私は私を知らなかった。
私は、私の顔を知らなかった。
正確に言えば、はっきりとは知らなかった。
何しろ私の住んでいた田舎では、綺麗に映る鏡なんてほとんどなかったから。
一番綺麗に映るのは、お母様が使う銀を磨き上げた鏡。
毎朝毎朝専門のメイドが磨き上げた鏡を使えるのは、お母様だけ。
私は桶に汲んだ水に映したり、窓ガラスに映したり。
だから、私は私の顔をはっきりとは知らなかった。
自分で言うのもなんだけれど、どうやら私は可愛いようだった。
会う人会う人みんな、私のことを可愛いと言ってくれた。
だけど、この辺り一帯を治める領主、伯爵の娘である私におべっかを使わない人間なんて多分そうはいない。
ほんとかな? と思っていたある年、誕生日のプレゼントにお母様が鏡をくださった。
……銅の鏡だったけれど。おまけに、専門のメイドなんていないから、自分で磨くか側付きのメイドが手が空いた時に磨いてくれるか。
だから元々あまり綺麗な映りじゃなかったし、一月もすれば更にぼんやりとした映り方になっていった。
はっきりと知ることになったのは、15歳になった年のこと。
王国貴族の子女に義務づけられている、貴族学院への入学のため王都にやってきた時だった。
驚いたことに、王都ではガラスに金属膜を貼り付けた鏡がそれなりに普及していたのだ。
魔法を使って作るので、庶民が手を出せるものでもないが、伯爵家どころか男爵家でも持っている家がそれなりにあるという。
これがなんで田舎では普及していないかと言うと、運ぶ途中で割れるから。
言われて納得しちゃったわ、道中の馬車は本当にガタガタと揺れていたから。
むしろ私のお尻が割れちゃうかと思った……なんて言ってるのを知られたらお母様に怒られちゃうわね。
ともあれ、生まれて初めてはっきりくっきりと私は自分の顔を見た。
……なるほど、美少女だ、と思ったわ。
田舎住まいではあったけれども、特産の香油と石鹸を使ってメイド達が磨き上げてくれた黒髪も肌も艶があり、ぱっちりとした青い瞳は目を引くような印象の強さがあり、ぷっくりとした唇は愛らしさを演出してくれている。
これはもてる、とか思ったのは許して欲しい。
実際、田舎の伯爵領ではめちゃくちゃもてた。近辺の子爵領や男爵領から令息達がこそこそ見に来てたとか言われてたし。
だから王都でもいけるんじゃない? とか思ったのだけれど……世の中甘くなかった。
いや、顔の造りは負けてないと思う。むしろ結構上位の方なくらい。
だけど、何かちがう。多分同じ家格であるどこかの伯爵令嬢と並び立ったら、私は選ばれない。
何故だろうと思いながら学園に通うこと数日。
私は、その理由に気付くことが出来た。とある出会いによって。
「あなたがイーヴァル伯爵のご息女?」
と食堂で私に話しかけてくださった美女。美少女ではなく、美女。
いや、年齢は同じはずなのに、こう、美少女という概念を越えた存在に私は出会った。
手入れの行き届いた豊かな金髪にきめ細やかな肌、成熟したプロポーション、華美でないのに質の高さが伝わってくるドレス。
けれど一番目を引くのは、その瞳。私と同じような青色のはずなのに、まるでその輝きの色が違う。
ただ立っているだけでも目を引かれるのに、彼女が少し動くだけでもう目は釘付け。
存在自体が美の結晶とでも言うべき存在。
それが、公爵令嬢アンジェラ様との出会いだった。
「は、はい、初めてお目にかかります、イーヴァル伯爵が長女、ラヴェンナと申します」
慌てて立ち上がり、淑女の礼をしながら自己紹介をする。
……したのだけれど。なんだろう、凄く恥ずかしい。
くすり、とアンジェラ様が小さく笑った音を聞けば、かぁ、と顔に血が集まるのを感じた。
そっと窺うようにしながら少しだけ顔を上げれば……良かった、嘲りだとかそういう類いでなく、微笑ましいものを見るような顔で笑ってらっしゃるだけだった。
これで嘲りや侮蔑の目でも向けられていたら、多分私の心は折れていたと思う。
「楽になさって、イーヴァル様。こちらにいらしたばかりだから緊張しているのでしょうけれど、あまり肩肘張らなくてもよろしくてよ?」
そう言いながら微笑んでくれるアンジェラ様。お優しい。
嫌味ではなく、本当に心から思ってくれているみたいで、嬉しい。
意外に思われるかも知れないけれど、田舎ものだからといって純朴な人間ばかりではない。
何せ閉鎖的な社会だ、ちょっとした行き違いでもあればすぐに広まり、いつの間にか遠巻きにされたりするため、皆それなりに空気を読む能力を身に付けている。
あるいは、何も考えず自分にだけ正直に生きていたらあちこちで衝突を起こすため、ある程度自分をナチュラルに偽って暮らす、なんてのもよくあること。
だから、人の裏だとかにもそれなりに敏感なつもりだ。流石に王都の社交界で鍛えられまくった人には負けるだろうけども。
そんな私の感覚では、アンジェラ様は心から言ってくれているように思う。
「ありがとうございます、正直に申し上げまして、右も左もわからず……」
アンジェラ様の許しが出たので、私は顔を上げきって普通に立つ姿勢を取った。
……なんだろう、普通に立ってるのに、何かアンジェラ様との格の違いを感じる。
私とアンジェラ様で、何が違うんだろう。
そんなことを考えているせいか、表情も若干硬くなってる気がするけれど……アンジェラ様はあまり気にした様子はない。
「そう、でしたらご一緒しませんこと? 我が国を支える穀倉地帯のお話などをお聞きしたいのだけれど」
「あ、こ、光栄でございます! そういうことでしたら、是非ご一緒させていただければ……」
思わぬ申し出に、うっかり大きな声を出してしまって、慌てて声を落とす。
しがない伯爵令嬢が、まさか王家の血を引く公爵家のご令嬢とお近づきになれるだなんて。
私は、生まれて初めて田舎生まれであることを感謝した。
ところが、それだけでは終わらなかった。
「やあアンジェラ、抜け駆けはよくないんじゃないかな?」
「あらラファエル。抜け駆けだなんて人聞きの悪いこと言わないでもらえるかしら」
「いやいや、イーヴァル家との縁はうちだって強くしたいところなんだ、牽制の一つもしたくなるというものじゃないか」
突如現れた、爽やかな笑顔のイケメン。
スラリとした長身、さらさらの金髪、紫色の瞳。……紫色の瞳? おまけに、公爵令嬢であるアンジェラ様とこれだけ気安く会話をする、ラファエル様。
私は、慌てて淑女の礼の中でも最敬礼の姿勢を取る。
「おや。……ふふ、楽にしてくれ、イーヴァル伯爵令嬢。名前だけで私の素性を察するとは、中々聡いね」
「お、お褒めに預かり、光栄に存じます」
楽にしてくれと言われ、お声がけをしていただいたので、私は顔上げてお礼の言葉を返す。
滅茶苦茶動きがぎこちなくなっているし、顔も強ばっているのが自分でもわかるくらいだけど。
もうおわかりかも知れないけれど、目の前にいらっしゃるラファエル様は、この国の王子様。
それも第一王子で、もうすぐ立太子するともっぱらの評判な方だ。
絵姿でしか存じ上げなかった方なのだが、こうして直接お会いすると高貴なオーラ的何かを感じるので、すぐに察することが出来た。
彼は私やアンジェラ様の一つ上で、学院の二年生。だから、この場にいること自体は不思議じゃないんだけど。
うちとの縁を欲しがるっていうのは、かなり予想外なお言葉だ。
「さてイーヴァル嬢。先程言ったように、我が王家としてもイーヴァル家が持つ穀倉地帯の話は押さえておかないといけない重要事項だ。
もしよければ、アンジェラと一緒に話を聞かせてもらえないかな?」
「は、はい、もちろん喜んで!」
ラファエル殿下に誘われて、断るなんて選択肢はもちろんない。
……ちょっとだけアンジェラ様が拗ねたような顔をなさっていたのが申し訳ないけれど。
第一王子と公爵令嬢、この学院における男女のトップお二人とお話が出来る機会に、私はすっかり浮き足立っていた。
そして、その夜。
「う~……だめだ、美しくない……」
私は、自室でへこんでいた。
お二人との会話は、凄く実りあるものだった。我が家の立ち位置も確認出来て、正直誇らしさも味わえた。
だけど同時に、私個人の至らなさに打ちのめされもしたのだ。
何しろ同席しているのが令嬢の最高峰とも言えるアンジェラ様。
お茶を飲む時のカップの持ち方から口元への運び方から、そんなところから全然違う。
思わず見蕩れるほどに美しかった。
そして、もちろんそれはラファエル殿下も同じ事で。
私一人が酷く浮いた存在に感じられて仕方なかった。
「こんなんじゃ全然だめだ~……」
もてるかも、なんて浮ついたことを思った自分を罵倒したい、とかまで思う。
それくらいに、お二人と私とでは、何もかもがというレベルで違ったのだ。
「……こうだったっけ? こう? こう?」
思わず、鏡に向かってカップを持つ仕草の確認をしてみるけれど、どう違うのか、わかるようなわからないような。
いや、所作だけじゃない。
座っている姿、立ってる姿、そんな姿勢ですら何かが違う。
私は、美しくない。
少なくとも、アンジェラ様と比べたら、全然美しくない。
これじゃ、ラファエル殿下の隣になんて座ってられない。
というか、ラファエル殿下とその婚約者候補と噂されるアンジェラ様は滅茶苦茶お似合いで、このままじゃ近づくことすら憚られる。
「こんなんじゃ、だめだ」
田舎でもてていた、可愛い田舎もの。
私はきっと、田舎だからもてていたんだ。
多分このままだったら、微妙に垢抜けない田舎もので終わってしまう。
「……それは、嫌だな……」
そんなことを思ってしまう。
今のままだったら、話題が尽きたらラファエル様やアンジェラ様との縁が切れてしまう。
金の切れ目が、ならぬ話題の切れ目が。ある意味で金の切れ目よりも情けない。
それは嫌だと、心から思う。
「なら、美しくならなきゃ!」
私はそう決意した。
可愛いだけの田舎娘ではなく、美しい淑女に。
そう、アンジェラ様のように。
そうしたら、話題が尽きてもラファエル様の隣にいられるかな。
そんな淡い期待とともに、私の努力が始まった。
まずは礼法の先生に泣きついて、基礎の基礎、姿勢を徹底的に直すのに付き合ってもらう。
ひたすら立って歩いて、立って歩いて。綺麗な姿勢を作って、それを崩さないように歩いて。
あれからじっくり観察しているのだけれど、アンジェラ様はまずそこから違うことに気がついたから。
だからまずは、どんな時でも崩れない体幹とそれに支えられた美しい姿勢を磨き上げることにした。
多分、小手先の所作を磨いても、本当の美しさは得られないと思ったから。
そしてどうやらそれは正解だったらしく、徹底的に鍛えた後に所作の指導もお願いしたら、思ったよりもスムーズに習得が進む。
姿勢が正しくて体幹もしっかりしているから、例えばカップを手にする時でも余計な力なしにカップの重さを支えられる。
神経を張って背筋を伸ばしコントロールする訓練を繰り返していたからか、指先にまで神経を行き渡らせる感覚は割とすぐ掴めるようになった。
後は柔らかさを意識して……アンジェラ様の所作をイメージしながら。
そんな動きを先生の前で繰り返し、鏡の前でセルフチェックも繰り返して。
「ねえラヴェンナ、あなたにプレゼントしたいものがあるのだけれど」
ある日、アンジェラ様が私に贈り物をしてくれた。
それは、二面鏡と呼ばれるもので、真ん中で丁度90度になるように曲げると、普通の鏡と違って左右が反転していない像を見ることが出来る。
これを使うと、セルフチェックの時に感じていた違和感もなくなり、ますます練習が捗ることになった。
……なんでも、私の所作を見ていて左右逆の状態でチェックしているんじゃないかと気付いたのだそうな。
流石アンジェラ様、そんなところも尊敬します、大好きです。
ちなみに、こうした努力を続ける内にアンジェラ様は私のことを『ラヴェンナ』と名前呼びをしてくださるようになったし、私も『アンジェラ様』とお名前で呼ぶことを許していただいた。最高か。
また、私の自分磨きはそれだけでは終わらない。
「ラヴェンナ、先日のレポートについてちょっと君の意見を聞きたいのだけれど」
「これはラファエル様、私の意見でよろしければ」
こんな感じで、ラファエル様と意見を求めてもらえるくらいに勉強も頑張っている。
というのも、私が感じたアンジェラ様の美しさの正体は、姿勢や所作だけではないと気付いたからだ。
最初に出会った時に感じた、強い印象を与える目。
あれは、磨き上げた知性と教養に裏付けられた自信から来るものだと、一緒に過ごす内に気がついた。
だから私は勉強にも励み、わからないところは先生を掴まえて質問し、許されるタイミングであればアンジェラ様やラファエル様も質問攻めにした。
いつの間にか私はアンジェラ様やラファエル様と並び称される程に知識教養を高めることが出来た。
そのことに、安堵した。
学び続ける内に、あることに気がついてしまったから。
だから私は、アンジェラ様に並ぶと認められなければならなかった。
こうして私は、所作は鏡の中の自分とアンジェラ様を見比べながら。
学問はアンジェラ様とラファエル様を目標に鍛えながら。
三年間研鑽を続け、ついに迎えた卒業の日。
「私は、イーヴァル伯爵令嬢ラヴェンナを、我が婚約者とする!」
卒業パーティの会場でラファエル様が宣言するのを聞いて涙を流し、滲む視界の中、アンジェラ様に手を取って導いていただきながら壇上へと上がった。
もちろん会場内はどよめき、「何故アンジェラ様ではないの?」という声も聞こえている。
けれど、こうなったのも必然ではあったのだ。
何故ならば、ラファエル様とアンジェラ様では、血が近すぎるのだ。
ただでさえ従兄弟同士と血縁が近い上に、王家も公爵家も、互いに互いの血を幾度も交わしているため、もしもラファエル様とアンジェラ様が結婚して子を生せば、その血が濃くなりすぎる。
だから、アンジェラ様とラファエル様が結ばれることは、最初からなかったのだ。
お二人があれだけ仲が良かったのは、従兄弟同士だから。
それと、もう一つ。
「つまり篩に掛けていたわけね。私には勝てない、なんて尻込みするような根性なしには王妃なんて務まらないもの」
なんて、後からアンジェラ様が種明かしをしてくれたものだ。
そんな中で私にピンとくるものを感じたアンジェラ様は私に近づき、私は知らない内にその期待に応えていたというわけ。
まあ、女性のトップに立つのだから、それくらいの試練は当然なのかも知れないけれど。
こうして私はラファエル様の婚約者に収まり、ほのかに感じていた想いはいつしかふくらみ、愛へと昇華していった。
ラファエル様も、研鑽の日々の中でいつの間にか私のことを好ましく思ってくださっていたのだとか。
おまけに王家と穀倉地帯を抱える伯爵家の縁も強まったのだから、言うことなし。
……政略がおまけになっているのだから、これはとても幸せな結婚と言えるのではないだろうか。
けれど、これはあくまでも現時点での話。
少しでも自分を磨くことを忘れてはすぐに曇ってしまうことだろう。かつて手にした銅の鏡のように。
そうなっては、王となるラファエル様の隣に立つ資格を失ってしまうし、私を導いてくださったアンジェラ様にも申し訳が立たない。
これで肌が雪のように白ければ完璧なのだけれど……と思うこともある。
田舎生まれで田舎育ちな私の肌は、ほんのり色がついている。
美白に努めてはいるのだけれど、これが中々……もっとも、ラファエル様は気にしないでくださるし、他の皆も私を美しいと言ってくれるのだけれど……でも、それでも少しでも、と思ってしまう。
何故ならば、アンジェラ様が他国へと輿入れされることが決まったから。
あの方がこの国を離れた後、私は、常にこの国で一番美しい女性でなければならないのだ。
だから私は、今日も鏡を見つめながら、自分へと問いかけるかのようにこう呟く。
「鏡よ鏡よ鏡さん、この国で一番美しいのはだぁれ?」
と。
※ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
もしも『面白かった』『そう来たか!』と思っていただけましたら、下の方にある『いいね』や☆マークで評価していただけると、大変励みになります!