマホを探った。
「草の名前は?」
「知らない」
「クソッ」
考えてみれば、「本物」ではないさっきの草だって、毒ではない保証はない。
しかし『草』『実』『黒』などのキーワードで検索してみても、さっきハナが握りしめていた草らしき画像は見つからなかった。
必死にスクロールする横で、ハナは弾んだ声でこう提案した。
「多数決取ろう、リョウちゃんに聞けばいいんだよ」
ハナもスマホを取り出した。人工的な光に浮かび上がる嬉しそうな顔から俺は視線を逸らす。
長い長い呼び出し音の後、リョウジは出たようだ。
「ねぇリョウちゃん、昔、遭難ごっこの時に見つけた毒の実、何色だったか覚えてる?」
前置きもなく聞いている。
「……ね、そうだよね。ユタカにも言ってあげて」
ハナはこちらにスマホを差し出した。
「もしもし?」
『おうユタ坊。青じゃなかったっけ』
リョウジの少し投げやりに聞こえる声。
「……そうか」
『つーか、二人して何? 誰か毒殺でもす──』
俺は通話を切った。リョウジの声の向こうで「まだー?」という女の声がしたからだ。ハナに聞こえてないといいがと、この期に及んで思った。
「二対一で青に決定ね、これは偽物。だから私は賭けに負けたの」
「……そう」
釈然としない上、勝ち負けの基準がわからないまま答えた。
スマホの光が消えた。あたりは再び闇が支配する。残像が網膜の上でチカチカした。
「……なんでリョウジなんだよ。アイツ、ものすごく性格悪いぞ」
アイツ、お前が仕事をいつ辞めるかで仲間と賭けしてるぞ。
「知ってるよ」
「もっと自分を大事にしろよ」
お前が山から出ていくか、ニヤニヤしながら観察してるぞ。
「だって、好きになろうとして好きになったんじゃないから」
「あんなののどこがいいんだよ」
手首切ったりしたら面白いよな、とか平気で俺に言ってきたぞ。
「理屈じゃないんだよなぁ」
「俺じゃダメなのか」
「うんダメ」
「……即答キツいな」
「だって期待させたら逆にひどいでしょ」
「リョウジみたいに?」
返り討ちにしてやると、しばらくの間ハナは黙った。
「……ユタカは山、出ようと思ったりする?」
「いや。ハナがいるし」
「私たち、似た者同士だね」
「俺は失恋して毒草探しに行くようなメンヘラじゃない」
ハナはやけくそみたいに笑った。
俺達はやっと立ち上がった。
「よかったらまた釣り堀に来てね」
「行く」
「あ、でも今度の土曜は臨時休業だから気をつけて」
「珍しいな」
「リョウちゃんの両親、法事か何かで泊まりがけで出かけるらしくて」
「了解」
沢の音を背に、スマホのライトで照らしながら上へ上へ真っ直ぐに進むと、なんとか県道に突き当たった。
ハナの加入する自動車保険のロードサービスに電話をして俺の車で待つ。
ハナのまどろむ横で、俺は十七年も前の五月の出来事を反芻していた。だが肝心の毒草の部分だけは、やはり霞がかったように思い出せないのだった。足を浸した沢の水の冷たさも、肩まで腕まくりしたハナのドキリとするくらい白い肌も鮮明に覚えているというのに。
「遭難ごっこ」から派生して、三人で遊んだ思い出が次々と溢れてくる。
子どもであることに絶望するだけの知恵もなく、光は光として、影は影としてしか認識できなかった時代。あの頃が最高潮だったのは、俺も同じなのだ。
時々、ハナがきちんと呼吸をしているか口元に手を当て確かめる。彼女のおぼろげな横顔はあどけなく、かえって悲しかった。
山奥のことだから、業者が到着したのはかなりの時間が経ってからだった。車はエンジンが致命的なまでに故障しているとのことで、明日レッカー移動されることに決まった。
ハナの家の前で車をとめる。ハナは年老いた母親と二人暮らしだから、何かあっても一応は安心だろう。
「葉っぱついてる」
ハナは俺の髪に触れた。
「ありがとう。ごめんね、こんな遅くまで」
外に出たハナは車内を覗き込むようにして言った。
「別にいい」
「遭難ごっこ、またやろうね。今度は三人で」
妖艶に微笑んでいる。
「……は?」
助手席のドアをバン! と閉め、ハナが跳ねるように門をくぐるのが、星明かりにぼんやりと浮かび上がって消えた。