沢のほとり(一)
ガードレールに足を掛ける。
元は白色だったことが信じられないくらい苔と埃とにまみれたその上部には、四本のくっきりとした指の跡があった。俺は自分の指をそれにぴったりと合わせ、ガードレールの先へと体を投げ出した。
斜面を這い上る気の早い葛の蔓に足を取られかけたが、なんとか地面に両足をつく。
着地と同時に、長い年月をかけて降り積もった枯れ葉に足が滑った。斜面を少しばかり転げ落ちたところで、斜めに伸びる木に腕が引っかかり止まった。
面倒で何も羽織ってこなかったことを俺は後悔した。
今日のハナの様子は明らかに変だった。ぼんやりしていたし、注文を間違えたし、挙げ句の果てにお釣りを千円多く渡そうとした。
そしてさっき、彼女の車が曲がりくねった県道の路肩に停められているのを発見したのだった。車内は無人で、電話を何度かけても出ない。
ついに限界がきたか。
三十分もかかる山の麓のコンビニまで、切れた煙草を買いに行った帰り道。ヘアピンカーブの少し先に停められたパールホワイトの軽を見た時、今度は何事が起こったのかと胸騒ぎがした。
ハナの車のナンバーは「642」、語呂合わせで、「リョウジ」
アイツはずっと前から狂っている。
明らかに脈なしの男がいる家族経営の養魚場で働くなど、超ド級のマゾヒストなのか、気が狂っているかのどちらかとしか考えられない。
それとも、脈なしだということすら理解できないほど馬鹿なのか。どっちにしろ狂っている。
息を整えて体を起こす。日没の迫る斜面には、ひょろりとした樹木が疎らでもなく密でもなく生えている。その幹や枝を手がかりとして、俺は慎重に下ってゆく。
西向きの斜面を真正面から照らす日が、木々の間で薄赤く変わり出した時、はたと気付いた。
じゃあ俺は?
いつも視線をリョウジに向けているハナを見るためだけに、頻繁に養魚場を訪れる俺は?
暗くなりつつある山奥の斜面で、鳥肌の立った剥き出しの腕に傷を付けながら、いるかもわからない女を探している俺は?
ハナも俺も、長い長い一種の自傷行為の最中にいるのかもしれなかった。
勉強すればするほど上がる試験の点数と違い、どんなに努力しても他人の心は変えられない。
水の音が聞こえてきた。近くに沢があるらしかった。
やがて、こちらに背を向けて座る女の、枯れ葉を貼り付けた背中が梢の影に見え隠れした。
何をしているのだろう。しばし立ち止まり呼吸を整える。
近づいていくと枝の折れる音に女が振り向いた。ほつれた長い髪が肩で揺れた。
「ユタカじゃん、どうしたの?」
山の麓のコンビニで出くわした時のような口ぶり。
「こっちのセリフだろ」
俺もハナの右隣に体操座りした。
「何やってんだよ」
「エンストしちゃって」
「なんでエンストしたらここまで下りてくるんだよ」
晴れ渡った空は今まさに、これぞ赤、というべき赤色に染まっている。眼前を覆う樹々の葉を通してなお、その色は薄れずにハナの頬や、膝を抱える腕を染めていた。
「これ」
ハナの右手には草が握られていた。
「何?」
「ほら、この実」
ハナが差し出す草には、卵形の葉に隠れるようにしてポツポツと、小指の先よりも小さい果実が成っていた。夕陽を受け微かに艶めくそれは、深い黒色をしている。どこか不吉な色だった。
「座敷牢の話、覚えてる?」
「座敷牢?」
なんとなく虚ろな表情のハナの言葉にはやはり脈絡がない。
「三人で遭難ごっこしたじゃない?」
座敷牢とハナの持つ草との関連性を、やっと俺は思い出す。
ゾッとした。
「まさかお前……」
「食べてないよ、そんなバカじゃないって」
ハナは草ごと手を胸の前で振った。深い色の粒もヒラヒラ揺れる。
俺は長く息を吐いた。
「心配したんだぞ」
「……ごめん」
「どうすんの、それ」
ハナは答えず俯いた。
よく見ればハナの左側の、斜面にへばりつくように生えている数本の下生えは、全てその草らしかった。俺は目を逸らした。
空を覆う葉の向こう側は紫色に変わりつつある。
小二だった。まだ県道が通る前、ハナとリョウジと俺とで山の中を探検したことがある。三人で毎日のように遊んだ最後の年だった。
リュウジの髪がまだ真っ黒で、ハナは兄のお下がりの半ズボンを着ており、俺の身長が三人の中で一番低かった、あの頃。
しばしの沈黙が流れた。冷気と夜の匂いが満ちてくる。俺は腕をさすった。
「ここってあの時の沢なんだな」
「下って行ってホントに遭難したんだよね」
「アホみたいに怒られたよな」
「人生で一番バカな時期だった。でも人生で最高潮の時でもあった」
コイツ泣くかな。そう思って隣を見るが、濃くなる闇に輪郭が溶け込んで表情が良くわからない。
ただ、慈しむように果実を指でつまんでいるのがかろうじてわかった。
あの日、「遭難ごっこ」が本物の遭難になった後、俺達を探しに来た大人達に叱られている最中のことだった。
ハナが途中で見つけ、握りしめてきた草を見た彼女の曽祖母は血相を変えた。そして三人にそれを口にしていないかを確かめ、あの話をしたのだった。
彼女が子供の頃だと言うから、昭和初期の出来事ということになる。
俺達と同じように山の斜面で遊んでいた少年四人が、沢のそばで小さな実の成る草を見つけ、食べたらしい。「らしい」というのは、彼らのうち三人が泡を吹いて死に、残るひとりは発狂して話がとても通じない状態で見つかったからだ。
その果実に含まれるのは猛毒なのである。
生き残りの少年は確か、ハナの曽祖母の歳の近い叔父……か何かだったと思うが、よく覚えていない。
彼は自分が山犬だと思い込んでいたそうだ。土蔵を改造した座敷牢を四つ足で這い回り、夜になると遠吠えをする。そして徐々に衰弱した結果、一ヶ月後に息絶えたという。
その悲しげな遠吠えが耳にこびりついて離れないとハナの曽祖母は語り、辛そうに目をつむった。