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楽園  作者: あいうえお.
1/6

養魚場

 ずっと昔、まだ私が小さな子どもだった頃、失恋で自殺してしまった人の話を聞いて、とても驚いた記憶がある。

 ひとりの人間に振られたくらいで死を選ぶとは、なんてもったいないことを、と思ったものだ。


 でも今の私には、彼女たち、あるいは彼らの気持ちが痛いくらいわかる。もっとも私の場合、振られてすらいないのだけど。


 どんな死に方がいいだろうか。


 例えば今、右手に持っている包丁を、左の手首に突き立ててみたら。

 包丁は年季の入ったものだけれど、店主が手入れを欠かさないから、さぞかし深くめり込むことだろう。


 たった今、ヤマメの身を削いだ刺身包丁は、私の手の動きに合わせて切先を鈍く光らせる。


「ハナちゃん、定食二、塩焼き三ね!」


 お客さんの注文を受けた店主の奥さんの声が厨房に響く。とたんに叩きつけるような水音や、新緑を通して差す光が戻ってきた。


「はい」と反射的に返事をすると、網に入った五匹のヤマメを渡された。網の中から一匹を掴んで洗い、まな板の上に押さえ付ける。

 私は自分の手首の代わりに、生きたヤマメの腹に包丁を押し当てる。ヤマメの腹が、スパッと裂けた。


 このくらい深く手首を切ったのなら、確実に死ねそうな気がする。


 内臓やエラを取り除き、私は串を手に取った。


 一本の串に頭から尾びれまでを一直線に貫かれたヤマメ。

 清々しいくらいに無惨な死体と化した憐れなヤマメ。


 私はそれを、あと二本作った。


「ちょっとあなた、なに笑ってんの」

 店主の奥さんに言われ、知らぬ間に口角が上がっていることに気付く。

「彼氏のことでも考えてたの?」

 全ての物事を恋愛話に繋げたがる奥さんは言った。


 いいえ、あなたの息子が婚約したせいで死にたいくらい落ち込んで、手首切っちゃおうかと考えてるんです、と言ったら彼女はどんな顔をするだろうか。


「ちょっと思い出し笑いです」

 私はヤマメに塩を塗る。


「まぁまぁ、幸せそうだこと」と言って彼女は刺身の皿を手に厨房を出て行った。

 私はヤマメ達を網に並べた。


 さぁ、ヤマメを荼毘(だび)に付しましょう。


 傷だらけのステンレスの流しで手を洗い、幼い頃から顔馴染みのパートさん達の世間話に相槌を打ち、陰気臭い神棚が私を見下ろす。清流の音と苔むした岩に閉じ込められ、日の光を木々が遮る、山奥のこの養魚場。


 私の逃げ場はどこにもない。


 やがて灰色の煙が立ち昇る。三匹のヤマメ達は開け放たれた窓から旅立ってゆく。

 あわよくば死に損ないの私も道連れにしてしまえ。



 ヤマメはほどよく焦げ目が付き、ふっくらと香ばしく仕上がった。


 私はまだまだ死ねそうにないけど。




 お客さんが途切れた。


 厨房の窓からは、若葉を通してエプロンと白い長靴姿のリョウちゃんが見える。彼の頭にも釣り堀にも、まだらに降る木漏れ日が揺れている。

 養魚場は山の斜面に建っているから、釣り堀の脇に立っている彼を斜め上から見下ろすかたちになる。


 今、釣り堀には家族連れがひと組いるだけだ。リョウちゃんは竿やエサ皿の片付けをしながら、なかなか釣れないでいる彼らをさりげなく見守っているらしい。


 茶色い短髪に少し猫背の彼がどんな顔をしているかは、簡単に想像がつく。

 きっと、少し目尻の下がった目を細めて、水面の下のヤマメの群れと釣り針の動きを抜かりなく観察しているに違いない。そして釣れた瞬間、薄い眉を少しだけ持ち上げるに違いない。


 何しろ私は彼に、物心ついて以来二十年以上も片思いしているのだ。


 しばらくして歓声が上がった。


 リョウちゃんは、幼い姉妹の姉らしい方が釣り上げたヤマメを針から外してやっている。

 家族連れみんなが笑った。リョウちゃんの方も後ろ姿の肩が揺れている。きっと彼が気の利いたことを言ったんだろう。


 リョウちゃんは優しい。親孝行で要領が良くて誰からも愛される、みんなのリョウちゃん。


 さっき山菜を洗っている時、彼に肩を叩かれた。


「あれ、お袋は?」

「今日はもう帰るって」


 夕方から用事があるらしい彼の母親や、パートさんはもう帰ってしまった。繁忙期である大型連休に働き詰めだった店主である彼の父親も、久しぶりの二連休を取っていて不在。


「そういえば、姉貴が子ども連れて来る日だったっけか」

「そう言ってた」


「ハナがいてくれて助かるよ、何でもできるから」

 そう言って私の肩をポンと叩いたのだ。

「ハナはホンットいい奥さんになるよ」


 一番残酷な言葉を残し、リョウちゃんは厨房を出て行った。




 私よりも後に彼を好きになった人に、リョウちゃんはあっけなく奪われた。


「奪われた」という表現はもちろん間違っているけれど、ずっと彼を見つめてきた私からすれば他に言いようがなかった。


 去年の夏の短期バイトに来た私より三つ下の女の子は、たったの一カ月で彼との交際を決め、さらに半年で結婚の約束までもを取り付けてしまった。


 栗色の髪色の快活で積極的な、私とは何もかも正反対の子。

 ハキハキと自己紹介をする彼女を見た時、生徒会の副会長あたりをやってそうな子だな、と思った。


「おい、注文」


 ボソリとした声に振り返る。いつの間にか、ユタカが注文口に立っていた。長身を屈めるようにして窓口からこちらを窺っている。


「ごめん、ボーっとしてた。今日は釣って行かないの?」

「もう締め切ってるだろ」

「あ、そうだった」

 釣り堀の受付はとっくに終了したのだった。


「いつものにする?」

「いや、今回はおにぎりじゃなくて、わかめうどんで頼む」

 ユタカは私の返事も聞かずに別棟の食事処へと向かった。


 ユタカは私の幼なじみであり、ここの常連でもある。いつも人の少ない時にやって来て、水温が高いせいで食いつきが悪いヤマメだろうと瞬く間に二匹釣り上げる。

 そして大抵それらを唐揚げと刺身にするよう注文する。追加でひと皿二個のおにぎりも。


 釣り堀にいた家族連れも釣りを終えて上がってきたから、厨房はにわかに忙しくなった。


「塩焼き三、唐揚げ二、味噌汁一、おにぎり二……」

 ヤマメの重さを量りながら、リョウちゃんが四人分の注文を読み上げる。


「了解」

 私とリョウちゃんで厨房をフル回転させる。

「さっきユタ坊来てたな」

「うん。今日は遅かったね」


 もう廃校となってしまった山奥の小学校にはクラスがひとつしかなかった。同い年であるリョウちゃんとユタカと私とは近所同士、小学校低学年まではいつもつるんで遊んでいた。


 だから私が山の夏祭りでヨーヨーを落として泣いたことや、歩いて行ける唯一の店(今はもうない)で当たったアイスの棒をリョウちゃんが失くしたせいで山道を二時間も探し回ったこと、ユタカが鉛筆をいつも泥棒削りにして担任に叱られていたことなど、バカげた思い出までもを共有している。


 でも私だけ異性なのと、リョウちゃんとユタカとは性格が全く違うのとで、小学校三年生あたりからはそれぞれ別の友達と遊ぶようになった。


 それなのに私はリョウちゃんの店で働き、ユタカはしょっちゅうやってくる。

 リョウちゃんが幼い頃から養魚場を継ぐ宿命を背負っていたのに対し、私もユタカも一刻も早く山を出たがっていたのに。


 なんなんだろうと時々思う。



 山奥の養魚場の厨房は狭い。時おりお互いのエプロンの裾や腕が触れ合うくらいのスペースしかない。


 二人だけでノルマをひとつひとつ片付けていくのは、以前は疑似恋愛をしているみたいで楽しかった。力を合わせてこの養魚場を切り盛りしている、ツーカーの夫婦のような気分に浸ることができるからだ。


 けれど最近では、彼と婚約者が仲睦まじく並んでいるのを見せつけられるよりもキツい。


 風に乗って、食事処から家族連れの声が聞こえてくる。幼児特有の甲高い声が山の冷たい空気を切り裂いた。


「子どもはできれば男がいいけど、女の子二人ってのも悪くないな」

 ヤマメの焼き加減を見ながらリョウちゃんが言う。


「叶姉妹とか阿佐ヶ谷姉妹みたいなのって楽しそうだよね」

「どっちもホントの姉妹じゃないだろ」

「そうだっけ」


 私は盆を持ち急いで厨房を出た。


 ユタカの座るテーブルに食事を運ぶと、彼は怪訝な表情でおにぎりを見つめている。

 ハッとした。


「ごめん間違えた、うどんだったよね」

「別にいい」

 ユタカは早くも割り箸を割っている。

「ごめん、次は気をつける」

「別にいい」


 さっき見た、窓から空に吸い込まれてゆくヤマメの煙を思い出す。




 仕事が終わった。


「今年中にヨメがここで働くことになるから」


 エプロンを首から外す横でリョウちゃんは言った。

「ヨメ」? あぁ、「嫁」のことか。まだ婚姻届も出していないだろうに、「嫁」とは。


「そしたらハナがいろいろ教えてやって」

「……うん」

「一番頼りにしてるから」

「……ありがとう」


「ハナには末長くここで働いてほしいんだよな」


 そう言って笑った。

 リョウちゃんは優しい。私以外の全人類に対して優しい。


 そういうところも含めて全て好きだった。

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