甘ったるい香り
十歳になったその年の夏。
隣に住む幼馴染の茉白蒼と遊ぼうと、携帯ゲーム機片手に、いつも通り家へとお邪魔した。
アオのお母さんが「光哉くん、いらっしゃい」と笑う。それに「おばさん、こんにちは」と返して、二階のアオの部屋へと向かう。これもいつものことだった。
「アオ、今日こそ勝つからな」
部屋に入ると、アオがベッドに胡座をかいて座っていた。机には、既に用意されたオレンジジュースの入ったコップと、ポテチの袋。うすしおだったことは、今でもはっきりと覚えている。
「勝てたらいいね」
こいつはいつもこんな感じだ。
涼し気な顔で、癖ひとつない黒髪の合間から、二重の大きな目で俺を覗き見ては、こうやって嫌味を言ってくる。少しイラつきはするけれど、こうして軽口を言い合うのが、別に嫌いではなかった。
俺は床に座って、ベッドに背中を預けてからゲームの電源を入れた。オンラインに繋いで、二人でルームを作って、いつものように対戦を始める。
パズルゲームでも、格闘ゲームでも、レースゲームでも、俺はアオに勝ったことなんて、ただの一度もなかった。
「くっそー、勝てねー!」
その日もやっぱり何回やっても勝てず、俺はゲーム機を机に置いて天井を仰いだ。後ろでアオが笑う声が聞こえて、それがやけに鼻についた。
と、そこで俺は気付いた。
「あ、れ……? なんか、甘い匂い、しねー?」
すんすんと鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。アオは「そう?」と言いながら、同じように鼻を鳴らした。けれどこいつには何も感じないのか「気のせいじゃない?」と、ベッドから身体を乗り出して、机にゲーム機を置いた。
「いや……、絶対に匂い、が」
すん、とまた嗅いでみる。
身体を乗り出したアオから、その残り香が、やけに甘ったるい。
それを自覚した瞬間から、もう駄目だった。
「え……? どうしたの、ミツ? ミツ……っ」
気づけば俺はベッドに乗り上げて、アオを押し倒していた。
アオの不安と恐怖が入り混じった目が見開かれ、そこには涎を垂らした獣が映り込んでいる。獣のギラついた目は、到底人間とは思えない。
「ミツ? ね、ちょっとミツ!?」
アオの必死な声が、どこか遠くで響く。
自分の身体が、自分の意思とは無関係に動く。
食べたい、食べたい、喰いたい、喰わないと耐えられない。そんな衝動が自分の中で膨らんでいって――
気づいた時には、衣服を着ていないアオが、枕に顔を埋めて静かに肩を震わせていた。うなじ、背中、腰、そこら中に歯型が残り、とても痛々しい。
一体誰が?
そんなこと、自分が一番よく知っている。
口の中に残る甘さ。満足感。
一糸纏っていないのは、俺も同じだった。
「あ、あ……、ごめ、え? アオ、え、まさか、俺……」
机の上のコップを取る。
昨日まで確かに感じていたはずのそれは、もうほんの少しの甘さも酸っぱさも、感じられなかった。
その意味が示すのはひとつしかない。
「俺、俺……、もしかして、“フォーク”……?」
フォーク。それは男女とは別の性であり、差別の対象となっている。発現すると味覚を失って“ケーキ”と呼ばれる性を持つ人を求めてやまなくなるらしい。
ケーキを手にし、食うためならどんなことでもする。それが例え犯罪でも。それゆえに、フォークは発現が確認され次第、強制的に隔離施設へと送られ、一生をその中で過ごすと聞いた。
「施設、に、俺、送られ……?」
施設の暮らしは噂でしか聞いたことないが、いいことは何ひとつとしてないと聞く。
行きたくない。両親の悲しむ顔なんて見たくないし、何より、アオと遊べなくなるなんて嫌だった。あぁでも、と枕に顔を埋めたままのアオを見やる。
こんなことをしてしまうのなら、確かに犯罪者予備軍と言われるのも仕方のないことかもしれない。
「アオ、ごめん。俺……」
「ミツ」
俯く俺の腕を、アオがしっかりと掴んできた。
恐る恐る顔を上げる俺に、アオが「大丈夫」と目尻を下げて微笑んだ。
「これは、このことは、俺たちだけの秘密にしよう。大丈夫。今日は何もなかった。俺とミツはいつもみたいに遊んで、いつもみたいに別れた。そうしよう」
「でも、でも、俺……」
「ミツが施設に行くのは嫌だ。おばさんたちだって悲しむ。だから、これは、二人の秘密」
アオは自分だって辛いはずなのに、気丈に笑ってみせた。それが何よりも辛くて、でも俺もそれに縋るしかなくて、ただただ静かに頷くしかなかった。
※※※
「光哉、早く起きて」
「んお……!?」
被っていた布団を力任せにはがされ、俺は変な声を出してベッドから転げ落ちた。痛みで頭を押さえながら目を開けば、天と地が逆さまになった幼馴染が見えた。いや、逆なのは俺なんだけど。
高校に入ってから染めた茶髪。そこから覗く黒目が、俺を蔑むように見下している。
「いてぇな、蒼。もう少し優しく」
「いつも時間ギリギリなのが悪い。早くして。遅刻する」
「へいへい」
幼馴染の蒼はクローゼットから俺の学ランを取り出し俺に放り投げ、それから「ん」と人差し指を突き出してきた。
「……いただきます」
「ん」
その指先を軽く舐める。
甘すぎるその極上の料理は、蒼がケーキであることを示している。そして俺がフォークであることも。
あの日から八年。
俺は、俺たちは、互いがフォークとケーキであることを隠して、日々生きている。




